闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第七十節/超克の蒼き炎 中】

 地下通路を走りながら、カナンは先ほど覚えた違和感に思いを巡らせていた。

 まず最初に、ベイベルは自ら「門」と称する術を使い、天火アトルの流れ出る魔法陣を作り出した。彼女の攻撃や防御は、基本的にそこから引き出した天火を利用することで成り立っている。
 だから、ペトラとカナンの連携が成功した時点で、確かにベイベルは天火を使い切っていたのだ。イスラの剣が黒炎を吸収出来なかったことがその事実を証明している。

 しかし、それは決定的な隙にはなり得ない。彼女が「門」との接続を遮断されたのは、ペトラの召喚した岩壁が双方を遮っていたからだ。それが無くなればすぐにでも天火の供給は再開される。
 加えて、イスラの剣を受け止めた際の傷は、展開する黒炎に関係なく回復した。たとえ炎の障壁が存在しなくても、ベイベルは依然として自己回復の手段が残されているのだ。


 ――でも、それならどうして「門」が必要になるの……?


 カナンの感じた違和感は、まさにその点にあった。

 ベイベルが無尽蔵の天火を持っていることは事実である。が、彼女はそれを使用するに際してわざわざ「門」を介して術を発動させているのだ。これは明らかに無駄な行為に思えた。

 仮に、継火手を資産家、天火をその財産と置き換えて考えてみる。

 資産家は、当然ながら財産の使い方について精通しているし、金庫も自分の家に持っている。だがベイベルの場合、本人と資産さえあれば良いはずのところを、わざわざ仲介人に頼っているようなものだ。
 当然、銀行に資産を預ければ正しく安全に運用してくれるだろう。だが、資産を自由に扱うことは出来なくなってしまうし、引き出す際にも色々と面倒な手続きを背負い込まなければならない。

「カナン、何か思いついたのか?」

 隣を走っていたイスラが尋ねる。カナンは少し言い淀んでから、自分の考えを打ち明けた。

「……もしかしたら、あの人の天火の制御力には限界があるのかもしれません」

「何でそう思うんだ?」

「あの人が門を開いた理由が、それ以外に思いつかないんです。私は詠唱さえすれば直接天火を使えますけど、あの人はわざわざ補助の術式を組んでから戦い始めている。そう……水門と同じで、決壊や氾濫を防ぐための術なんです」

「なるほど、なまじ力が大き過ぎるから、全力を出すわけにはいかないってことかい?」

「そういうことです」

 ペトラは昔のことを思い起こしてみた。生まれたばかりの赤ん坊が、法術など使えるはずがない。あれはベイベルの悪意ではなく、事故のようなものだったということになる。

「……まあ、それが分かったから何だ、って感じだな」

「……」

 イスラの言う通り、それが分かったところで何かが変わるわけではない。全力どころか遊んでさえいるベイベル相手に、こっちは必死の防戦を強いられたのだ。
 それに、これまでの敵と決定的に違うのは、いくらダメージを蓄積させても意味が無いという一点に尽きる。まさにその点において三人は追い詰められているのだ。

 殺せない敵は倒せない。

 ならばもう、逃げる以外に手立てなど無いのだ。

 通路を駆け下りた三人の前に、発着場へと続く橋が姿を現わす。
 橋の上には不要になった馬車や瓦礫を積み上げて作った即席のバリケードが出来ていた。その上には弓や槍を構えた戦士たちが陣取っている。ここでベイベルや不死隊を迎え撃つつもりなのだ。

「ペトラー! 無事かー!?」

「何やってんだ、お前ら逃げろ!」

 ベイベルの圧倒的な力を見た後では、彼らの行為は命知らずを通り越して呑気にさえ思えた。さっさと逃げるように促すが、まだベイベルの前に立ったことのない彼らは、魔女を弓や槍で殺せると思い込んでいた。

