天井裏のウロボロス

夙多史

Section6-6 気配なき影

 西日が水平線の彼方へ沈み、夜の帳が下り切った時間帯。
 蒼谷市郊外の麓にポツリと建つ小さな教会がある。周囲に民家は少なく、明かりの灯っていない教会は忘れ去られたような寂しさを醸し出していた。
 そんな人気のない教会に、彼女は従者の神父を二人だけ引き連れて訪れていた。
「……やられましたわ。まさかあのグリフォンが敗れるとは」
 忌々しく吐き捨て、彼女――『黎明の兆』総帥リベカ・シャドレーヌは念のため尾行を警戒しつつ、教会の扉を開けて中に入る。
 この教会はもしもの時のためにリベカが確保しておいた避難所である。元々教会で働いていた神父やシスターは洗脳済み。数人の構成員も潜入させていつでも使えるようにしておいた。逃亡のための物資もここには運び込んである。なんなら籠城戦もある程度ならば可能だ。
 だが本当に使うことになるとは……リベカは湧き上がる苛立ちにほぼ無意識で歯ぎしりをした。
 潜入させている構成員に状況はまだ伝えていない。通信を傍受されてはせっかく見つからずに確保していた避難所が台無しである。構成員たちにはこれから直接事情を話し、素早く蒼谷市から撤退する準備に取りかからなければならない。
 ――『主』よ。今、わたくしもそちらへ向かいますわ。
 既に『黎明の兆』は役割を果たしている。これからは『朝明けの福音』として〝聖女〟ヨハネ・アウレーリア・ル・イネス・ローゼンハインの下で活動することになる。
 全ては『主』のために。輝かしき来世のために。
「……?」
 教会の中を数歩歩いたところで、リベカはふと違和感に気づいた。
 本来ならば教会に入る前に気づかねばならなかった、確かな異変。
「……誰かいませんの?」
 教会の講堂は月明かりのみで薄暗く、人の気配を一切感じなかった。
 いつでも使えるように人員を配備している教会に、誰もいないなどありえない。この時間ならばまだ教会には明かりが灯っていなければおかしいのだ。
 それに、なにか妙に生臭い。
 ――この臭いは……血?
「リベカ様、これを」
 従者の一人に呼ばれる。彼が示した講堂の座席に、神父とシスターが肩を寄せ合うようにして瞼を閉じていた。
 死んではいない。眠っているだけのようだ。
「洗脳した教会の神父とシスターのようです」
「なぜ……?」
 この時間だと彼らはもう家に帰らせているはずだ。残って眠っていることはそれだけで異常事態としての警戒レベルは高くなる。
「ひっ!? り、リベカ様!?」
 もう一人の従者が悲鳴じみた声を上げた。
「今度は何事ですの!」
 リベカはつい大声を上げてしまいながらも彼の方へと歩み寄り――
「――っ!?」
 絶句した。
 座席の陰に隠れるようにして、一人の神父が倒れていたのだ。
 眠っているのではない。なぜなら彼の周りは固まった血液で溢れていたからだ。よく調べてみないとわからないが、恐らく喉を切られて絶命したのだろう。
「リベカ様! こちらにも!」
「こちらもです!」
「ど、どういうことですの……?」
 この教会に潜入させていた『黎明の兆』の構成員だけが、見事に全員、恐らく初撃で的確に急所を突かれて殺されていた。
 戦闘の形跡はなかった。全てが戦いに入る前に終わっている。
 そして状況から考えて、『黎明の兆』だけが狙われたのは明らかだ。
「隠れ場所が割れていた、ということですの?」
 リベカたちは得体の知れない恐怖のあまり、自然と身を寄せ合うように講堂の中央へと集まる。
「葛木家? いえ、違いますわね。葛木家ならなるべく生け捕りにするはずですわ。連盟も同じ。そもそも連盟の懲罰師が到着するには早過ぎますし」
 彼らは皆、最初から殺す意志にやられているとしか思えなかった。
「まさか秋幡辰久の息子が? ……そうですわ! そうに違いありませんわ! あのクソガキ、温いこと言いながらやってくれるじゃありませんか!」
「リベカ様、どうか落ち着いてください」
 従者の言葉になど耳を傾けず、恐怖と混乱からリベカの思考はぐちゃぐちゃになっていた。冷静に考えればそうではないとわかるのに、彼女は全ての原因を無理やり秋幡紘也と決めつけて吐き捨てる。
「やはり秋幡辰久の息子は危険過ぎますわ! 全ては『主』のために、輝かしき来世のために! この街を離れる前にあのクソガキの息の根だけは絶対に止めなければなりませんわ!」

