闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第九節/瘴土】

 いまや旧世界と呼ばれる時代には、現代よりも遥かに優れた文明が栄えていた。爛熟らんじゅくしていたと言って良い。魔術と技術が競うように高め合い、その結果生まれた様々な産物が社会を豊かにした。

 しかし、思想は育たなかった。あるいは文明の進歩に追いつけなかったと言うべきか。少数者は真理を語り、建造物の高さに比例して膨れ上がる傲慢さに警鐘を鳴らしたが、濁流のように押し寄せる大衆の意思には敵わなかった。

「その傲慢さが、神の怒りを買ったと閉明伝は語ります」

 交代で四時間ずつ眠ってから、二人は荷物を片付けて歩き始めた。瘴土に向かう道すがら、カナンは記憶していた物語をイスラに語って聞かせた。イスラは伐剣で道を開きながら何も言わずに聞いている。

「最初の百年間は、新しい環境に適応するための時間だったと伝えられています。シオンをはじめとした第一世代の継火手達を中心に、残された技術を結集して天火アトルを維持するための装置……すなわち大燈台ジグラートが建造されました。でも、それだけでは足りなかった」

 カナンの踏んだ枝がパキリと音を鳴らす

煌都こうとの居住環境が整い始めた頃、森の各所に異様な力に満たされた空間が現れ始めた。そこでは奇形の植物がひしめき、人ならざる者どもが跋扈ばっこしている……」

「そんな恐ろしい所に、あんた、入る覚悟があるか?」

 イスラは松明を取り出し、火打ち石で手早く発火した。そしてこれから入っていく場所を照らしてみせる。

 ここまでとそこからは、明らかに雰囲気が異なっていた。タールのような粘度を伴った闇が枝葉に絡みついている。奥から吹いてくる風は生暖かく、松明に照らされた樹々はいずれも黒曜石のように硬質化していた。
 啜り泣くような不気味な風音が響き、湿り気を帯びた土を歩くたびに生肉を踏んだような感覚が伝わってくる。風に混ざって食物の焦げたような奇妙な臭いが漂っている。悪臭ではあるが、死臭とはまた異なった不快感を催させるものだ。

「まだふちに立っただけだ。引き返すか?」

「……いえ」

 カナンは短く祈りの言葉を唱え、唇をキッと引き締めた。

「行きます。先導して下さい、イスラ」

「分かった」

 イスラは頷き、懐から小さな箱のような物を取り出した。蓋を開くと、回転する小さな針があった。先端には蛍火のような明かりが宿っている。

「それは?」

「俺たちは『闇抜け針』って呼んでる。瘴土の中に入っても、こいつは常に一番出口に近い方角を指し続けるんだ。最悪行き詰ったとしても、こいつがあれば元の場所に戻って来られる。逆に行くところまで行ったら、反対側の出口を指してくれるってわけだ」

「便利ですねえ」

 カナンは感心したように何度も頷いている。

「何の備えも無しに瘴土に入るなんて、自殺行為も良いところだ。俺だって、こいつを持ってなかったら近寄ったりはしないよ」

 イスラは踏み込んだ。その三歩後ろをカナンが歩く。

 瘴土の中は通常の森よりも一層樹木が生い茂っていた。しかし、自然の生え方とはどこか異質である。いばらのような植物が縦横無尽に絡み合い、いくら斬ってもほとんど前に進めない。足元の土や木の根は意地悪なほど凹凸が激しく、湿っているためにとても滑りやすい。

 カナンの額には汗が浮かんでいる。瘴土の生暖かい空気がそうさせているのだ。服の下が蒸れて痒い。身体の動きも必然的に大きくなるため、普通に歩く以上に疲労が溜まる。
 イスラでさえ瘴土のなかを歩くことに難儀している。疲れは出ないが、なかなか前に進めないという苛立ちは、あるところ疲労よりも厄介だ。

 もちろん、この程度で根を上げるようなイスラではない。環境も無論恐ろしいが、それよりも危険なものが潜んでいる。

「大事なことを忘れていた」

 イスラが足を止めた。「何です?」とカナンはたずねる。

「あんた、何か歌えるか?」

「歌、ですか」

「何でも良いよ。でも、出来たら陽気な曲の方が良いな。大声で歌ってくれ」

「構いませんけど、何か理由があるんですか?」

 もしかして怖いとか、とカナンは挑発する。イスラは鼻で笑った。

「怖くはないさ。歌には夜魔を追っ払う力があるんだ。いや、陽気な奴の所には寄ってこないと言うべきかな。ともかく、瘴土のなかで心を暗くすると、あっという間に夜魔を引き寄せちまう。だから逆のことをするんだ」

「そういうものですか……でも、それなら夜魔って」

「思ってたほど怖くない、とかぬかすなよ。闇抜け針があるならともかく、持ってない奴が迷い込んだらどうなると思う? この足場に、視界の悪さだ。あっという間に体力を消耗して絶望しちまう。俺だって、ちょっとした拍子にこいつを壊すかもしれないんだ」