 通路から黒い天火が噴き出す。首から上を炎で包んだ女が一歩ずつゆっくりと、だが着実に歩を進めてくる。黒炎が薔薇の花弁のようにその周囲を渦巻き、溶鉱炉の放つような熱波が居合わした人間を圧倒した。その迫力に向こう見ずな兵士たちもたじろいだものの、今さら引くわけにはいかなかった。

 先走った誰かが矢を放つ。弓弦ゆづるの鳴る音に触発されて次々と矢が射掛けられるが、それらは全て黒炎の放つ熱波によって軌道をそらされ、ベイベルにかすりさえしない。

「無理だ……逃げろ!」

 バリケードの上によじ登ったペトラは叫ぶが、仲間の耳には入らない。誰もが歩く火柱に恐怖し、かつ魅入られていた。ベイベルの頭を包む黒い炎は、まるで逆立った髪のようだった。

 岩堀族の技師たちが次々とゴーレムを召喚するが、ベイベルはそれらを一瞥もせず次々と粉砕していく。あるものは天火の熱で溶解させられ、またあるものは拳に集中させた天火で撃ち抜かれた。

 バリケードの前に至ったベイベルは、再生した左半分の顔を歪めた。

「結構な歓迎ぶりだ。そうこなくてはな、余も張り合いが無くて困る」

 声を張り上げ、ベイベルは両腕を高く掲げた。その頭上にある炎の門が輝きを増す。

「我は御前みまえに伏す者也、巧みなる歌と踊りと共に、全焼のにえを差し出さん。豊饒神の饗宴マルドゥックス・フェイト

 詠唱とともに門から炎が流れ出し、居並ぶ人間の頭上を覆った。炎の傘は端から徐々に千切れ、まるで流星のように方々へと飛び散っていく。狙いはつけられていないが、かえってどこに落ちるのか分からず、誰もが迂闊に動けなくなってしまった。

 だが、壁や橋にぶつかった炎の塊は次々と形を変え、大坑窟の虚空を舞い踊った。揺らめくそれらは狂乱する踊り子へと姿を変え、けたたましい嬌声とともにイスラたちの目の前をかすめていく。そのうちの一体に抱きつかれた戦士が瞬く間に消し炭になったのを見て、魅入られかけていた他の者たちに動揺が広がった。

「カナン、どうにかならないのかい!?」

「無理です! 数が多すぎて……!」

 法術で対抗しようにも、こうもランダムに動かれては狙いがつけられない。カナンに出来ることは、接近してくる踊り子を杖で払いのけることくらいだった。

 ベイベルが片手を振るう。波のように黒炎が押し寄せ、バリケードはあっさりと崩壊した。イスラは刀身を口に咥え、片手でカナンを、もう片方の手でペトラを抱きかかえると、二人分の重さも物ともせずに橋の上へと飛び降りた。
 だが、ベイベルの術に圧倒されていた他の戦士たちは、そうはいかなかった。何とか転がり落ちた者は幸いで、足を踏み外して奈落の底へ落ちる者、残骸の下敷きになったまま踊り子に抱き着かれた者の断末魔が、踊り子たちの嬌声とともに大坑窟の闇を満たした。

「皆っ……よくも!」

「っ、おいっ!」

 イスラの手を振りほどき、ペトラは魔導書に挟んであった全ての鉄片を投げつけた。

「我、真理を探る者也! 頑なな者よ汝に命ず、泥となれ!!」

 叫ぶような詠唱とともに鉄片の血文字が光を発する。物理的に倒すことが出来ないのならば、戦場から排除するまで。橋を泥化させて落としてしまえば、いくらベイベルでも復帰することは出来ない……激高していながらも、ペトラは頭の片隅に冷静さを残していた。

