闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第三十五節/父の愛】
アラルト山脈上空の黒い雲を突破した時、生存者はわずか二三名にまで落ち込んでいた。七十羽を数えたシムルグも、いまやその半数もいない。
だが、襲い掛かるティアマトの数を考えれば、全滅しなかったことがまず奇跡的であった。
イスラとカナンはさほど消耗していないが、里人たちの疲労は深刻だった。老人たちは言わずもがな、トビアもこれほどの長距離を移動したのは初めてだった。トビトは精力的な男だが、それでも激戦の中を縦横無尽に動きつつ指示を飛ばしていたので、心身両面においてひどく疲労していた。むしろ、重圧を抱えつつ的確な指示を出し続け、しかも前線で戦っていたのだから、超人的と言っても良いほどの働きぶりだ。
彼の戦いをすぐ近くで見ていたカナンは、もしこの男が仲間になってくれたら、エデンの探求もずいぶん楽になるのではないかと思った。風読みの里は確かに小さな共同体だったが、それを崩壊させずに保ち続けた点や、思い切りの良い脱出作戦と言い、能力的には煌都の高級官僚として通用するだけのものを持っている。
二週間ほど前、里に着いた翌日のことだ。カナンはトビトに対して自分の計画を打ち明けていた。計画とは言っても、現時点ではそこまで現実味を帯びてはいない。だが、様々な資料や史跡の存在から、かつてエデンと呼ばれた都市が存在することは事実である。
復活させる手段についても、カナンはいくつかあたりをつけていた。エデンを探す道中で、並行してそれらを見つけていくつもりだと語った。
エデンを見つけて、そこの運営を軌道に乗せる……ずいぶん気の長い話だと、彼女自身そう思う。
だが、希望にはなるはずだ。
里を失った彼らが、これから困難に直面することは想像に難くない。だが、そんな中にあっても一つくらい、救いになるようなものがあっても良いのではないか。
もちろん現時点でついてきてもらうことは出来ないが、エデンを発見した後、運営者の一人として助力を乞えないだろうか……。
――なんて、今考えても仕方が無いけれど。
まだ見つけてさえいないエデンに思いをはせたところで、何の意味も無い。ただ、風読みのトビトの名前は、憶えておくだけの価値がある。
「カナン様、見えてきました」
ハッと顔を上げると、決して遠くない位置にウルクの大燈台の光が見えた。闇に包まれた世界にあって、そこだけが明々と照らしだされている。まるで純金の泉のようだ。ここしばらく、煌都の天火から離れて生活していただけに、その光は一層眩しく見えた。
だが、その光の中に入っていけない人々も、この世界には数多く存在している。
「トビトさん、あの」
「貴女のおっしゃりたいことは分かります。ですが、どうかご心配なさらないでください」
「……はい。大変だとは思いますが」
「それは、もう必要のないことですので」
トビトの言葉の奇妙さに意識が及んだ、その瞬間。
足元から、無数の風切り音が沸き起こった。
警告する暇も、回避を促す時間もなかった。巣をつつかれた蜂のように矢が殺到し、次々とシムルグと人間を打ち落としていく。風読みの老人たちが怒号を上げるが、それさえかき消すほどの音が空中を支配している。
押し寄せる弾幕を縫うように、トビトはシムルグを降下させていく。その手綱さばきは熟練の風読みにしか出来ないことだろうが、カナンには彼の冷静さが怖かった。
「トビトさん!」
カナンは叫ぶが、トビトは無言のまま手綱を操っている。その背中からカナンは、この状況をトビトが望んでいたのだと察した。その理由は分からないが、自分たちが誰から攻撃を受けているのかだけは分かる。
「どうしてウルク軍が……! 手紙を出したのではなかったのですか!?」
眼下を見下ろすと、ウルクの前方に広がる平野に二千人以上の兵士が展開していた。先ほどまで真っ暗で何も見えなかったが、今は天火を持ち出して上空に狙いを定めている。じきに矢だけでなく法術も飛んでくるだろう。
「確かに、手紙は出しました」
「それなら何で……」
