闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第五節/父と娘】
煌都の行政は十名からなる大祭司の合議制によって成り立っている。
彼らは都市のあらゆる分野に対して絶大な影響力を持っており、必要な者とそうでない者を選別する権威を与えられている。
そもそも、祭司とは生まれながらに体内に天火を宿した人々のことを指すのだが、わけても大祭司は他者より強い力を備えており、血を薄めないために近親婚紛いの政略結婚を繰り返してきた。
エルシャの大祭司の一人、エルアザルにとっても事情は同じだ。彼にとって、ユディトとカナンは愛情の対象であると同時に、一種の芸術品でもあった。
妻が双子を産んだと聞いた時は狂喜乱舞したものだ。しかも、かつて継火手であった妻の血を受け継ぐ二人の娘は、どちらも非常に強力な天火を宿していた。
―――この二人ならば、いずれはエルシャの支配者としてふさわしい存在になるだろう。
二人が揃って美しく成長していくにつれ、その確信は一層強まっていった。
容姿の美しさは支配者の条件の一つ。絶対条件と言っても良い。だが、それだけでは駄目だ。
だから、エルアザルは最高の教育を二人に施した。
学問は一流の教師たちに、時には彼自ら教え、武術は剣匠の称号を持つギデオンに手ほどきさせた。
もちろん、根回しも忘れなかった。守火手とは形式上単なる護衛役だが、一緒に居る時間が長くなれば、その分情も移る。事実上の婚約なのだ。
だからこそ、エルアザルのような高い階級に居る者はそれを使って関係性の強化を図るし、底辺に居る者はのし上がることを夢見て逆玉の輿に乗ろうとする。
二人が十六歳になる頃には、すでにあちこちから息子を守火手に就けたいという申し入れ……と金銀財宝が流れ込んできた。エルシャの名立たる名士たちにとっても、美しい二人の継火手はさぞや魅力的に映ったことだろう。
だが、エルアザルはすでに、ギデオンがユディトの守火手となることを認めていた。最初からユディトに他の人間をつけることなど考えてもいない。
これは、ユディトたっての願いだった。
ギデオンは出自こそ大したものではないが、その剣腕は都市の誰もが認めるところであり、一代で名声を築きつつある。
十八歳で都市の外を探索する巡察隊に加わり、百人以上の盗賊を討ち取った。二十歳の時に他の都市との合同試合で優勝し、軍人組合から史上最年少となる剣匠の称号を贈られている。
その後はエルアザルの依頼を受けてもっぱら剣術指南を務めているが、都市の危機にはいち早く行動し、たびたび英雄的な活躍を見せている。
しかも、ギデオンはまだ三十歳にもなっていない。将来有望で、ユディトの守火手に相応しい地位まで登り詰める公算が高い。
何より、従順なユディトが見せた我儘を叶えてやりたいという親心もあった。
彼がユディトの護衛となるための最後の関門は、今宵行われる武芸会で優勝することだが、それについては心配するだけ無駄だろう。
―――ユディトとカナン、どちらを愛しているかと問われたら、エルアザルはユディトを選ぶ。
正直なところ、彼はカナンのことがよく分からない。親に対して素直なユディトと違い、カナンにはどこか得体の知れないところがあった。
好奇心が強く、記憶力に優れ、頭の回転も速い。だが、物事を見る視点は極めて特殊で、彼の常識では考えられないことを平気で発言し実行する。貧民街に頻繁に出入りしては、私費を投じて救貧院を改善したり、手ずから病人の世話をする。天火はみだりに使ってはならないと定められているが、そんなことなどどこ吹く風で、子供の擦り傷程度にも癒しの法術を施す。まさに異端児だった。
そんなわけの分からない娘であっても、正式に継火手になれば奇行も治まるに違いない。幸い、変人と噂されても、そこは大祭司の息女。守火手の志願者はユディトに劣らず多かったし、家柄も十分だった。誰が武芸会で勝っても、彼にとっては損ではない。
そういうわけで、カナンは今夜、無事に煌都の上流階級に参入するはずだったのだ。
だから、彼女がどこの誰とも知れない闇渡りにオリーブの香油を使ったと聞かされたとき、彼の目の前は真っ白になった。気が付くと、それを告げに来た召使の首を締めあげて、ガクガクと揺さぶっていた。
