天井裏のウロボロス

夙多史

Section4-7 上陸

 紘也は目の前に突然出現した――ように見えた巨大な大地の塊に目を丸くした。
「こ、こんなものがこんな近くにあったのかよ」
 振り向けば蒼谷市の街並みが小さく見える距離。数十キロメートルも離れていないだろう。切り離されたものとはいえ、こんな近海に大陸の一部が漂っていたと思うと目眩がしてきそうだった。
 海岸沿いは見上げるほど高い崖が行く手を阻むように切り立ち、その上に鬱蒼と茂る巨大樹の森は圧倒的な存在感を見る者に与えてくる。薄らとだが、霧とは違った靄が外周を覆っていてまさしく『幻想島』と呼べる情景だった。
 葛木家の精鋭を乗せたクルーザーは三隻。紘也と香雅里はその先頭を行く船に乗っている。ここまでは紘也の魔力リンクだけを頼りに進んできたのだ。方角しかわからなかった今までと違い、見えてしまえば後は操縦者に任せればいい。ちなにみ山田はとっても使えないことに船酔いで寝込んでいる。
「〈不可知の被膜〉が修復される前に接近するわよ」
 香雅里が全体に指示を飛ばす。ウェルシュの炎が噴き上がった地点は目と鼻の先だ。まずは合流するべきだろう。問題は近くに船を停泊できる場所があるかどうかだが、合流に関して紘也が心配することなんてなにもなかった。
 紅い影が崖の端から飛び降り、竜の翼を広げて紘也たちのクルーザーに向かって滑空してきたのだ。その影は翼を軽く羽ばたかせてブレーキをかけ、スタリと控え目な音を立てて甲板に着地する。
「……お待ちしてました、マスター」
 抑揚の薄い声がそう告げる。言うまでもなく、紘也の契約幻獣――〝ウェールズの赤き竜〟ウェルシュ・ドラゴンだ。
「ウェルシュ、無事でよかった。ウロは?」
「ウロボロスはグリフォンと交戦中です」
「もう見つかったのか」
 お前は加勢しないのか、と紘也は訊かなかった。一目見てすぐにどういう状況なのか悟ったからだ。
 ウェルシュの腕には緑髪の女性が抱えられていた。美術品のように鼻梁の整った顔立ちにスラリとした長身、よれよれになった夏物のチュニックは胸部辺りがやたらと女性的に隆起している。同じクルーザーに乗り合わせた葛木家の男性諸君らが思わず息を飲むほど、その女性は意識を失っていても男性を魅了する魔力を放っていた。
 確かに美人だ。
 見た目は、だが。
「そいつがヴィーヴルか?」
 紘也もその点は認める以外ないが、状況的にも性格的にも、そこより彼女の右眼がある部分を覆う医療用の眼帯が気になっていた。
「はい、そうです」
 ウェルシュは首を縦に振って肯定した。命そのものとも言える瞳をグリフォンに奪われた〝宝石眼の蛇龍〟――それが彼女というわけだ。
 彼女がいなければ紘也たちはアトランティスを見つけることすらできなかった。瞳を奪われた本人には悪い話だが、おかげで非常に助かったと紘也は思っている。
 だから、可能ならヴィーヴルの瞳も取り返してやりたい。
 でもやはり、紘也たちの最優先は愛沙の奪還である。
「葛木、ヴィーヴルを頼めるか?」
 せめて安全だけは確保しておこう。父親からも保護を頼まれているわけだし。
「言われなくてもそのつもりよ」
 香雅里も却下しなかった。
「見たところ大した怪我はしてないみたいだけれど、意識もないし、連れて行くわけにはいかないもの。上陸せず待機する班に面倒を見させるわ」
「助かる」
「……ヴィーヴルの怪我はウロボロスがエリクサーで治してくれました」
「「え?」」
 予想だにしていなかったウェルシュの言葉に紘也と香雅里の声が重なった。
「あのウロボロスが? 意外ね」
 香雅里と同じく紘也も意外だった。ウロは優しさを見せる時もあるが、それは身内の場合だけの話だ。ウロは自分が仲間だと認めていない相手にはとことん非情になれる性格だ。それがたとえ味方側だとしても。
 なのに残り一本しかないエリクサーをヴィーヴルに使った。二本の時にも渋っていたのに……ウロにはヴィーヴルを助けるだけの理由があったということだろうか?
「ウロボロスに頭を下げるのは嫌でしたが、ウェルシュがお願いしました」
「それも意外だな。やっぱりヴィーヴルが友達だからか?」
 コクリと頷くウェルシュ。それならそれでウロは意地でもエリクサーを使わない気もするが、少しずつでも二人の関係が良い方向に変わってきていると紘也は思うことにした。
「ところでウェルシュ・ドラゴン、この辺りに船を着けられる場所ってないかしら?」
 ヴィーヴルを葛木の術者に預けた後、香雅里がウェルシュに訊ねた。既に紘也たちを乗せたクルーザーは〈不可知の被膜〉の内側に入っている。誤って外に出なければ修復されたとしてもアトランティスを見失うことはない。
「もう少し向こうに岩礁地帯がありました」
「乗り上げないように気をつければ上陸できるかしら?」
「とにかく行ってみるしかないな。『黎明の兆』が使ってる港みたいな場所もどっかにあるだろうし」