まさか、とカナンは呟く。こんな時に即座に理解出来てしまう察しの良さが、今は恨めしかった。
「出したのは、ウルクの反抗勢力宛ての手紙です。そんなものが実在するかは知りませんが、これだけの兵力を伏せていたことを考えると、どうやら本当にあるようですな」
あるかどうかも分からない反抗勢力に宛てて出された手紙には、彼らの進行経路と予定日時、そして反逆を使嗾するような内容が書かれていたに違いない。カナンはすぐに洞察したが、どうしてそんなことをしたのか、理由だけが分からない。
そうこうする間に、シムルグたちは次々と撃ち落とされていく。カナンは我に返り、叫んだ。
「イスラ!!」
◇◇◇
イスラを乗せたまま、トビアは必死になってザバーニヤを操っていた。
何が起きているのか、理解がおいつかない。ようやくあの恐ろしいティアマトたちから逃れられたと思った矢先の出来事だ。彼の頭は許容範囲を超えた事態に追いつけず、飽和しかけていた。
背後でイスラが叱咤しなければ、とっくに撃ち落とされていただろう。
「何やってる、死にたいのか!」
「で、でも、皆が……里の皆が!」
「他人の心配してる場合か。もっと高度を上げろ! 矢も届かないし、そうすりゃ爺さんたちもついてくる!」
「は、はい!」
そう言われて、ようやく矢には射程があることを思い出した。まるで無限に伸びる槍に突かれている気分だったが、少し冷静さを取り戻せば対処法も見えてくる。
トビアは手綱を引いて、ザバーニヤに上空を向けさせた。むしろ待ちかねていたとでも言いたげに、ザバーニヤは大きく羽ばたいて雲を目指す。
だが、イスラは真下で光が生じたのを見逃さなかった。
「避けろ!」
反射的にトビアはザバーニヤを横滑りさせた。ほとんど間をおかず、炎の戦輪が飛び出してくる。それは見慣れた蒼色のものではなく、煌都の天火とまるで同じ色をしていた。
戦輪は次々と打ち上げられてくる。その操作はカナンほど正確ではないが、垂直上昇を許してくれるほど甘くもない。
回避出来なかったシムルグがまた一羽撃墜される。トビアの腕はガタガタと震えていた。手綱を握る力がうっかり緩んでしまいそうだ。「左だ、来るぞ!」イスラが言わなければ、彼の首は炎の戦輪によって刎ねられていただろう。
気が付くと、飛んでいるのは彼らだけになっていた。的を失った戦輪が唯一残った標的めがけて殺到してくる。
「クソっ!」
イスラはダメ元でナイフを投げるが、案の定焼き払われて終わりだった。勢いを殺すことさえ出来ない。
迫る戦輪はトビアからも見えている。そして、死は不可避のように思えた。トビアは固く目をつぶった。
「坊!」
トビアらを斬り裂くはずだった戦輪は、割り込んできたデュボンとシムルグに喰らい付いた。骨ごと筋肉を焼き斬られる痛みは、幸いというべきか、あまりに激し過ぎて痛覚として認識されなかった。
シムルグは斬り刻まれ、同じくずたぼろになった老体が宙に投げ出される。
「爺さん!」
イスラは反射的に動いていた。
鞍をザバーニヤの胴体に固定しているベルトをつかみ、もう片方の手でデュボンの腕を握り締める。老人の身体はぞっとするほどに軽かった。右の太腿から下が無いせいだ。そこから血が滝のように流れ出ている。
どう見ても助からない。そんなことは百も承知だ。それでも、どうしてこんなことをしてしまったのか、イスラ自身が不可解に感じていた。
「おい、しっかりしろ! トビア、林かどこかに……」
「もう、良い」
デュボンの声は異様なほどはっきりとしていた。まるで、残った気力と活力のすべてを、声を出すために使っているかのようだ。
「もう良いのじゃ。最初から助かろうとは……思って……」
イスラは老人の身体が少しずつ重くなり始めていることに気付いていた。人は、死ぬと重たくなるというのは、あまり知りたくない実感だった。
「どういうことだ。俺たちを嵌めたのか。ここで殺すために?」
「ほっほっ……そりゃあ、逆じゃて。お前さんたちには絶対に、生き延びてもらわにゃ……」
「デュボン……爺さん」
呆然としたままトビアが呟く。デュボンは曇りかけている目で、今にも泣き出しそうな少年の瞳をしっかと見据えた。