 だが、術は発動しなかった。効力を発揮するよりも先にベイベルが指を鳴らし、鉄片を残らず蒸発させてしまった。

「なっ……」

「手品の種は尽きたか?」

 ベイベルは冷然と言い放った。片手で擱座かくざしたゴーレムの腕を引き千切り、ペトラに向かって投げつける。ペトラは咄嗟に岩壁を建てようとするが、もう手元に札は残っていない。
 イスラが直前で引っ張らなければ、ペトラはゴーレムの腕で潰されていただろう。だが、飛び散った石が頭にぶつかり、ペトラの意識を奪った。

 それが崩壊の合図になった。生き残った者は武器を放り出し、我先に橋の反対側へ向かって走り出す。

「く、ククッ、ふ、ハハハハハッ! 見るが良いカナン! 力を持たぬ者のなんと哀れなことか! 粋がって余に楯突いた結果がこれぞ! 奴らめ、ようやく余が何者か分かったと見える!」

 ベイベルが片手を上げる。カナンが止めるよう命じるよりも早く、イスラは駆け出していた。だが炎の壁が幾重にも立ち塞がり、イスラの接近を妨げる。剣で黒炎を斬り払うが、その時にはすでに、ベイベルは詠唱を終えていた。

「我が黒炎よ、汝は崩れる御柱也。その轟にて万民を散らせ。天柱の倒壊アンシャル・コラプス

 黒炎の踊り子たちが一か所に寄り集まり、巨大な塔を形作る。一瞬間だけ完全な姿をとった後、まるで雪崩でも起こすかのように炎の波が降り注ぎ、逃げようとしていた戦士たちをまとめて焼き殺した。一瞬で炭になった者はまだましで、腕や背中に炎を浴びた人間は悲鳴を上げながら橋の上を転がり、水を求めながら息絶えていく。

 一人の戦士が、火達磨になりながらカナンの元へと近寄り手を伸ばした。炎にまかれた肌はめくれあがり、目玉は蒸発して眼窩だけがぽっかりと空いている。手遅れと知りつつ、それでもその手を取ろうとカナンは腕を伸ばすが、直前で相手の身体は燃え尽き崩れた。

ほうけるな!」

 イスラの叱咤が無ければ、カナンはその姿勢のまま数時間立ち続けていたかもしれない。何とか意識を現実へと引き戻し、ベイベルを見やる。もう逃げることは出来ない、戦う以外に選択肢などなかった。たとえ勝てる見込みが無いとしても。

 そんな悲壮な決意を固められるのは、イスラが彼女の前に立って、ベイベルに必死に食らいついているからだ。彼女の秘蹟サクラメントに守られているとはいえ、高熱で皮膚の表面は焼けているし、水分は全て汗となって飛び散っている。火口のすぐ近くで戦っているようなものなのだ。
 殴られ、脱水症状に陥りながら、それでもイスラの戦意は衰えない。むしろ彼は、ベイベルの拳や蹴りの軌道を読み始めていた。ギデオンやカナンに言われた、攻撃線を読むという教えが、実戦を通じてようやく実を結びつつあった。

 そして何より、カナンの守火手であるという自覚が彼を奮い立たせている。たとえ勝ち目がないとしても、せめてカナンを逃がすだけの隙は作って見せる……イスラもまた、死を覚悟していた。

 蹴りを回避し、逆袈裟に斬り上げる。左手でベイベルの紫色の上衣を引っ張り視界を奪った後、左足に剣を叩き付けて骨をへし折る。

 ベイベルの動きが止まった。

「これでッ!!」

 剣を抱くような格好で、一直線にベイベルへと突っ込む。両手で握った剣を深々とその腹に突き立て、背中まで貫き通した。


「……見事な敢闘ぶりだ」


 それでも、魔女は倒せない。

 ベイベルはイスラの顔を覗き込み、目を細めた。

「獣の如き闇渡りよ、お前は余を恐れておらんな」

「……当たり前だ。ビビったところで何になる」

「ククッ、そうほざいていられるのは貴様が野蛮だからだ。人間には人間の恐怖を与える。故に……獣には獣の恐怖をくれてやろう」

「ッ!」

 イスラが剣を引き抜くより早く、ベイベルの両腕が肩を掴んだ。万力のような力で締め上げられ骨が軋む。カナンの逃げろという叫びさえ虚しく響くだけだった。
 認めたくはないものの、その時確かにイスラは恐怖を覚えた。それも蛇百足の夜魔やティアマトと戦った時ではなく、いつだったか虎に襲われた時に感じたのと同種のものだった。