「おっと、それだけはやめてもらえねえかな?」

 声。
 三人の誰でもない、若い、少年とも呼べそうな男性の声。
「誰ですの!?」
 どこから聞こえたのかもわからないその声に、リベカが首を巡らそうとした瞬間――

 ギラリ、と。
 リベカの目の前に、月光を浴びて輝く銀色の刃が出現した。

「ひっ!?」
 それはどこにでもありそうなサバイバルナイフだった。だが人を殺害するには充分な凶器であり、リベカは思わず短い悲鳴を上げる。
「あいつを守ることがオレたちの使命でね。下手に手を出すつもりなら、その辺に転がっている死体のお仲間になってもらうぞ?」
「……」
 何者かが後ろからリベカに刃を突きつけている。
 後ろには従者の神父が二人しかいなかったはずだ。どちらかが裏切ったのかと思ったが、あの声は二人のものではない。この空間に『四人目』がいることは確かだ。
「何者だ貴様!」
「リベカ様から離れろ!」
「おっと危ない」
 後ろの二人が攻撃しようとしてくれたのだろう。何者かはリベカからナイフを離すと、人間離れした跳躍力で飛び、三人の前方に着地する。
 月が雲に隠れる。おかげで薄暗くて顔はよく見えないが、まだ秋幡紘也と変わらない少年だということはわかる。
「お下がりくださいリベカ様!」
「ここは我々が」
 リベカを庇うように飛び出した二人が十字架を構える。
「「十字は」」
 彼らは、文言をそこまでしか唱えられなかった。
 リベカの目には、あの何者かが唐突に消えたように見えた。
 そして次の瞬間には、二人とも喉から血を噴出して転がっていた。
 ――え? 今、なにが……?
 従者の神父たちは正確に頸動脈を切断され、絶命している。間違いない。教会に潜入させていた構成員たちを殺害したのもこの少年だ。
「やめとけ。魔導具は見ただけでわかるように訓練されている。自分の意思で抑えてなきゃ、反射的に体が動いてこの通りだ」
 元の位置に戻った少年が片手で血の付着したナイフを弄びながら言った。
「あなたは……」
 目の前の敵から魔力は感じない。葛木家のように術式で肉体強化しているわけでもなさそうだ。
 純粋に魔力を持たない人間。
 それなのにこれほど人間離れした動き。
「まさか、あなた……」
 リベカは知っている。かつて『朝明けの福音』に所属していた時、何度か彼らに依頼したことがある。
 魔力を持たない人間を『改造』し、魔術師にとって最悪の暗殺者を生み出していた組織。
 魔術師専門の暗殺集団。

