天井裏のウロボロス

夙多史

Section5-5 霊威の支配

 紘也たちが駆けつけた時、孝一はもはや孝一ではなかった。
 ヤマタノオロチと同じ血色に変色した双眸がそれを物語っている。〝霊威〟にあてられ妖魔化した他の動物たちと同様に、無差別に人を襲うだけの存在となってしまったのだ。
 そこに黒服を着た葛木の術者二人が転がっている。遠目にだが彼らが孝一に倒されたところを紘也は見ていた。転がっていると言えば、そこら中に異形の死骸が点々としている。妖魔(=幻獣)になったとはいえ元はこちらの世界の生物だから、死んだとしてもマナの乖離は起こらないのだろう。
「結界を張ったわ。これで他の妖魔は入って来られないし、彼もこれ以上妖魔化が進むことはないはずよ」
「そうか。くそっ、俺たちがもう少し早く到着していれば」
 結界を張れば孝一が正気に戻るという都合のいい展開を紘也は期待していたが、やはりそんなことはないらしい。孝一の目は赤いままだし、獣のように紘也たちを威嚇している。
「言っとくけど、私の結界はそんなに長くは持たないわよ。持って三十分が限界。それまでに諫早孝一の処分を決めてもらうわ」
「処分、だと?」
 香雅里の言葉がこの上なく冷酷に聞こえた。
「俺に孝一を殺す決断をしろって言うのか? ふざけんな。俺は絶対に孝一を助けるぞ!」
 紘也が明言したところで、香雅里はフッと微笑んだ。
「そう、それでいいわ。見て、諫早孝一はまだ変異していない。ということは彼は今も戦っているのよ。意識はまだ生きている。彼を蝕む〝霊威〟を排除できればきっと助かるわ」
「どうやって?」
「それはわからないけど、気絶させるのがいいと思う。意識がなければ生物としての対象から外れるかもしれないし」
 方法が不安定過ぎる。しかし、それ以外に思いつくこともない。一瞬ウェルシュのアミュレットを押しつければいいのではと考えたが、すぐに廃案になった。あのお守りは契約者にしか効果がない。
「わかった。その方向でいこう」
 紘也と香雅里は頷き合うと、正面でこちらを威嚇している孝一に目を向ける。

