闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第八節/森の中の二人】

 イスラは一人、樹々の間に出来た小さな空き地にたどり着いた。伐剣ばっけんを振り回して伸びた草を薙ぎ払い、邪魔な枝を叩き切って光が届くようにする。ネコの額のように小さな天窓が出来て、その間から無窮むきゅうの夜と数多の星々が見えた。

 手頃な大きさの石を円形に並べ、切り落とした枝や乾いた葉を集めてから火打ち石を叩く。すぐに炎が燃料をめ、空き地に全体を明々と照らした。

 イスラは荷物を地面に下ろし、吊るしていた鉄製の鍋を外して石の上に置いた。
 道中掘り当てた数種類の根菜の皮を剥き、ナイフで切り分けて皿に移す。油を敷いてからあらかじめスライスしていたニンニクを放り込み炒める。水筒の水で軽く洗った野菜を加え、それが音を立てて弾けている間に、塩の塊を手の平に乗せてナイフの柄で砕いた。それを入れたら、後は待つだけだ。

 野イチゴの入った小袋を開いて、一つだけ口に放り込む。野生の野イチゴは酸味が強いが、森を歩いた後はその酸っぱさがかえって心地良い。野イチゴは、イスラの数少ない好物だった。

 ゆったりと寛ぎながら黒パンを切っていると、茂みがガサガサと揺れて、髪に葉っぱや蜘蛛の巣を引っ掛けたカナンが現れた。息は荒く、肩は激しく上下している。元々くたびれていた茶色の外套は、この二週間でほとんど真っ黒になっていた。

「速くなったな」

「お陰様で……あーっ、疲れた! ご飯はまだですか?」

「座れ、落ち着けよ。野イチゴ食うか?」

「いただきます」

 倒木の上に腰を下ろしたカナンは、身をかがめて手の平を突き出した。イスラが袋ごと野イチゴを渡すと、嬉しそうに頬張る。

「んー、酸っぱい。でも美味しいです」

 ずいぶん早く順応したな、と思う。まだまだ移動速度は遅いが、森での生活そのものには確実に適応しつつある。
 箱入り娘には厳しいだろうと思っていたが、見事に予想を裏切られた。

 カナンは頑張っている。その成果が最近になって表れ始めていた。

 夜をく上で何よりも大切なものは、暗闇に慣れた目だ。カナンには天火アトルがあるが、イスラは極力使わないよう指示していた。光に頼っていては状況に即応出来ないし、自分が夜の中に居るのだという自覚を促すためにも必要なことだ。

 避けては通れないことなのだが、お陰で初日は大変な目にあった。転ぶわつまずくわの大騒ぎで、埒があかないのでイスラが手を引いて進んだ。
 こんな具合で大丈夫なのかと心配になったが、カナンはへこたれなかった。翌日になるとたどたどしくも一人で歩けるようになり、一週間経つと木に止まったフクロウを見つけられるまでになった。

 無論、それ以外にも問題は山積みであったが、カナンの前向きさがイスラは嫌いではなかった。彼女がやっていけるか否かは別として、人となり自体は好きになれそうだ。

 それを可能としているのは、やはり彼女が一切の偏見を抱いていないからだ。

 カナンの瞳には曇りが無い。鋭敏な知性と判断力で、余計なバイアスを排除している。それは、口で言うほど簡単なことではない。自己の思考によほどの自信が無ければ出来ないことだ。

「……私の顔に、何か?」

「いや、何でもない。そろそろ出来上がるな」

 はぐらかすようにイスラは言った。木製の椀を取り出して出来上がったスープを注いでいく。水分は根菜が十二分に含んでいるので、蓋をして蒸してやれば自然とスープになるのだ。
 手抜き料理ではあるのだが、これが存外美味い。野菜の旨味はそのままなので、ニンニクと塩だけで十分な味になるのだ。時々砂を噛んでしまうのはご愛嬌である。

 もっとも量は知れているので、腹が減っている時は一瞬でなくなってしまう。イスラもカナンも、急き立てられるように野菜をかっ込み、音を立ててスープを啜った。

「……美味しいですね」

「昨日も聞いた。悪いな、同じようなのばっかりで」

「まさか。文句なんてありませんよ。森の中でこんなに美味しいご飯が食べられるなんて……それとも、森の中だからそう思うのかな」

 カナンは星空を見上げた。その横顔には畏敬の念が見て取れる。何に対して? 空か、星か、それとも夜に対してか。

 この二週間、彼女のこんな表情は何度となく見てきた。何もかも見慣れたイスラにとっては、どうして彼女がそんな顔をするのか理解出来なかった。

 ただ、彼女がこの夜という空間を前向きに受け止めていることは分かる。今は、それが何よりも大切だ。

「……あんたさ。やっていけそうだね」
「え?」

「夜の中でもやっていけそうだって」

「それは、認めてくれたということですか?」

 イスラは答えずにパンを頬張った。
 答えを待つカナンを焦らすようにゆっくりと咀嚼し、水筒に入れた水で喉を潤す。

「俺たち闇渡りが忌み嫌われてる理由、あんたに分かるか?」

「それは……経典に書かれていることを、皆が信じているからでは?」

 カナンは彼をおもんぱかったのか、少しだけ言葉を濁して言った。気遣いなんていらないのにな、とイスラは思ったが、気にせず続けた。

「それもある。でもそれ以上に」

 ココがおかしいと思われてるからだ、とイスラは自分の頭をつついた。

「煌都に入るたびに思うよ。あそことここは、全然違う場所だって。今ならあんたも分かるだろ?」

「ええ……」

「俺だってそうさ。街が見えてくると、燈台の明かりのせいで目が痛くなるんだ。何でこんな所で四六時中過ごしていて平気なのかってね。逆のことを街の連中も思ってる。俺よりも激しく……まあ、不可解だろうな」

