天井裏のウロボロス
Section1-1 秋幡家は本日も平常運転
高校の夏休みも中盤に差し掛かった八月上旬の、とある昼下がり。
秋幡紘也は自室で机に向かい、残っている学校の宿題を片づけていた。本来は七月中に終わらせておく宿題だが、今年はいろいろあって落ち着いて取り組める時間が少なかったのだ。
シャーペンを置き、数学の問題集をそっと閉じて息をつく。
「ぐ……」
軽く背伸びして体をリフレッシュ。長時間ずっと机に向かっていたからなんとも言えない気持ちよさがあった。
「ふう……なんとかあらかた終わったな。あとは美術の人物画だけか……」
これがまた面倒臭い。画用紙に絵具にパレットにバケツに新聞紙などなど。準備しなければならない物がたくさんあるのだ。準備が多いと片づけも大変である。絵を描くにしても丸一日潰す覚悟が必要だ。それになにより、画力に全く自信のない紘也だった。
――題材がなんでもいいなら手っ取り早く適当に終わらせるんだけど……。
人物画――それも『異性を描け』という美術教師の思いつきで付け加えられた気の狂った条件が紘也をさらに悩ませていた。
「ささっと絵が描ける魔術でもあればいいのに。……まあ、今の俺じゃあったとしても使えないんだけど」
秋幡紘也は魔術師の血を引いている。
しかもただの魔術師ではなく、世界魔術師連盟が誇る大魔術師の息子だ。内に秘めた魔力量はその大魔術師である父親すら越えているかもしれず、昔は紘也も魔術師となるべく道を歩んでいた。
とある事故をきっかけに紘也は魔術師を辞めたのだ。知識も魔力も技術もそのまま残っているものの、魔術は使えないようになっている。使わないのではなく、使えない。水道に例えるなら、貯水もあり蛇口も壊れていないのに、どこかで堰き止められているせいで水を出せない状態だ。
今まではそれでいいと思っていた。一般人として、普通の世界で普通に暮らしていけるならば幸せだった。
だが、そうも言っていられなくなった。
世界魔術師連盟の実験が失敗して世界に幻獣が溢れ返ったことも理由の一つだが、紘也だけでなく紘也の周囲まで魔術的な事件に巻き込まれ始めたのだ。
魔術的宗教結社『黎明の兆』。
かつて紘也の父親によって解体された滅亡主義団体『朝明けの福音』の聖女――〝先導者〟ヨハネ・アウレーリア・ル・イネス・ローゼンハインを信仰する狂った教団だ。
ヨハネは組織が解体される直前に転生術を使っていたらしい。他者へ生まれ変わるというとてつもない魔術で転生した先が、紘也の友人――鷺嶋愛沙だった。ヨハネを復活させるために、『黎明の兆』は愛沙を誘拐し監禁したのだ。
なんとか愛沙を助け出したが遅く、ヨハネは復活してしまった。おかげで紘也も一度ガチで死にかける事態に陥ったりしたのだが……そこはその、まあなんというか、アレがコレでアレのソレがソンナカンジでかろうじて命を繋ぎ止めることができた。
ヨハネは逃亡したが、『黎明の兆』の総帥――リベカ・シャドレーヌは騒動が終わった後で連盟によって捕縛されたらしい。紘也に並々ならぬ憎悪を向けていた彼女が捕まった点だけはすこぶる安心できた。
本当に、安心できたのはそこだけだ。
言うなれば『聖女の抜け殻』となった愛沙だが、もう絶対に狙われないという保証はどこにもない。『抜け殻』になにかしらの役割があるかもしれないのだ。無事に取り戻した日常が明確な意思によって再び破壊される。その可能性がゼロだと言い切れないから困る。
今後も契約幻獣たちや葛木家に頼ってばかりではダメだ。
紘也自身がせめて自分の身を護れる程度には戦えないと、この先足を引っ張ることになってしまうだろう。
痛感した。
魔術師を辞めて平凡な一般人でいられるほど、世界は甘くなかった。
だからこそロンドンにいる父親に会う覚悟を決めたのだけれど(実際は紘也のせいで十年も病院生活をしている母親に会される覚悟だが)、向こうも『朝明けの福音』が再興したことでてんやわんやなためなかなか時間の都合がつかない。