「これは報いじゃ……お前たち親子を、里に縛り付けてきた……」
メリメリと嫌な音が聞こえる。それに気づいたイスラは渾身の力を込めてデュボンを持ち上げようとするが、すでに千切れかけていた老人の腕は、自重を支えることが出来なかった。
ずるり、と滑るように骨と骨の接合が外れ、細い筋肉は安物の糸のように弾けていく。
「生きるのじゃ、トビア。自由に」
腕が外れ、老人の身体は戦旗と炎、槍と弓の中へと落ちていった。
◇◇◇
「トビア君を生き延びさせること……最初からそれが狙いだったのですね」
ウルク郊外の森に降り立ったカナンは、トビトの前に片膝をついていた。
彼のシムルグは片翼を斬り落とされ、地面に落ちた際に頭を砕かれ絶命していた。
そしてトビトの身体にも、数本の矢が突き立っている。
当然、カナンは治療しようとしたが、トビトはそれを断固として断った。自分にそのような資格は無いと自覚していたし、これ以上生きながらえるつもりも無いと言って。そして彼女に、計画の全てを語った。
もとより、ウルクへの移住など不可能なことだった。彼らに風読みを受け入れる理由は無く、老人ばかりとあっては労働力にさえならない。そのうえ、反逆を使嗾するような連中ならば、早々に殺してしまうのが吉だ。
トビトは、ウルク側がそう考えることまで想定に入れて行動を起こした。
自分も含めて、風読みが全滅すれば、トビアは窮屈な共同体に縛られて生きることもなくなる。広い世界に出ていくのであれば、その方がよほど望ましいとトビトは考えた。
「息子を一つの場所に縛り付けておきたいと思う父親など、いるはずがありません。あれには、私の見れなかったものを見てほしいし、体験して欲しい。それが親の情というものです」
「でも……こんなことまでして……!」
あまりに血生臭い。カナンは臍を噛んだ。彼の計画を洞察出来なかった、己の愚鈍さが恨めしい。この結果を回避出来なかった無力さも、さりとてトビトを否定し切れない甘さも。
顔を歪めるカナンに、トビトは穏やかな声で語りかける。
「貴女は純粋過ぎる。だから、私のような人間に利用されるのです。理想を追いかけるのも結構ですが、もっと現実に目を向けるべきです」
「……私に、運命を変える力があると言ったのも……」
「無論、貴女を奮起させるためです。貴女はもっと、裏切られたり、騙される可能性を考えるべきだった。私にとっては全て計画通りで、思い残すことは何もありませんが……」
トビトの口から血が溢れ出た。カナンは反射的に天火を使おうとするが、トビトはそれを手で制する。
「私も生きながらえるつもりはありません。最後の風読みの長として、ここで死ぬつもりです。そうしなければ示しがつかない。貴女はどうか、その力をもっと有効にお使いください。ただ、トビアさえ守ってくれるのなら……」
彼は弓を片手に立ち上がった。カナンは動くことが出来ない。悔しさや悲しさ、辛さや怒りがないまぜになっていて、どれが自分の本当の気持ちなのか分からない。あるいは、それら全てが混沌と渦巻いている状態なのか。
「では、失礼を。もう会うことも無いでしょう」
そう言い残して、トビトは軍勢の足音の方へと消えていった。
それとほとんど時を同じくして、トビアを背負ったイスラが木々の間から姿を現した。少年はぐったりと闇渡りの肩にもたれ掛かっている。自失しているのか、目は開いているが瞳孔は虚ろだった。
「カナン、無事か!?」
「…………はい。私は、大丈夫です」
「走れるな」
「……はい」
「よし、なら走るぞ」
イスラはそれ以上何も言う気は無かった。今、カナンに何かを考えさせるのは良くないと判断したからだ。
そういう時は走るに限る。実際、今はそれが何よりも求められている状況だ。
「グダグダ考えるのは後にしろ。今生き残らないと、何も出来ないからな……お前も、トビアも、俺も……」
「……はい」
「だから、今は生き延びることだけを考えるぞ。ついて来い」
そう言って、イスラは空いた方の手でカナンの手を取った。それは血にまみれているが、彼女の手を握る力は万力のように固く強い。まるで、彼女をこの世に繋ぎ止めようとするかのように。