 暗闇に慣れない限り自分の手の平すら見えない場所で過ごすなど、都市の人間からすれば狂気の沙汰だろう。ましてやそこには、命を損なう数多の危険が潜んでいる。

「きっと、目隠ししながら綱渡りをやってるように見えるんだろうな。それでも平気な俺たちは、連中の常識の埒外にいるわけだ。そりゃあ気味が悪いだろうさ。知恵者のシラス曰く、異邦人は殺人者より恐ろしい」

「……でも、そんなの勿体ないです。皆が焚き火の暖かさや、星空の美しさを知ったら、ここも世界の一部だって認められるはずなのに……」

 カナンは空になった皿を水で軽く洗い、布で拭った。

「そうかな。っていうか、俺にすればあんたの方がよっぽど狂ってるように見えるよ」

「あら、どうしてですか?」

「都市の人間がビビるのは分かる。でもあんたはそうじゃない。まるで怖がってるように見えない……ただ物を知らないだけなのか、それとも気が狂っているのか……」

 焚き火を挟んで二人は視線を重ねた。イスラはカナンの澄んだ青い瞳から何か手がかりを引き出そうとするが、いつもと変わらない穏やかな光しか認められなかった。
 それを崩せないかと、イスラは少し踏み出してみた。

「前に、うっかり街道から外れた奴を見かけたことがある。盗賊にでも襲われたんだろうな。必死に草木を掻き分けて走ってた。それ以外の全部を忘れちまったみたいにさ。口から泡を吹いてたし、ズボンも小便やら何やらで汚れきっていた。でも、そうなるのは分かるよ、自然な反応だ」

「……その人はどうなりましたか?」

「斬った。あれはもう手遅れだった。見境なしに襲い掛かって来てさ。何言っても通じないから、一息に仕留めて、埋めた」

「そうですか……」

「失望したか?」

「いえ。他にやりようは無かったのかと、思いはしますけど。糾弾する権利は私にはありません」

 それに、とカナンは続けた。

「あなたはいたずらに剣を向ける人ではない。最初に会った時から、義理堅い人だと思っていたけれど、この二週間で確信しました」

 イスラは頬を掻いた。

「……話を戻そう。あんたは物を知らない阿呆なのか、それとも気が狂っているのか。どっちだ?」

 今度ははぐらかされないぞ、とイスラは決めていた。嘘を言ったり、誤魔化したら殺すぞ、という意志を視線に込める。
 だが、カナンの穏やかな微笑みは、イスラの追求をやんわりと受け止めた。

「私は、そのどちらでもありません」

「へえ、じゃあ何で平気でいられるんだ?」

「知識と想像力が、私を支えてくれているからですよ」

「……何だそりゃ」

 イスラは呆れ声を漏らした。

「あ、今馬鹿にしましたね?」

「当たり前だ。頭の中にある物で、夜を渡っていけるかよ」

「出来ますよ。例えば……」

 カナンは立ち上がり、一本の木に手を添えた。

「ブナの木は根元に毒を持っていて、周囲の植物を枯らしていきます。結果、一番元気な個体だけが成長するという特徴がある。この空地もそうですし、ここまで進んできた道も、ほとんどブナの木ばかりだった……時々蛇行してまで、イスラがこの木の近くだけを選んで歩いた理由は、私のためだったんじゃないですか? あなたの目なら、これくらいの隙間でも十分私を見つけられる」

「あんたの言う想像力ってのは、物事を気楽に考える能力のことなんだな」

「いかにもその通りです」

「自分にとって都合の良い事実だけを選んで、勝手に理由を作ってるだけだ」

「そうかもしれません。でも、まず知識と想像力があって、それらが導き出す他者への信頼こそが、私にとっての杖ですよ」

「あんたはつくづくおめでたいな」

 イスラは薪を炎の中に放り込んだ。脆くなっていた木が崩れて、灰や火の粉が立ち上る。

「知識と想像力って言うけど、その両方を持ってる人間なんて、どれだけいると思う? 大抵は片方だけだ。自分の知っていることに偏執する奴、妄想ばかり激しい奴。両方を上手く調和させられる人間なんて、そうはいないさ」

 今の彼には、彼女の言葉は大して響かなかった。

「あんたはどっちだろうな? 頭でっかちか、空想家か」

「ひょっとしたら、本物の賢者かもしれませんよ?」

「ッハハ、自分で言うかよ、それ。言っておくけど、俺は人間の心をこれっぽっちも信じちゃいない。あんたも例外じゃないさ」

「そう言う割には、ずいぶん良くしてくれていると思いますけど?」

「分かっちゃいないな。そういうことじゃないんだよ」

 いざ言葉にしようとすると、イスラはどう言って良いか分からなくなる。ただ、カナンという一個人の存在は、自分の心の片隅に置かれている。単なる旅の連れであり、それ以上でも以下でもないのだ。

 イスラは世界に対して絶望している。それは、憎んだり嘆いたりすることではない、徹底した無関心だ。世界は闇と同じで、自分が何か働きかけたところで、向こうが何かを返すことはない。稀にあるとしても、大抵は自分の存在を否定するような現象ばかり起きる。

 だから、イスラも世界や人に対して、何ら期待をしてはいない。世界が自分に対して無関心であるのなら、自分も世界に対して無関心でいよう。

 そして、この世界には様々な不条理が満ち満ちている。

「あんたの言うところの知識と想像力とやらがどこまで通用するか、明日試してみようぜ」

「……どうやって?」

 イスラは残ったスープをズズズと音を立てて啜った。

「瘴土に入る」

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