よって、現在は『待ち』の状態だった。
――行く前に宿題だけは終わらせとかないとな。
あとは美術の宿題だけ。異性を描くとなると紘也一人ではどうにもならないため、誰かにモデルになってもらわねばなるまい。
「葛木は断固拒否しそうだなぁ。愛沙は一昨日から母親の実家に行ってるし……クラスの女子で暇してそうな人いたかな?」
その暇を一階のリビングで絶賛持て余している少女たちのことは決してモデル候補にカウントしない紘也だった。モデルにするとアレらを『異性』だと認めてしまうことと同義である。それにとにかく面倒そうだ。
たとえばウロに頼むとする。高確率でヌードになる。
たとえばウェルシュに頼むとする。聞きつけたウロが割り込んで高確率でヌードになる。
たとえば山田に頼むとする。幼女を描くとか紘也の正気度が疑われ、そしてウロが山田を蹴り倒して高確率でヌードになる。
どうしよう、どれも結末は一緒だった。考えるだけで頭が痛い。
「柚音がいれば気兼ねなく頼めるんだが……いや、妹をモデルにするのもどうかな」
紘也の妹は両親と共にロンドンへ行ったのだ。いない者はいない。すっぱり諦めて夜にでもクラスの誰かに電話しようと決め、紘也は乾いた喉を潤すべく一階のキッチンへと向かうことにし――
部屋を出た瞬間、金髪の美少女と出くわした。
「あ、悪い、ウロ」
危うくドアでバコンとしばいてしまうところだった。ドアの向こう側が見えないと時々こういうアクシデントが起こってしまうのは必然だろう。
幸い目の前の少女は紘也が開けたドアにぶつかることはなかった。もっとも、ぶつかって怪我をしても一瞬で治ってしまう特性だから心配する必要性は皆無であるが……。
彼女は人間ではない。
見た目こそ人間の少女だが、その正体は〝円環の大蛇〟〝無限の大蛇〟〝身食らう蛇〟など様々な異名を持つチート幻獣ことウロボロスである。紘也の初めての契約幻獣でもあり、現在は理由あって秋幡家の天井裏に寄生、もとい居候している。口を開けば大変やかましく、ことあるごとに紘也に(性的な意味で)絡もうとしてくるから厄介なのだ。
今回は紘也の部屋の前に突っ立っていたようだが……まさか、紘也が人物画のモデルで困っていることを知られてしまったのではなかろうか? だとすれば『一肌脱ぎます!』とか言って実際に服を脱ぎ出しかねない。
少しでもその兆候が見えたらチョキで黙らせようと観察力を高める紘也だったが、ウロが口を開くことはなかった。
どころか、動こうともしない。端整な顔に微笑を浮かべたまま、青い瞳で紘也をじっと見詰めているだけだった。
――おかしい。
普段ならとっくに文章にすれば百文字以上は余裕で使う量の台詞を吐き出している頃合いなのに、彼女が騒ぎ出す気配はない。
「ウロ、お前なんか変――」
ちょっと、ほんのちょっとだが心配になって紘也がウロの肩に手を置くと――ぐらり。表情はそのままに、ウロの体がゆっくりと力なく廊下に倒れた。
「なっ!?」
ぶっ倒れたウロはだらりと弛緩し、まるで死体のように指先一つピクリとも動かさない。微笑を浮かべたままの表情がやたらと不気味に見えた。
さっと血の気が引く。
「なんの冗談だ! ウロ、おい! しっかりし……………………なんだこれ?」
ウロを抱き起した紘也は、そのあまりにも不自然な『軽さ』に疑問を覚えた。よく見たら背中にファスナーがついている。
「……」
ジジジっとファスナーを下ろす。パックリと裂けた背中の中には白い綿が大量に詰め込まれていた。
「……」
等身大の人形? いや、それにしては髪の毛や肌の感触が生々し過ぎる。
「……」
紘也は神経を研ぎ澄ませる。ウロボロスの契約リンクを探る。場所は真下。では、目の前のコレは一体なんなのだろう?