そして三人は、虐殺に背を向けて、森の奥へと入っていった。
だが、襲い掛かるティアマトの数を考えれば、全滅しなかったことがまず奇跡的であった。
イスラとカナンはさほど消耗していないが、里人たちの疲労は深刻だった。老人たちは言わずもがな、トビアもこれほどの長距離を移動したのは初めてだった。トビトは精力的な男だが、それでも激戦の中を縦横無尽に動きつつ指示を飛ばしていたので、心身両面においてひどく疲労していた。むしろ、重圧を抱えつつ的確な指示を出し続け、しかも前線で戦っていたのだから、超人的と言っても良いほどの働きぶりだ。
彼の戦いをすぐ近くで見ていたカナンは、もしこの男が仲間になってくれたら、エデンの探求もずいぶん楽になるのではないかと思った。風読みの里は確かに小さな共同体だったが、それを崩壊させずに保ち続けた点や、思い切りの良い脱出作戦と言い、能力的には煌都の高級官僚として通用するだけのものを持っている。
二週間ほど前、里に着いた翌日のことだ。カナンはトビトに対して自分の計画を打ち明けていた。計画とは言っても、現時点ではそこまで現実味を帯びてはいない。だが、様々な資料や史跡の存在から、かつてエデンと呼ばれた都市が存在することは事実である。
復活させる手段についても、カナンはいくつかあたりをつけていた。エデンを探す道中で、並行してそれらを見つけていくつもりだと語った。
エデンを見つけて、そこの運営を軌道に乗せる……ずいぶん気の長い話だと、彼女自身そう思う。
だが、希望にはなるはずだ。
里を失った彼らが、これから困難に直面することは想像に難くない。だが、そんな中にあっても一つくらい、救いになるようなものがあっても良いのではないか。
もちろん現時点でついてきてもらうことは出来ないが、エデンを発見した後、運営者の一人として助力を乞えないだろうか……。
――なんて、今考えても仕方が無いけれど。
まだ見つけてさえいないエデンに思いをはせたところで、何の意味も無い。ただ、風読みのトビトの名前は、憶えておくだけの価値がある。
「カナン様、見えてきました」
ハッと顔を上げると、決して遠くない位置にウルクの大燈台の光が見えた。闇に包まれた世界にあって、そこだけが明々と照らしだされている。まるで純金の泉のようだ。ここしばらく、煌都の天火から離れて生活していただけに、その光は一層眩しく見えた。
だが、その光の中に入っていけない人々も、この世界には数多く存在している。
「トビトさん、あの」
「貴女のおっしゃりたいことは分かります。ですが、どうかご心配なさらないでください」
「……はい。大変だとは思いますが」
「それは、もう必要のないことですので」
トビトの言葉の奇妙さに意識が及んだ、その瞬間。
足元から、無数の風切り音が沸き起こった。
警告する暇も、回避を促す時間もなかった。巣をつつかれた蜂のように矢が殺到し、次々とシムルグと人間を打ち落としていく。風読みの老人たちが怒号を上げるが、それさえかき消すほどの音が空中を支配している。
押し寄せる弾幕を縫うように、トビトはシムルグを降下させていく。その手綱さばきは熟練の風読みにしか出来ないことだろうが、カナンには彼の冷静さが怖かった。
「トビトさん!」
カナンは叫ぶが、トビトは無言のまま手綱を操っている。その背中からカナンは、この状況をトビトが望んでいたのだと察した。その理由は分からないが、自分たちが誰から攻撃を受けているのかだけは分かる。
「どうしてウルク軍が……! 手紙を出したのではなかったのですか!?」
眼下を見下ろすと、ウルクの前方に広がる平野に二千人以上の兵士が展開していた。先ほどまで真っ暗で何も見えなかったが、今は天火を持ち出して上空に狙いを定めている。じきに矢だけでなく法術も飛んでくるだろう。
「確かに、手紙は出しました」
「それなら何で……」
まさか、とカナンは呟く。こんな時に即座に理解出来てしまう察しの良さが、今は恨めしかった。
「出したのは、ウルクの反抗勢力宛ての手紙です。そんなものが実在するかは知りませんが、これだけの兵力を伏せていたことを考えると、どうやら本当にあるようですな」