事態が呑み込めると、夜会のために用意していた一番上等な着物をナイフで引き裂き、壺を投げ、長い白鬚を散々に搔き毟った。そうしてひとしきり暴れると、カナンを屋敷の中の礼拝所へ連れて来るよう命じた。
服を着替え、礼拝所に誰も近寄らないよう命じてから、エルアザルは荒々しく扉を開けた。
礼拝所は奥行のある造りになっていて、部屋の奥に小さな祭壇が設けられている。祭壇の両脇にはそれぞれ銀の燭台が置いてあり、常に明かりを絶やさないよう油が注がれている。壁には過去の歴史をモチーフにした壁画が描かれ、小規模ながらも厳粛な雰囲気に包まれていた。天井には換気のための天窓がいくつかついているが、泥棒が入れないよういずれも小さく作られている。
カナンは祭壇から最も近い長椅子に腰かけて待っていた。下女が気を利かせたのか、祭礼用のゆったりとした祭司服に身を包んでいる。
だが、娘の晴れ着姿を見ても、エルアザルの怒りは全くおさまらず、むしろ惜しいという気分の方が強くなるのだった。
エルアザルは祭壇の上に立った。
「お前は何かにつけて儂を困らせる娘だったが、これほど大それたことをするとは思わなんだ」
カナンは目を閉じ、俯いている。エルアザルは身を乗り出して怒鳴った。
「儂に大変な恥をかかせたのだぞ!」
怒声を浴びせられてもカナンは身じろぎ一つしない。エルアザルは矢継ぎ早にまくしたてた。
「名誉あるエルシャの大祭司の娘ともあろう者が、何という愚行を犯したのか。笑われるのはお前だけではない。儂と、お前の母と、姉のユディトも同様の辱めを受けるのだぞ! それに、お前の守火手になりたいと思っていた大勢の若武者の心をも蔑ろにした! お前は家族に恥辱を与えただけでなく、慣例を破るというれっきとした罪をも犯したのだ! 聞いているのか、カナン!?」
指を突き立て、口から泡を吹きながらエルアザルは怒鳴り続けた。息切れを起こして肩を波立たせる。
だが、カナンは口を開くどころか動きさえしない。さすがに奇妙に思ったエルアザルは、彼女の肩を掴んで強く揺さぶった。
「すぅ…………はっ、父上」
カナンは、寝ていた。
エルアザルの長い白鬚が震えた。平手打ちをしようと手を上げるが、ハッと目を覚ましたカナンは素早く立ちあがって彼の手の届かないところまで逃げた。
「……まるで反省の色が無いようだな、我が娘よ」
エルアザルが嘆息する。
「反省? 私が何か悪いことでも?」
「今まで散々言っただろうが!」
エルアザルは地団駄でも踏みそうなほどだが、カナンはけろりとした表情で首を傾げている。
「お前は闇渡りを守火手に選んだ!」
「そうですね」
「闇渡りは邪悪な存在だ! かつて煌都に住むことを許されなかった連中だ!」
「でも、祭司の書にはこう書かれています。『その者の着ている服を見て、魂の価値を決めてはならない』」
「ほう、そう言うか。だがこうも書かれておる。『祭司は民の模範であり、すすんで過ちを犯してはならない』とな。また『祭司は身を清く保たねばならない。すすんで穢れた者と交わってはならない』とある」
「『みだりに疑ってはならない。人は疑いによって生きるくらいならば、むしろ信頼によって死ぬべきである』」
「そんな綺麗ごとを持ち出すな! 現実の闇渡りなど、信頼出来ない輩の集まりだ。お前はまだ若く、実際に闇渡りの悪行を聞いたことがないからそう言っていられるのだ。それに、闇渡りを選んだことだけではない。お前は慣例に逆らって香油の蓋を開けた。それだけでも十分な罪だ」
「父上、慣例はあくまで慣例に過ぎません。武芸会で守火手を決める風習など、律法には記されていません」
「だから無視しても構わないと?」
「自分が本当に大切だと思うことのためなら、私は慣例を破ることも厭いません。
「家族の嘆きは大切ではないと?」
家族という言葉が出た時、一瞬だけカナンの表情に心苦しそうなものが浮かんだ。エルアザルはその機微を見逃さず、彼女のうしろめたさを手掛かりにして責め立てる。
「儂がこう言うのは、お前を心配しているからだ。闇渡りなどと一緒に煌都を訪ねてみろ。社交界に出入りすることなど出来ん。お歴々から助力を仰ぐことも出来んのだぞ。そうなれば、お前の将来がどれほど不利になるか。それを心配すればこそ儂は」
「それなら大丈夫です。私、煌都にはあんまり立ち寄らないつもりなので」
カナンはにこやかな表情で言ってのけた。
一方のエルアザルの顔は、まさに豆鉄砲を食らった鳩だった。
「……なんだと?」