「……分かりました。気を引き締めて歌います」

「ああ、頼むよ」

 カナンは深く息を吸い込んだ。

『遥か南の大宮おおみやに いと麗しき乙女あり

 おもては白く、髪長く 人皆乙女を愛したり

 噂は野を越え山を越え、野原の王に伝われり

 王はつわもの引き連れて、都の壁を取り囲まん』

 彼女の清浄な声は、瘴土の穢れた空気でさえ清めていくかのようだった。遠慮なく枝を叩き切っていたイスラも、おのずと音をたてないやり方に変えていた。

『乙女よ来たれ、我がもとに

 王はのたまい、乙女は返す

 風呂無くしては住めませぬ

 王は望みをかなえたり

 されど乙女は、また返す

 羊の肉は喰えませぬ

 王は牛をば求めたり

 しかれど乙女は満ち足りぬ

 野原に宝はありませぬ

 王は宝物ほうもつ積み上げぬ

 乙女は頷き旅立てり、西の新たな都へと』

 最後の一音が闇に完全に融け去ってから、イスラは口を開いた。

「あんた、滅茶苦茶上手いな」

「ありがとうございます。まあ、こう見えても司祭ですから、歌だって商売道具の一つですよ」

 イスラはますます訳が分からなくなった。

「……ここはあんたの居るべき場所じゃない。勿体ないよ、色々とさ」

「それが勿体ないかどうか決めるのは、私自身です」

 伐剣が枝を叩き折る。腕を切らないよう慎重に枝をどかしていく。

「石頭め。岩堀族だって、あんたほど頑固じゃない」

「お褒めにあずかり光栄です」

「ただ、一つ気になるんだが」

「何でしょう?」

「その歌に出て来る女って、肌が白いのに美人なのか? それに、野原に王国なんて無いだろ」

「古い歌ですからね。閉明伝以前の物語です。今とは何もかも違った世界のことですよ」

 美醜の観点が異なり、住む場所が異なり、世界のことわり自体が異なった時代。そんな歴史があったことなど、イスラには想像も出来ない。

 カナンにはそれが見えているのだろうか。ふと思った。昨日彼女が言っていたことを思い出す。

 知識と想像力。それが自分を支えている力なのだと。それさえあれば目の前に無いものでも理解出来るのだと彼女は言った。
 それは本当なのだろうか? イスラはふと考えた。一瞬、隙だらけになっていたイスラは、カナンから投げかけられた言葉に驚かされた。

「じゃあ、次はイスラの番ですよ」

 イスラはギョッとして振り返った。カナンはいつも通りニコニコと笑っている。

「私ばっかり歌っていたら、息は上がるし、喉も乾いてしまいます」

「俺、あんたほど上手くないんだけど」

「そんなこと気にしませんよ。ほらほら、早く歌わないと夜魔が寄ってきますよ」

「ったく……ゴホン」

『イザウの娘が犯された』

「ぶっ」

 のっけから物騒な歌詞に思わずカナンは噴き出した。イスラは構わず、番犬の唸り声のような低音で欝々とした歌を歌い続ける。

『怒った兄らは知恵絞り、仇の男に言い渡す

 もしもあの子が欲しいなら、掟に従い皮を切れ

 皮を切らぬは男の恥じで、娘を抱くに値せず

 男は息まき皮を切り、友も奴隷もみななら

 三日目の夜兄たちは、痛がる男ら皆殺し

 女や子供は金貨に替えた』

 次はあんただろ、とイスラは振り返るが、カナンの顔はひくついていた。

「何だよ、文句あるのか」

「文句っていうか、歌の内容がその……ド畜生というか」

 カナンの頭には様々な知識が収まっている。書物から得られたものや、貧民街を歩き回って仕入れたもの。当然、闇渡りについての知識もある程度は習得している。なので、歌に混ざっていた「皮」の意味も理解出来てしまったのだ。

「知恵を使って相手を出し抜いたわけだから、あんたの歌とそう変わらないだろ」

「いやいや……全然可愛げが無いじゃないですか。夜魔を追い払うどころか、むしろ寄って来そうですよ」

「言うじゃねえか。じゃあ、次はあん」

 そう言いかけた時、タールのような闇を貫いて甲高い声が響いてきた。いや、声という表現が当てはまるかも怪しい。女の叫び声のようだが、錆びた鉄同士が擦れ合っているようにも聞こえるし、いなごの群れが羽ばたいているようにも聞こえる。

「人の声、ではありませんね」

「……ああ」

 イスラは伐剣を手元に引き寄せ、手で枝を掻き分けた。カナンは杖を構え、剣の柄に手を伸ばす。

「この先に夜魔がいる」

「……やっぱりイスラのせいじゃありません?」

「まだ言うか。これだけ派手に騒いでいたら連中は寄って来ない」

「じゃあ、何で」

「……人が襲われてる」

 その言葉がどういう結果を招くかは大体予想がついていた。だから、遮二無二しゃにむに走り出したカナンにもついていくことが出来た。

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