「そうね。できるだけ慎重に急いで――ッ!?」
 香雅里がクルーザーを操縦している術者に命令しようとしたその時、前方の海面に不可視のなにかが叩きつけられ激しい水柱が突き上がった。
「うわっ!?」
 転覆しそうな大波に晒されながらも、手摺りに掴まった紘也たちは上空を見上げる。
 逆に犯人は猛禽類の翼を広げて空中に静止し、腕を組んで紘也たちを見下していた。
「グリフォン!」
 紘也は敵の正体を叫ぶ。青白い髪を逆立てた青年を見て、話だけを聞いていた香雅里や葛木の術者たちは「あれが……」と呟きながらも臨戦態勢を取った。大波に揺らされる足場は最悪だが、葛木家の術者たちはどこにも掴まることなく平然と立っている。彼らは近接戦闘に特化した陰陽剣士たちだ。バランス強化の魔術でも使っているのだろう。
「雑魚どもが群れて来たな。これより先は王の領地だ。足を踏み入れることは許さん」
 ズン! と。
 物理的ではない、精神的な圧力が紘也たちの体の自由を奪う。魔術を使って立っていた葛木家の術者すら倒れるように次々と膝をついていく。
「こ……これが〝王威〟の特性……」
 同じように屈服させられた香雅里が歯を食いしばってグリフォンを睨んだ。この精神的な圧力は冗談抜きで強力だ。人間なら誰しも動けなくなるし、精神の弱い者なら気を失ってもおかしくない。
 人間なら。
「ウェルシュ!」
「了解しました」
 唯一動けたウェルシュに紘也が命じると、彼女は魔法陣から紅蓮の炎を発生させて三隻のクルーザーを包んだ。紘也たちには熱くも痛くも眩しくもない炎は、グリフォンが放った〝王威〟だけを〝拒絶〟し焼却する。
 精神にかかっていた重さが消える。
「フン、ウェルシュ・ドラゴンか」
「……グリフォンはウロボロスと戦っていたはずです」
「奴なら吹き飛ばした。くたばってはいないだろうが、他のネズミがうろちょろしている状況で戻るのを待ってやるほど俺は優しくなくてな。なに、暇潰しのようなものだ。――貴様らはここで沈んでもらおうか」
 グリフォンから放たれた魔力が風圧となって船体を大きく煽る。先日よりも強い。たった一晩で魔力を完全に補充したようだ。
「させないわ!」
 葛木家の宝剣――〈天之秘剣・冰迦理〉を刺突に構えた香雅里が刀身に魔力を注入する。すると刀の周辺に冷気が満ち、込められた魔力が氷の槍となって具象し、グリフォンへ向けて射出された。
 コンクリートすら貫きそうな鋭利な氷槍はしかし、グリフォンが右手を翳しただけで風刃により粉々に打ち砕かれた。
「人間の小娘ごときが歯向かうか」
 空中からのありえない急加速でグリフォンが一気にクルーザーに接近する。ウェルシュが〈拒絶の炎〉を、葛木の術者たちが遠距離魔術で応戦するが、グリフォンは飛燕のように軽やかに宙を舞って魔術の弾幕に掠りもしない。
「まずは小娘、貴様から死ね」
「――ッ!?」
「葛木!?」
 グリフォンの凶爪が香雅里の喉に食い込む――その寸前だった。
 香雅里の前方の空間が歪み、グリフォンの右腕がそこに呑み込まれた。香雅里の喉に届くはずだった腕は空中で消えたように見え、指一本すら触れていない。
「これは……」
 怪訝そうに眉を潜めるグリフォン。
 その顔面に、空間から生えた別の手が突きつけられた。
「!」
 莫大な魔力が空間から生えた掌に収斂、圧縮され、眩い光を放って射出。ほぼゼロ距離で放たれた魔力弾には流石のグリフォンも不意を突かれたのか、避けることもできず吹き飛ばされ背後の崖をその身で崩壊させた。
「いやぁ、危ないところでしたね、かがりん」
 空間の歪みからペールブロンドを靡かせて一人の少女が這い出てきた。
「ウロ、お前……」
「あ、紘也くん見てました? あたしの〝連続〟の特性で無限空間をここに繋いでみたんです。そしたらなんと美味しいタイミング! ムフフ、惚れ直してもいいんですよ?」
「いや、直すもなにも惚れてないし。でも助かったよ。そんなこともできたんだな」
「……自分で入るのはあまり好きじゃないんですけどね」
 どこか悲しそうに項垂れたウロだったが、すぐに表情を引き締めて土煙を上げる崖を睨む。
「紘也くんたちは先に行ってください。あいつの相手はあたしがします」
「今ので倒したわけじゃないよな、やっぱり」
「アレくらいでぶっ殺されてくれるんなら、まだ可愛げがあるんですけどね」
 グリフォンに可愛げなんて求めていないが、紘也も奴が纏う〝王威〟や魔力とは別種の存在感を肌で感じ続けている。紘也だけじゃない。ダメージは与えただろうが致命傷には程遠い、と誰もが確信しているはずだ。
「わかった。無茶はすんなよ」
「オゥ! 紘也くんに心配されるだけであたしの戦闘力ばジュババグオーンって急上昇です!」
 調子よくサムズアップして飛び立つウロを見送ることなく、三隻のクルーザーは紘也たちを乗せて早急にこの場を離脱した。