本人に訊くのが一番だ。
「ウロ! なんなんだコレは!?」
急いで一階に下りた紘也は勢いよくリビングに突入して叫んだ。ドバン! とドアが開かれると同時に「ぴぎゃ!?」と変な声が聞こえて青い物が転がったが今は気にしないことにする。
「オゥ! やっと見つけましたか紘也くん」
金髪青眼の少女――幻獣ウロボロスはソファに優雅な姿勢で寝っ転がって週刊の漫画雑誌を読んでいた。手が届く距離にあるテーブルにはポテチとコーラが置かれ、居候のくせに大変いい御身分であることが窺える。
その辺を小一時間ほど説教したかったが、残念ながら優先して訊くことがある。今はぐっと我慢の子。
「コレはなんだ?」
「抜け殻です」
「は?」
ウロボロスがなにを言ったのかさっぱりわからなかった。
「コレはなんだ?」
「なんでもう一回訊くんですか!? 抜け殻だって言ったでしょ!? あたしの抜け殻ですよ抜け殻。ちょっと今朝背中がムズムズしてたからそろそろ時期だなぁと思ってジュホヒュピホーっと一気に脱いだのです」
ウロボロスの抜け殻。
それだけ聞くと魔術的な意味で大変な代物に聞こえなくもないが、紘也が抱えているソレにそんな価値があるとは到底思えなかった。
だが、納得できる部分もあった。
「時期、か。そう言えば蛇は夏に脱皮しやすいって生物の先生が言ってたような」
「紘也くん紘也くん、もしかしてわざと言ってる? あたしはね、蛇じゃなくてそれはもうめっちゃくちゃ高貴で高位で高尚なドラゴンなんですよ? オーケー?」
「ノー」
「ノー言われた!?」
漫画雑誌を放り投げてさめざめとわざとらしく涙するウロだった。
「仮に脱皮したことはよしとしよう。で、なんでその抜け殻に綿を詰めて俺の部屋の前に置いてたんだ?」
「え? そんなの決まってるじゃあないですか。抱いて寝れば安眠保証。アンナコトやコンナコトから人に言えないムフフなことまでご利用可能な至高の一品。あたしからのプ レ ゼ ン トです♪」
「超いらねー」
紘也は抜け殻人形をウロに向かって投げ返した。
「まあまあまあ、そんなこと言わずに。お財布に入れると金運が超絶3UPしますよ?」
「入るか!? てか返品したんだから押しつけてくんな鬱陶しい!?」
「クーリングオフは適用されません」
「ずいぶん悪質だな!? ていうかそもそもなんで抜け殻が人型なんだよ!? おかしいだろその姿は『人化』した偽物なんだぞ!? 眼球とか皮じゃねえし!?」
指摘すると――バッ! もんのすごい勢いでウロは明後日の方向に顔を背けた。どうやら訊かれると都合の悪い部分だったらしい。
「まあまあまあ、細かいことはお気になさらずに。もろたもろた言うたらあかんで」
「前にもやったぞこんな遣り取り!?」
強引に押しつけられたウロボロスの生皮製等身大ドールに心の底から気持ち悪さが込み上げてきた紘也は、最終手段としてウロの対面に位置するソファを見る。
そこには燃えるような真紅の髪を二股の尻尾みたく結っている少女が座っていた。ポテチを齧りながらスマホのパズルゲームを夢中でプレイしている彼女も紘也の契約幻獣だ。
ウェールズの赤き竜――幻獣ウェルシュ・ドラゴン。
元々は父親の契約幻獣だったが、紘也を護衛するため紘也と契約し直した少女。
紘也が従える契約幻獣三体の中で最も『マシ』な部類に位置する彼女に、本日最初の命令を降す。
「ウェルシュ、焼却処分」
無表情の紅い瞳が『待ってました』と言わんばかりに光を灯す。
「……了解です、マスター」
淡々と紡がれた言葉。次の瞬間、空中に放り投げられたウロボロスの抜け殻が真紅の炎に包まれた。
「なんばしよっとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!?」
ウロが泣き叫びながら炎を消そうと飛びかかるが、残念。もう遅い。真紅の炎は抜け殻だけを灰も残さず綺麗に焼滅させた。ウェルシュ・ドラゴンの〈拒絶の炎〉は対象物だけを跡形もなく焼き尽くすのだ。
「ううぅ、酷いよ紘也くん。アトランティスではあんなに愛を熱く語り合ったのに。唇的な意味で」
「やめろ思い出させるな!」
かぁあああ、と顔面の発熱量が上昇したことを自覚した紘也は慌てて首を横に振り回した。『黎明の兆』が本拠地としていた放浪大陸『アトランティス』での戦いで、紘也は一度死んでいる。それを蘇生してくれたのがなにを隠そう、目の前にいるウロだ。方法はエリクサーの原液――ウロボロスの血を飲ませること。
口移しで。
「アレは人工呼吸的なもんだろ!」