 そこに孝一はいなかった。

「嘘、さっきまでそこに――」
「カガリちゃん、後ろ!?」
 愛沙の悲鳴に香雅里が反射的に振り向――いた瞬間、孝一の掌底が彼女の顎を下から思いっ切り突き上げた。弓反りになって宙を舞った香雅里は、アスファルトの地面にしたたか体を打ちつけてピクピクと痙攣し始める。
 紘也が事態を把握するのに数瞬のタイムラグが発生した。
「葛木!?」
 彼女に駆け寄ろうとした紘也の前に孝一が瞬時に回り込む。速いってものじゃない。神話級の術者となった日下部朝彦ほどではないが、一般人としての常識を遥かに逸脱している。
 たじろいだ紘也は駆け寄る足を止める。と、その鼻先を孝一の回し蹴りが掠った。紘也はゾッとする。蹴りのモーションがまるで見えなかった。
 それでも紘也は果敢にも孝一に掴みかかろうとするが、風のようなバックステップでかわされ触れることもできなかった。
「な、なんなんだ孝一のこの動きは!?」
 明らかに尋常ではない。
「よ、妖魔化で、彼の身体能力が底上げされているのよ。たぶん」
 意識を取り戻した香雅里が起き上がる。彼女は術式で肉体強化をしているはずなのに、それでも孝一の一撃で昏倒させられていた。妖魔化により人外の強さを得たとして、一体どれだけ身体能力が上がっているのだ。
 それに、他の動物たちはさほど強くなっているとは思えない。人間だから特別なのだろうか? よく人の力の多くは脳によりセーブされていると聞くが――
〝霊威〟がそのリミッターを解除したってことだろうか?
 だがなんにしても、このままでは気絶させる云々よりも先にこちらがやられてしまう。
「甘く見ていたわ。どうやらこちらも本気で臨まないといけないみたいね」
 香雅里が〈天之秘剣・冰迦理〉を取り出す。アレで孝一を斬殺するなんてことにはならないと思うが、最悪の場合、香雅里はそれを決断するかもしれない。
 香雅里が凶器を握ったことで、孝一は半歩分左足を引いた。青白い反射光を放つ凶刃に動物的本能が畏怖したのかと思いきや、違う。
 おもむろに孝一は上着の胸ポケットに指を突っ込んだ。そしてなにかを摘まんで引き抜き、戦闘態勢を取る。彼が握っている物、それは折り畳み式のサバイバルナイフだった。
 そのナイフを、孝一は投げた。ナイフは全くぶれることなく空気を引き裂き、香雅里の眉間へと正確に吸い込まれていく。紘也は孝一がダーツで一度も最高得点を外したことがないのを思い出した。
 香雅里は〈冰迦理〉の刃を返してナイフを弾く。だがその一瞬で孝一は移動していた。彼は常識外の跳躍を見せ、弾かれたナイフを空中でキャッチする。
「なっ!? なんて動きするのよ!?」
 驚愕する香雅里に、孝一は着地と同時に足をバネにして飛びかかった。
 ガキン! ナイフと〈冰迦理〉が打ち合い甲高い金属音が響動する。
 しかし競り合いにはならなかった。ただのナイフは衝撃に耐えきれず根元から折損し、文字通り人間離れした孝一の重い一撃に香雅里の得物を持つ腕は大きく開けてしまう。
 そこに隙が生じた。否、孝一が隙を作らせた。
「――あうっ!?」
 孝一の左手が香雅里の首を鷲掴みにした。香雅里の足が地面から僅かに離れる。孝一の指は骨まで食い込まんと彼女の首を圧迫し続けている。
「あ……が……」
 絞り出すような苦痛の悲鳴。やがて彼女の腕がだらりと弛緩し、握っていた〈冰迦理〉を地面に落してしまう。孝一は獣のような表情のまま、そうすることが当然というように香雅里を絞め続けている。
 このままでは、やばい。
「コウくんやめて!! カガリちゃんが死んじゃう!!」
「やめろ孝一!!」
 紘也は香雅里から孝一を引き離そうと掴みかかったが、腕の一振りで振り払われてしまう。孝一の物凄い腕力とアスファルトで打ちつけた痛みが体中を駆け巡る。
 ――どうすればいいんだ!
 香雅里はまた意識を失ってしまったのか、今まで漏れ聞こえていた悲鳴が途絶えている。
 ――なにか、なにかないのか!
 なにもないことがわかり切っているにも関わらず紘也は自分の体を弄る。孝一を気絶させられるようなものでなくても構わない。とにかく孝一の注意をこちらに向けられるなにかが欲しい。
 と、ズボンのポケットの中。
 ――これは……。もしかしたらいけるかもしれない。
 紘也は決意の光を瞳に宿し、もう一度孝一の下へ走る。
 孝一がこちらに気づき、香雅里を掴んでいない方の腕を振り翳す。
 紘也は足を止めるどころか、さらに加速する。
「孝一!!」
 叫ぶ。
「コウくん!!」
 愛沙も必死に友の名を呼ぶ。
 その時、孝一の表情が微かに変化した。歯を剥き出しだった口を閉じ、吊り上がっていた眉根が僅かに下りる。その表情は獣ではなく、人のそれ。
 振り被られていた腕がなにかに抵抗されるように小刻みに震えている。香雅里も言っていた。孝一の意識はまだ生きている。まだ完全に妖魔化していないと。紘也たちの声が届いた、そう信じたい。
 紘也は動きの鈍った孝一に思いっ切りタックルをかます。堪らず孝一は香雅里を放し、紘也と絡み合うように地面を転がった。
 回転が止まった時、紘也は孝一に馬乗りになっていた。
「ひ、紘……也……」
 孝一の口が小さく開いたのを紘也は見逃さなかった。そこから紡がれた擦れそうな言葉を聞き逃さなかった。
「……逃げ……ろ……オレは……お前……殺して……まう……」
「馬鹿を言うな。孝一らしくない。俺は絶対に逃げないぞ。俺は絶対にお前を――」
 言いながら、紘也は右手に差し出す。そこに握っていた物を、孝一へと押しつける。
「――助けないと気が済まない!」
 それは、わさびのチューブだった。

『身につけるだけで悪霊退散、ウロボロス印の浄化結界を術式で込めたタリスマンです』

 もはや賭けである。あれがその場限りのネタでなければ、『浄化結界』はきっと意味を成す。この時ばかりは、紘也はウロを神様よりも信じることにした。
 そして、どうやらそれは功を奏したようだ。
 チューブが孝一の体に触れた途端、彼の体がビクンと跳ねた。紘也は振り落とされそうになるのを必死に踏ん張り、依然としてチューブを押しあて続けた。

「天井裏のウロボロス」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く