 ウェルシュの案内通りに船を進めて間もなく、上陸できそうな岩場が見つかった。準備はとっくにできているため、船酔いで寝込んでいた山田を叩き起こして一同はアトランティスの大地を踏み締める。
《おえっぷ……や。やっと陸地か》
「お前、一応水龍だよな?」
 岩場に降り立ってなお青い顔をして口元を手で押さえる山田には、紘也はもう呆れるしかなかった。
「A班は私と共に『黎明の兆』の本拠を叩くわよ。B班は島内の探索とA班の補助を。C班は船で待機。なにかあった時に臨機応変に対応すること。ヴィーヴルの監視も忘れずに」
「「「はっ!」」」
 向こうでは香雅里が葛木家の精鋭たちに指示を出している。紘也はそんな彼女を横目で一瞥すると、そそり立つ巨大樹の森を見上げた。近くで見るとより一層その壮大さを理解させられる。
 ――この島のどこかに愛沙がいるんだよな。
 些か広過ぎる。けれど、上陸してすぐに葛木家が探知魔術を行使しているため見つかるのは時間の問題だろう。
「……マスター、ウェルシュはウロボロスの加勢に行きます」
 と、ウェルシュがそう進言しながら紘也の袖をちょいちょいと引いてきた。
「珍しいな、ウェルシュからそう言って来るとは」
 仲間意識はあるが(本人たちは認めないだろうが)、犬猿の中たるウロボロスとウェルシュ・ドラゴンは共闘したがらない。なんだかんだで強敵相手には共に戦っているものの、それは紘也が指示しているからだ。自分から言い出したことは紘也の経験上だとない。
「ヴィーヴルを助けてもらった借りを返すだけです」
 というのがウェルシュの言い分だった。紛れもない本音だろう。でも心のどこかでウロのことも心配している、紘也は無表情の奥にそんな感情を見た気がした。
「そうか。気をつけろよ。ウロは拒否るだろうから、お前の方で合せてやれ」
「了解です」
 ウェルシュは背中から真紅の竜翼を出現させると、一瞬で飛翔し、あっという間に見えなくなった。
 入れ替わりに香雅里が歩み寄ってくる。
「秋幡紘也、『黎明の兆』のメンバーが集まっている位置が判明したわ。恐らくそこに鷺嶋さんもいると思う」
「近いのか?」
「近くはないけれど、それほど遠いってわけでもないわ」
 徒歩で行ける距離ではあるらしい。
「それと、非常に不愉快なことなのだけれど――――囲まれてるわ」
「!?」
 バッ! と香雅里が〈天之秘剣・冰迦理〉を抜いて紘也を庇う位置に立つ。数秒後、岩場や森の影から人影がわらわらと出現した。
 全員が神父やシスターのような格好をし、ペンダントサイズの十字架を構えている。
 紘也は初めて見たが、言われなくてもわかる。魔術的宗教結社『黎明の兆』――その構成メンバーだ。
「貴様ら、そこを動くな!」
 敵側の代表と思われる神父が声を張った。敵の数は二十、いや、三十はいるだろう。ペリュトンを筆頭とした契約幻獣も含めればもっとだ。
 対する葛木家の戦力は、人間の数だけで半分程度でしかない。
 だが数の上での戦力差は想定済みである。香雅里は臆することなく強い意志を込めた声で全体に命じた。

「作戦に変更はないわ! 各自式神を展開し、A班は速やかに敵包囲網を突破。残りは彼らを鎮圧した後にそれぞれの役割を全うしなさい!」

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