「キスはキスです。いい加減に認めてあたしに身も心も捧げてくださいよベッドの上で!」
「……ウロボロス、その辺りの話をウェルシュは聞いていません。詳しく。詳しく」
「ええい!? あんたは黙ってポテチでも食ってなさい腐れ火竜!?」
「マスターの唇を奪ったウロボロスはウェルシュが滅してなかったことします。あとウェルシュは腐ってません」
なにかのスイッチが入ったウェルシュがウロに飛びかかったおかげで紘也は解放された。床でもみくちゃになりながらプロレスを繰り広げる二人に溜息をつき、紘也は喉がカラカラだったことを思い出した。
麦茶を飲むためキッチンに行こうとした時――
《こら。人間の雄》
八つに重なった声がかけられた。振り向けば、リビングのドア付近で青い和服を纏った女の子が鼻を押さえた涙目で紘也を睨んでいた。結ってもいないのに八つに分かれた黒髪がゆらゆらと揺れている。
この幼女ももちろん人間ではない。巨大なる霊威ある者。日本神話における八つの谷峰に跨る、水害を象徴する八頭の大蛇。
幻獣ヤマタノオロチ。
紘也の三体目の契約幻獣だ。
「どうした、山田? 転んだのか?」
《違うわ! 己が開けた扉が吾にぶつかったのだ!》
そういえばドアを開けた時になにか悲鳴みたいなのが聞こえた。どうもバコンとやってしまったらしい。ウロボロスの抜け殻の件で頭がいっぱいだったからすっかり忘れていた。
ヤマタノオロチ――紘也たちは『山田』と呼んでいる――は元々恐ろしい幻獣であったが、現在は力の大半を失って見ての通り無力な幼女と化している。紘也が魔力を与えれば一時的に本来に近い力を取り戻せるようだが、不要な時にそれをしてはなにを仕出かすかわかったものではない。監視の意味を含めて秋幡家で居候させている現状だ。
《吾に謝れ。人間の雄よ。詫びとして魔力を寄越してもよいのだぞ?》
「あー、悪かった悪かった。次から気をつけるよ」
《……ぐぬぬ。全く心が籠っておらぬ》
なぜか悔しそうに歯噛みする山田。こいつは隙あらば紘也から魔力を奪おうとするのだ。無論、貧弱な幼女形態のヤマタノオロチがなにをしようと紘也を脅かすことはできない。寧ろ山田の方がちょっとしたことで命の危機にすらなり得るから困る。
ヤマタノオロチが死ぬと紘也も死ぬ。逆もまた然り。そういう呪いが契約と同時にかけられてしまったのだ。嘘ではなく事実だったことはアトランティスで証明済み。
契約を切ることはできない。普通の幻獣契約ならばどちらかの意思で一方的に破棄することもできるが、呪いという特殊性のせいか紘也はヤマタノオロチとの運命共同体を終わらせることができないでいた。
呪いの解呪も込みで、ロンドン行きはもはや覆せないだろう。
「ていうか紘也くん、ロンドンにはいつ行くんですか? アレからもう一週間以上経ってるんですよ?」
ウェルシュの顔面を踏みつけて勝ち誇っていたウロが、紘也の心でも読んだかのようなタイミングで訊いてきた。
「さあな。向こうがいい時に迎えを寄越すって言ってたから、もうちょっとかかるんじゃないか?」
「ならまだチャンスはありそうですね。お義父様にお会いする前に既成事実をにゅふふ。というわけで紘也くん今晩にでもどうですか一発。くんずほぐれつ熱い夜のひと時を――」
「あ、冷蔵庫空っぽだ。買い物行かないとな」
「はい華麗にスルーされましたーっ!」
冷蔵庫には麦茶を含め飲み物はそこそこ充実していたが、食料品は調味料ばかりで卵が一個だけしかなかった。一人暮らしではなくなったから食料消費が早い早い。
買い物に行くのなら、たまには凝った物でも作ってみようか。
「なあ、お前ら今日はなにが食べたい?」
リビングの幻獣たちからリクエストを募集してみる。
「はいはーい! あたしはマンティコ――」
「却下」
「速いよ!?」
「……ウェルシュは片耳豚の角煮が――」
「却下」
「……残念です」
《ふむ。では吾は酒をもらおうか。龍を殺せそうな名前の銘酒があったはず――》
「未成年は酒買えないし買わない」
《ぐぬぬ……》
幻獣に訊いた紘也が馬鹿だった。よってこちらから選択肢を提示して選んでもらう方式に切り替えることにする。
「カレーとシチューと肉じゃがならどれがいい?」
「紘也くん紘也くん、それどれ選んでもだいたい食材一緒ですよね!?」
バレたか。
「でもあたしはカレーがいいです。中辛でお願いします」
「ウェルシュはシチューが食べたいです」
《なら吾は肉じゃがにしておこう》
「纏まれよお前ら」
山田に至っては『なら』とかつけているから張り合う気満々だった。