あるかどうかも分からない反抗勢力に宛てて出された手紙には、彼らの進行経路と予定日時、そして反逆を使嗾するような内容が書かれていたに違いない。カナンはすぐに洞察したが、どうしてそんなことをしたのか、理由だけが分からない。
そうこうする間に、シムルグたちは次々と撃ち落とされていく。カナンは我に返り、叫んだ。
「イスラ!!」
◇◇◇
イスラを乗せたまま、トビアは必死になってザバーニヤを操っていた。
何が起きているのか、理解がおいつかない。ようやくあの恐ろしいティアマトたちから逃れられたと思った矢先の出来事だ。彼の頭は許容範囲を超えた事態に追いつけず、飽和しかけていた。
背後でイスラが叱咤しなければ、とっくに撃ち落とされていただろう。
「何やってる、死にたいのか!」
「で、でも、皆が……里の皆が!」
「他人の心配してる場合か。もっと高度を上げろ! 矢も届かないし、そうすりゃ爺さんたちもついてくる!」
「は、はい!」
そう言われて、ようやく矢には射程があることを思い出した。まるで無限に伸びる槍に突かれている気分だったが、少し冷静さを取り戻せば対処法も見えてくる。
トビアは手綱を引いて、ザバーニヤに上空を向けさせた。むしろ待ちかねていたとでも言いたげに、ザバーニヤは大きく羽ばたいて雲を目指す。
だが、イスラは真下で光が生じたのを見逃さなかった。
「避けろ!」
反射的にトビアはザバーニヤを横滑りさせた。ほとんど間をおかず、炎の戦輪が飛び出してくる。それは見慣れた蒼色のものではなく、煌都の天火とまるで同じ色をしていた。
戦輪は次々と打ち上げられてくる。その操作はカナンほど正確ではないが、垂直上昇を許してくれるほど甘くもない。
回避出来なかったシムルグがまた一羽撃墜される。トビアの腕はガタガタと震えていた。手綱を握る力がうっかり緩んでしまいそうだ。「左だ、来るぞ!」イスラが言わなければ、彼の首は炎の戦輪によって刎ねられていただろう。
気が付くと、飛んでいるのは彼らだけになっていた。的を失った戦輪が唯一残った標的めがけて殺到してくる。
「クソっ!」
イスラはダメ元でナイフを投げるが、案の定焼き払われて終わりだった。勢いを殺すことさえ出来ない。
迫る戦輪はトビアからも見えている。そして、死は不可避のように思えた。トビアは固く目をつぶった。
「坊!」
トビアらを斬り裂くはずだった戦輪は、割り込んできたデュボンとシムルグに喰らい付いた。骨ごと筋肉を焼き斬られる痛みは、幸いというべきか、あまりに激し過ぎて痛覚として認識されなかった。
シムルグは斬り刻まれ、同じくずたぼろになった老体が宙に投げ出される。
「爺さん!」
イスラは反射的に動いていた。
鞍をザバーニヤの胴体に固定しているベルトをつかみ、もう片方の手でデュボンの腕を握り締める。老人の身体はぞっとするほどに軽かった。右の太腿から下が無いせいだ。そこから血が滝のように流れ出ている。
どう見ても助からない。そんなことは百も承知だ。それでも、どうしてこんなことをしてしまったのか、イスラ自身が不可解に感じていた。
「おい、しっかりしろ! トビア、林かどこかに……」
「もう、良い」
デュボンの声は異様なほどはっきりとしていた。まるで、残った気力と活力のすべてを、声を出すために使っているかのようだ。
「もう良いのじゃ。最初から助かろうとは……思って……」
イスラは老人の身体が少しずつ重くなり始めていることに気付いていた。人は、死ぬと重たくなるというのは、あまり知りたくない実感だった。
「どういうことだ。俺たちを嵌めたのか。ここで殺すために?」
「ほっほっ……そりゃあ、逆じゃて。お前さんたちには絶対に、生き延びてもらわにゃ……」
「デュボン……爺さん」
呆然としたままトビアが呟く。デュボンは曇りかけている目で、今にも泣き出しそうな少年の瞳をしっかと見据えた。
「これは報いじゃ……お前たち親子を、里に縛り付けてきた……」
メリメリと嫌な音が聞こえる。それに気づいたイスラは渾身の力を込めてデュボンを持ち上げようとするが、すでに千切れかけていた老人の腕は、自重を支えることが出来なかった。