「ですから、煌都の社交界に出入りするつもりはありません。私たちは森を抜けて行きます」
エルアザルは額に手を当てた。とうとう娘の気が狂ったと思ったからだ。あるいは悪魔にでも憑かれたか。
煌都の外には、光に見放された領域が広がっている。そこは人の暮らす場所ではない。様々な獣や虫が蠢き、日を浴びていないために肌はどんどん白くなっていく。水や食料も安定して手に入らず、少しずつ人の姿をした獣へと堕ちていくのだ。
それだけではない。瘴土と呼ばれる月光や星明りの全く届かない空間には、この世のものとは思えないおぞましい怪物たちが闊歩している。闇から生まれて来るそれらの物怪のことを、都市の人間は夜魔と呼んでいた。
「愚かなことを言うでない! 夜は人間の住むべき場所ではない。儂はお前を、夜魔の餌食にするために育ててきたのではない!」
「私は夜魔など恐れていません。いえ……継火手である私は、誰よりも前に立って夜魔と戦わなければならない。私の力はそのためにあります」
「わざわざ瘴土に入ってまですることではない。お前たちにはもっと大切な役割がある。煌都の民草を導いていくという使命がな」
「……私は、その考え方が間違っていると思います」
「まだ戯言を言うか!」
「私たちは祭司です! 私たちに与えられているのは天火を祀る権利だけで、税を取り立てたり、人々を裁く権利はありません!」
「もう良い!」
エルアザルは祭壇の上の水差しを払い落とした。陶器が割れ、水が床に飛び散る。
「お前の理想論は聞き飽きた! 夜会が終わるまでここで反省しておれ!」
そう怒鳴りエルアザルは礼拝所を出ていった。外から錠が下ろされる。残されたカナンは、しばらくその場に立ち竦んでいた。
父の剣幕に気圧されたからではない。理解されないだろうと分かってはいたが、それでもまるで聞く耳を持ってもらえなかったのは辛かった。
だが、自分にはやらなければならないことがある。それをしなければ自分が自分でなくなってしまう。カナンにとって、己の魂を裏切ることは死よりも恐ろしいことだった。
カナンは祭壇の上に乗り、そこから開いたままになっている天窓に向かって跳んだ。大の大人では通り抜けられないが、彼女の体格ならば何の問題も無い。
彼らは都市のあらゆる分野に対して絶大な影響力を持っており、必要な者とそうでない者を選別する権威を与えられている。
そもそも、祭司とは生まれながらに体内に天火を宿した人々のことを指すのだが、わけても大祭司は他者より強い力を備えており、血を薄めないために近親婚紛いの政略結婚を繰り返してきた。
エルシャの大祭司の一人、エルアザルにとっても事情は同じだ。彼にとって、ユディトとカナンは愛情の対象であると同時に、一種の芸術品でもあった。
妻が双子を産んだと聞いた時は狂喜乱舞したものだ。しかも、かつて継火手であった妻の血を受け継ぐ二人の娘は、どちらも非常に強力な天火を宿していた。
―――この二人ならば、いずれはエルシャの支配者としてふさわしい存在になるだろう。
二人が揃って美しく成長していくにつれ、その確信は一層強まっていった。
容姿の美しさは支配者の条件の一つ。絶対条件と言っても良い。だが、それだけでは駄目だ。
だから、エルアザルは最高の教育を二人に施した。
学問は一流の教師たちに、時には彼自ら教え、武術は剣匠の称号を持つギデオンに手ほどきさせた。
もちろん、根回しも忘れなかった。守火手とは形式上単なる護衛役だが、一緒に居る時間が長くなれば、その分情も移る。事実上の婚約なのだ。
だからこそ、エルアザルのような高い階級に居る者はそれを使って関係性の強化を図るし、底辺に居る者はのし上がることを夢見て逆玉の輿に乗ろうとする。
二人が十六歳になる頃には、すでにあちこちから息子を守火手に就けたいという申し入れ……と金銀財宝が流れ込んできた。エルシャの名立たる名士たちにとっても、美しい二人の継火手はさぞや魅力的に映ったことだろう。
だが、エルアザルはすでに、ギデオンがユディトの守火手となることを認めていた。最初からユディトに他の人間をつけることなど考えてもいない。
これは、ユディトたっての願いだった。
ギデオンは出自こそ大したものではないが、その剣腕は都市の誰もが認めるところであり、一代で名声を築きつつある。