 ベイベルが口を開き、イスラの首筋に歯を突き立てた。血を啜るという生易しいものではない、猛獣の如く噛み千切る。
 傷口から血が迸り、ベイベルの口元を真っ赤に染め上げた。

 自分の肉や血管が噛み潰される音を聞きながら、なおもイスラは突き立てた剣を捻りあげていた。刀身を真横に倒し、鋸を引くように内臓を引き斬っていく。

 それは、虎に喰いつかれた狼が、最後の力を振り絞って爪を立てているような、壮絶な光景だった。


「まだだ……まだッ!!」


 まだ倒れはしない、どんな動物でも首の血管は厚い筋肉で守られている、人間の歯は虎や狼のようには出来ていない、どれだけ派手に出血しようが所詮見掛け倒し!

「お前なんかに、ビビってたまるかァ!!」

「なら死ね」

 ベイベルの膝蹴りがイスラの腹を穿つ。くの字に折り曲がったがら空きの身体に炎を纏った拳が撃ち込まれた。

 腹から血の絡み付いた剣が抜け出る。気を失うような一撃を受けてもなお、イスラは剣を手放さなかった。

 それでも、もう立つことはおろか指一本動かすことは出来ない。

「イスラ……?」

 カナンは目の前に落ちてきたイスラの身体を揺さ振った。首からは血が流れ、腹には痣と火傷の痕が刻まれている。呼吸は散々に乱れていた。


「余が恐ろしいか?」
 

 喜悦を交えた声でベイベルが問う。


「大した男だ。ホロフェルネスとて、余が痛めつけた時は恐怖を隠さなんだ。しかし力の差は歴然、実力に見合わぬ威勢は惨めなだけだ」


 靴音を響かせながらベイベルが近付いてくる。


「それに、もうお前の気力は存分にへし折ったであろう。その闇渡りはお前の精神の支えであったはずだ。もうお前を守る者は誰もいない。お前は余の前にただ一人きりだ」


 ベイベルの言う通り、カナンは途方に暮れていた。もう誰も守ってはくれない。圧倒的な力を持つ魔女の前に、彼女はたった一人で取り残された。天火もすでに尽きかけている。

「それでも……」

「うん?」

 カナンは杖を構えて立ち上がった。

 あの水門でイスラがいなくなった時、自分は何も出来ずに立ち竦むばかりだった。その後も何度も醜態を晒したし、自分の弱さを嫌と言うほど思い知らされた。
 そんな自分を、皆は信じてくれた。イスラは最後までベイベルに食らい付き、ペトラやオルファは自分に望みを託してくれた。それを裏切るわけにはいかない。

「私はもう……恐れない。貴女がどんな力を持っていようと、貴女がであろう、と……?」

 自分が無意識に吐いた言葉に、カナンは違和感を覚えた。
 そして、次にベイベルが何を言うか、すとんと頭の中に浮かび上がった。



「「まだ、余が何であるか分からんのか」」



 ベイベルの顔に動揺が浮かぶ。カナンはそれを見逃さなかった。恐らく、ベイベルが致命的な隙を晒したのは、これが初めてだろう。この言葉を返されること自体、初めてであったはずだ。

 全てのピースが埋まった気がした。カナンの頭の中で、これまでの全ての言葉や出来事が音を立てて組み合わされていく。


「そんなの……答えなんて、一つしか無い……」


 勝利への道筋を、カナンは捉えた。


「ベイベル。貴女は人間よ」

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