ずるり、と滑るように骨と骨の接合が外れ、細い筋肉は安物の糸のように弾けていく。
「生きるのじゃ、トビア。自由に」
腕が外れ、老人の身体は戦旗と炎、槍と弓の中へと落ちていった。
◇◇◇
「トビア君を生き延びさせること……最初からそれが狙いだったのですね」
ウルク郊外の森に降り立ったカナンは、トビトの前に片膝をついていた。
彼のシムルグは片翼を斬り落とされ、地面に落ちた際に頭を砕かれ絶命していた。
そしてトビトの身体にも、数本の矢が突き立っている。
当然、カナンは治療しようとしたが、トビトはそれを断固として断った。自分にそのような資格は無いと自覚していたし、これ以上生きながらえるつもりも無いと言って。そして彼女に、計画の全てを語った。
もとより、ウルクへの移住など不可能なことだった。彼らに風読みを受け入れる理由は無く、老人ばかりとあっては労働力にさえならない。そのうえ、反逆を使嗾するような連中ならば、早々に殺してしまうのが吉だ。
トビトは、ウルク側がそう考えることまで想定に入れて行動を起こした。
自分も含めて、風読みが全滅すれば、トビアは窮屈な共同体に縛られて生きることもなくなる。広い世界に出ていくのであれば、その方がよほど望ましいとトビトは考えた。
「息子を一つの場所に縛り付けておきたいと思う父親など、いるはずがありません。あれには、私の見れなかったものを見てほしいし、体験して欲しい。それが親の情というものです」
「でも……こんなことまでして……!」
あまりに血生臭い。カナンは臍を噛んだ。彼の計画を洞察出来なかった、己の愚鈍さが恨めしい。この結果を回避出来なかった無力さも、さりとてトビトを否定し切れない甘さも。
顔を歪めるカナンに、トビトは穏やかな声で語りかける。
「貴女は純粋過ぎる。だから、私のような人間に利用されるのです。理想を追いかけるのも結構ですが、もっと現実に目を向けるべきです」
「……私に、運命を変える力があると言ったのも……」
「無論、貴女を奮起させるためです。貴女はもっと、裏切られたり、騙される可能性を考えるべきだった。私にとっては全て計画通りで、思い残すことは何もありませんが……」
トビトの口から血が溢れ出た。カナンは反射的に天火を使おうとするが、トビトはそれを手で制する。
「私も生きながらえるつもりはありません。最後の風読みの長として、ここで死ぬつもりです。そうしなければ示しがつかない。貴女はどうか、その力をもっと有効にお使いください。ただ、トビアさえ守ってくれるのなら……」
彼は弓を片手に立ち上がった。カナンは動くことが出来ない。悔しさや悲しさ、辛さや怒りがないまぜになっていて、どれが自分の本当の気持ちなのか分からない。あるいは、それら全てが混沌と渦巻いている状態なのか。
「では、失礼を。もう会うことも無いでしょう」
そう言い残して、トビトは軍勢の足音の方へと消えていった。
それとほとんど時を同じくして、トビアを背負ったイスラが木々の間から姿を現した。少年はぐったりと闇渡りの肩にもたれ掛かっている。自失しているのか、目は開いているが瞳孔は虚ろだった。
「カナン、無事か!?」
「…………はい。私は、大丈夫です」
「走れるな」
「……はい」
「よし、なら走るぞ」
イスラはそれ以上何も言う気は無かった。今、カナンに何かを考えさせるのは良くないと判断したからだ。
そういう時は走るに限る。実際、今はそれが何よりも求められている状況だ。
「グダグダ考えるのは後にしろ。今生き残らないと、何も出来ないからな……お前も、トビアも、俺も……」
「……はい」
「だから、今は生き延びることだけを考えるぞ。ついて来い」
そう言って、イスラは空いた方の手でカナンの手を取った。それは血にまみれているが、彼女の手を握る力は万力のように固く強い。まるで、彼女をこの世に繋ぎ止めようとするかのように。
そして三人は、虐殺に背を向けて、森の奥へと入っていった。
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