「『ラッフェン・メルダー』」

「正解」
 心なしか、少年がニヤリと笑ったように思えた。
 魔力を持たないからこそ魔術師に感知されにくい存在。その隠遁技術は魔術でもないのに歴戦の兵士でさえ目の前にいることに気づかないと言われている。実際、リベカたちもこの少年が教会内にいたことに声をかけられるまで認識できなかった。
「おかしいですわね。『ラッフェン・メルダー』はわたくしたちと同様、十年ほど前に秋幡辰久によって殲滅されたはずですわ」
「ああ、間違っちゃいない」
「なら、なぜあなたは存在するのです?」
「『ラッフェン・メルダー』の暗殺者は、物心つく前の赤子の頃から肉体を魔改造されるんだ」
「……? なにを仰っていますの?」
 いきなり意味のわからないことを語り出す少年に、リベカは眉を顰める。
「当時、六歳だったオレはもう立派な暗殺者さ。自分で言うのもなんだが、同期の中では才能が飛び抜けていたらしい」
「だからなんですの?」
「秋幡辰久は組織を殲滅した後、行く宛てのない子供たちを全員引き取ったんだ。もう暗殺なんてしなくていいように、静かに一般人として暮らせるように、この蒼谷市に居場所まで作ってくれた」
「……」
「オレたちは感謝してるんだ。あのクソみたいな組織から救ってくれたんだからな。あの人は見返りなんて求めちゃいなかったけど、それでもなにか恩返ししないとオレたちの気が済まない。そこであの人の息子とその周囲を全力で、なにをしてでも守ると決めたんだ。前の八櫛谷の時はオレが殺しちまいそうでちょっとやばかったけどな。あ、これ紘也たちには内緒な。あいつらはなにも知らねえんだ」
「……」
 少年が語っている隙にリベカは懐に手を入れ、十字架を取り出し――――息をつく暇もなく奪われた。
「なっ!?」
「やめとけと言ったぜ。オレたちは砂糖に群がる蟻のように紘也を狙って現れる魔術師どもを、星の数ほど潰してるんだ。満身創痍のあんた程度を殺るくらい爪楊枝でもできる」
 冗談ではないだろう。この少年の言葉は全て本気だ。リベカが下手に動けばその瞬間にやられる。
「だが、あんたは殺さない。あの人に言われているからな」
 少年は肩を竦め、
「でもな、オレはよくてもオレの後輩たちはあんたの動き次第で加減できなくなるかもしれないぜ?」
「後輩? それにあなた、さっきからオレ『たち』って――ッ!?」
 リベカはようやく気づいた。
 講堂内の至るところに、十数人の人影が現れていることに。
「オレの後輩たちだ。優秀だぜ? この教会が最近怪しいことも突き止めてくれたしよ。あ、全員後輩なのはアレだ。生憎と同期や先輩は全員組織が壊滅する前に亡くなっちまったから。まあ、この中じゃオレが一番上のお兄さんってわけだな」
 少年の軽薄な口調はユニコーンを想像させるが、彼よりも明らかに冷たい殺気がリベカを取り囲んで離さない。
「観念しろ。あんたに逃げ場はねえよ」
 リベカにはもう、諦めるしか選択肢がなかった。

        ∞

『リベカ・シャドレーヌを捕縛したぜ』
 夜の空港内を移動中にかかってきた電話に、秋幡辰久は嘆息した。
「まぁた無茶したんじゃないでしょうな?」
『いやいや、楽な仕事だったよ。相手も弱ってたしな』
「おっさん、君たちにはできるだけ穏やかに過ごしてほしいんだけど」
『任務を与えてくれて感謝しております』
「不器用だねぇ」
『手先は器用だぜ』
 微妙な冗談にお互い苦笑を漏らす。辰久としては本当にこんなことをさせるつもりなどなかったのだ。ただ普通の一般人として、できれば息子と仲良くやってほしかった。
 だが、これが彼らの願いだ。全員で土下座までされて頼まれてしまえば、断るに断れない。せめて無茶はしないように、なるべく人を殺さないようにとしか言えなかった。
『親父さん、今、日本の空港だろ? 後輩たちがリベカ・シャドレーヌを護送してるから引き取ってくれ』
「ん? ああ――ってあれ!? おっさん君らにその辺伝えたっけ!? まさかおっさんに発信器とかつけちゃったりしてる!?」
『まあまあ、細かいことはいいじゃん。紘也が無事なら』
「気になる!? おっさん超気になります!? あとこの件に関して紘也少年はなんの関係もないとおっさん思うよ!?」
「お客様、他のお客様のご迷惑ですので、空港内でのお電話はお控えください」
 なんかやたらと筋骨隆々とした空港の業務員に注意された。「あ、はい、すみません」と辰久はペコペコ謝って早足で空港の外まで移動する。
「ほらぁ、怒られた」
『オレのせい違う』
「まさかの否定!? いやおっさんが叫んでツッコミしたのが悪いんだけど!? あれ? やっぱりおっさんのせい!?」
 空港内じゃないのに周囲の人々から注目を浴び、辰久はとりあえず深呼吸して小声になる。
「まあいいや、今からそっちに行くから。俺の引き籠り幻獣に渡したい物もあるし。息子の顔も見たいし。リベカ・シャドレーヌの引き渡しは俺の部下を空港に待機させておくからそっちにお願い」
 それから適当にタクシーを捕まえ、ドアが自動で開いたところで辰久は電話を切ることにした。

「それじゃ、今日もご苦労さん。これからも紘也のこと頼むよ――孝一少年・・・・

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