十八歳で都市の外を探索する巡察隊に加わり、百人以上の盗賊を討ち取った。二十歳の時に他の都市との合同試合で優勝し、軍人組合から史上最年少となる剣匠の称号を贈られている。
その後はエルアザルの依頼を受けてもっぱら剣術指南を務めているが、都市の危機にはいち早く行動し、たびたび英雄的な活躍を見せている。
しかも、ギデオンはまだ三十歳にもなっていない。将来有望で、ユディトの守火手に相応しい地位まで登り詰める公算が高い。
何より、従順なユディトが見せた我儘を叶えてやりたいという親心もあった。
彼がユディトの護衛となるための最後の関門は、今宵行われる武芸会で優勝することだが、それについては心配するだけ無駄だろう。
―――ユディトとカナン、どちらを愛しているかと問われたら、エルアザルはユディトを選ぶ。
正直なところ、彼はカナンのことがよく分からない。親に対して素直なユディトと違い、カナンにはどこか得体の知れないところがあった。
好奇心が強く、記憶力に優れ、頭の回転も速い。だが、物事を見る視点は極めて特殊で、彼の常識では考えられないことを平気で発言し実行する。貧民街に頻繁に出入りしては、私費を投じて救貧院を改善したり、手ずから病人の世話をする。天火はみだりに使ってはならないと定められているが、そんなことなどどこ吹く風で、子供の擦り傷程度にも癒しの法術を施す。まさに異端児だった。
そんなわけの分からない娘であっても、正式に継火手になれば奇行も治まるに違いない。幸い、変人と噂されても、そこは大祭司の息女。守火手の志願者はユディトに劣らず多かったし、家柄も十分だった。誰が武芸会で勝っても、彼にとっては損ではない。
そういうわけで、カナンは今夜、無事に煌都の上流階級に参入するはずだったのだ。
だから、彼女がどこの誰とも知れない闇渡りにオリーブの香油を使ったと聞かされたとき、彼の目の前は真っ白になった。気が付くと、それを告げに来た召使の首を締めあげて、ガクガクと揺さぶっていた。
事態が呑み込めると、夜会のために用意していた一番上等な着物をナイフで引き裂き、壺を投げ、長い白鬚を散々に搔き毟った。そうしてひとしきり暴れると、カナンを屋敷の中の礼拝所へ連れて来るよう命じた。
服を着替え、礼拝所に誰も近寄らないよう命じてから、エルアザルは荒々しく扉を開けた。
礼拝所は奥行のある造りになっていて、部屋の奥に小さな祭壇が設けられている。祭壇の両脇にはそれぞれ銀の燭台が置いてあり、常に明かりを絶やさないよう油が注がれている。壁には過去の歴史をモチーフにした壁画が描かれ、小規模ながらも厳粛な雰囲気に包まれていた。天井には換気のための天窓がいくつかついているが、泥棒が入れないよういずれも小さく作られている。
カナンは祭壇から最も近い長椅子に腰かけて待っていた。下女が気を利かせたのか、祭礼用のゆったりとした祭司服に身を包んでいる。
だが、娘の晴れ着姿を見ても、エルアザルの怒りは全くおさまらず、むしろ惜しいという気分の方が強くなるのだった。
エルアザルは祭壇の上に立った。
「お前は何かにつけて儂を困らせる娘だったが、これほど大それたことをするとは思わなんだ」
カナンは目を閉じ、俯いている。エルアザルは身を乗り出して怒鳴った。
「儂に大変な恥をかかせたのだぞ!」
怒声を浴びせられてもカナンは身じろぎ一つしない。エルアザルは矢継ぎ早にまくしたてた。
「名誉あるエルシャの大祭司の娘ともあろう者が、何という愚行を犯したのか。笑われるのはお前だけではない。儂と、お前の母と、姉のユディトも同様の辱めを受けるのだぞ! それに、お前の守火手になりたいと思っていた大勢の若武者の心をも蔑ろにした! お前は家族に恥辱を与えただけでなく、慣例を破るというれっきとした罪をも犯したのだ! 聞いているのか、カナン!?」
指を突き立て、口から泡を吹きながらエルアザルは怒鳴り続けた。息切れを起こして肩を波立たせる。
だが、カナンは口を開くどころか動きさえしない。さすがに奇妙に思ったエルアザルは、彼女の肩を掴んで強く揺さぶった。
「すぅ…………はっ、父上」
カナンは、寝ていた。
エルアザルの長い白鬚が震えた。平手打ちをしようと手を上げるが、ハッと目を覚ましたカナンは素早く立ちあがって彼の手の届かないところまで逃げた。
「……まるで反省の色が無いようだな、我が娘よ」
エルアザルが嘆息する。
「反省? 私が何か悪いことでも?」
「今まで散々言っただろうが!」
エルアザルは地団駄でも踏みそうなほどだが、カナンはけろりとした表情で首を傾げている。
「お前は闇渡りを守火手に選んだ!」
「そうですね」
「闇渡りは邪悪な存在だ! かつて煌都に住むことを許されなかった連中だ!」
「でも、祭司の書にはこう書かれています。『その者の着ている服を見て、魂の価値を決めてはならない』」
「ほう、そう言うか。だがこうも書かれておる。『祭司は民の模範であり、すすんで過ちを犯してはならない』とな。また『祭司は身を清く保たねばならない。すすんで穢れた者と交わってはならない』とある」
「『みだりに疑ってはならない。人は疑いによって生きるくらいならば、むしろ信頼によって死ぬべきである』」
「そんな綺麗ごとを持ち出すな! 現実の闇渡りなど、信頼出来ない輩の集まりだ。お前はまだ若く、実際に闇渡りの悪行を聞いたことがないからそう言っていられるのだ。それに、闇渡りを選んだことだけではない。お前は慣例に逆らって香油の蓋を開けた。それだけでも十分な罪だ」
「父上、慣例はあくまで慣例に過ぎません。武芸会で守火手を決める風習など、律法には記されていません」
「だから無視しても構わないと?」
「自分が本当に大切だと思うことのためなら、私は慣例を破ることも厭いません。
「家族の嘆きは大切ではないと?」
家族という言葉が出た時、一瞬だけカナンの表情に心苦しそうなものが浮かんだ。エルアザルはその機微を見逃さず、彼女のうしろめたさを手掛かりにして責め立てる。
「儂がこう言うのは、お前を心配しているからだ。闇渡りなどと一緒に煌都を訪ねてみろ。社交界に出入りすることなど出来ん。お歴々から助力を仰ぐことも出来んのだぞ。そうなれば、お前の将来がどれほど不利になるか。それを心配すればこそ儂は」
「それなら大丈夫です。私、煌都にはあんまり立ち寄らないつもりなので」
カナンはにこやかな表情で言ってのけた。
一方のエルアザルの顔は、まさに豆鉄砲を食らった鳩だった。
「……なんだと?」
「ですから、煌都の社交界に出入りするつもりはありません。私たちは森を抜けて行きます」
エルアザルは額に手を当てた。とうとう娘の気が狂ったと思ったからだ。あるいは悪魔にでも憑かれたか。
煌都の外には、光に見放された領域が広がっている。そこは人の暮らす場所ではない。様々な獣や虫が蠢き、日を浴びていないために肌はどんどん白くなっていく。水や食料も安定して手に入らず、少しずつ人の姿をした獣へと堕ちていくのだ。
それだけではない。瘴土と呼ばれる月光や星明りの全く届かない空間には、この世のものとは思えないおぞましい怪物たちが闊歩している。闇から生まれて来るそれらの物怪のことを、都市の人間は夜魔と呼んでいた。
「愚かなことを言うでない! 夜は人間の住むべき場所ではない。儂はお前を、夜魔の餌食にするために育ててきたのではない!」
「私は夜魔など恐れていません。いえ……継火手である私は、誰よりも前に立って夜魔と戦わなければならない。私の力はそのためにあります」
「わざわざ瘴土に入ってまですることではない。お前たちにはもっと大切な役割がある。煌都の民草を導いていくという使命がな」
「……私は、その考え方が間違っていると思います」
「まだ戯言を言うか!」
「私たちは祭司です! 私たちに与えられているのは天火を祀る権利だけで、税を取り立てたり、人々を裁く権利はありません!」
「もう良い!」
エルアザルは祭壇の上の水差しを払い落とした。陶器が割れ、水が床に飛び散る。
「お前の理想論は聞き飽きた! 夜会が終わるまでここで反省しておれ!」
そう怒鳴りエルアザルは礼拝所を出ていった。外から錠が下ろされる。残されたカナンは、しばらくその場に立ち竦んでいた。
父の剣幕に気圧されたからではない。理解されないだろうと分かってはいたが、それでもまるで聞く耳を持ってもらえなかったのは辛かった。
だが、自分にはやらなければならないことがある。それをしなければ自分が自分でなくなってしまう。カナンにとって、己の魂を裏切ることは死よりも恐ろしいことだった。
カナンは祭壇の上に乗り、そこから開いたままになっている天窓に向かって跳んだ。大の大人では通り抜けられないが、彼女の体格ならば何の問題も無い。
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