「意見が割れてしまいましたね。だったら、モンバロで決着をつけようじゃあないですか!」
「……いい度胸です、ウロボロス」
《フン。吾に勝てると思うておるのか金髪よ》
幻獣娘三人がテレビの前に集合する。据え置きの家庭用ゲーム機の電源を入れ、そろそろ巷の人気も落ち着いてきた対戦格闘ゲーム『大乱戦・モンスターバトルロイヤル』を起動した。
「……」
三人のレベルは絶望的に低い位置で接戦している。非常に時間がかかりそうだったので、紘也は黙って出かけることにした。
玄関を出たところで、ふと思い出す。
「あ、そうだ。孝一が今日からバイト始めるって言ってたっけ。買い物ついでに顔出してみようかな。それと物置の電球も切れてたから電気屋にも寄って――」
などと外での用事を心のメモ帳に記入しながら、八月の炎天下を歩き始める紘也だった。
秋幡紘也は自室で机に向かい、残っている学校の宿題を片づけていた。本来は七月中に終わらせておく宿題だが、今年はいろいろあって落ち着いて取り組める時間が少なかったのだ。
シャーペンを置き、数学の問題集をそっと閉じて息をつく。
「ぐ……」
軽く背伸びして体をリフレッシュ。長時間ずっと机に向かっていたからなんとも言えない気持ちよさがあった。
「ふう……なんとかあらかた終わったな。あとは美術の人物画だけか……」
これがまた面倒臭い。画用紙に絵具にパレットにバケツに新聞紙などなど。準備しなければならない物がたくさんあるのだ。準備が多いと片づけも大変である。絵を描くにしても丸一日潰す覚悟が必要だ。それになにより、画力に全く自信のない紘也だった。
――題材がなんでもいいなら手っ取り早く適当に終わらせるんだけど……。
人物画――それも『異性を描け』という美術教師の思いつきで付け加えられた気の狂った条件が紘也をさらに悩ませていた。
「ささっと絵が描ける魔術でもあればいいのに。……まあ、今の俺じゃあったとしても使えないんだけど」
秋幡紘也は魔術師の血を引いている。
しかもただの魔術師ではなく、世界魔術師連盟が誇る大魔術師の息子だ。内に秘めた魔力量はその大魔術師である父親すら越えているかもしれず、昔は紘也も魔術師となるべく道を歩んでいた。
とある事故をきっかけに紘也は魔術師を辞めたのだ。知識も魔力も技術もそのまま残っているものの、魔術は使えないようになっている。使わないのではなく、使えない。水道に例えるなら、貯水もあり蛇口も壊れていないのに、どこかで堰き止められているせいで水を出せない状態だ。
今まではそれでいいと思っていた。一般人として、普通の世界で普通に暮らしていけるならば幸せだった。
だが、そうも言っていられなくなった。
世界魔術師連盟の実験が失敗して世界に幻獣が溢れ返ったことも理由の一つだが、紘也だけでなく紘也の周囲まで魔術的な事件に巻き込まれ始めたのだ。
魔術的宗教結社『黎明の兆』。
かつて紘也の父親によって解体された滅亡主義団体『朝明けの福音』の聖女――〝先導者〟ヨハネ・アウレーリア・ル・イネス・ローゼンハインを信仰する狂った教団だ。
ヨハネは組織が解体される直前に転生術を使っていたらしい。他者へ生まれ変わるというとてつもない魔術で転生した先が、紘也の友人――鷺嶋愛沙だった。ヨハネを復活させるために、『黎明の兆』は愛沙を誘拐し監禁したのだ。
なんとか愛沙を助け出したが遅く、ヨハネは復活してしまった。おかげで紘也も一度ガチで死にかける事態に陥ったりしたのだが……そこはその、まあなんというか、アレがコレでアレのソレがソンナカンジでかろうじて命を繋ぎ止めることができた。
ヨハネは逃亡したが、『黎明の兆』の総帥――リベカ・シャドレーヌは騒動が終わった後で連盟によって捕縛されたらしい。紘也に並々ならぬ憎悪を向けていた彼女が捕まった点だけはすこぶる安心できた。
本当に、安心できたのはそこだけだ。
言うなれば『聖女の抜け殻』となった愛沙だが、もう絶対に狙われないという保証はどこにもない。『抜け殻』になにかしらの役割があるかもしれないのだ。無事に取り戻した日常が明確な意思によって再び破壊される。その可能性がゼロだと言い切れないから困る。
今後も契約幻獣たちや葛木家に頼ってばかりではダメだ。
紘也自身がせめて自分の身を護れる程度には戦えないと、この先足を引っ張ることになってしまうだろう。
痛感した。
魔術師を辞めて平凡な一般人でいられるほど、世界は甘くなかった。
だからこそロンドンにいる父親に会う覚悟を決めたのだけれど(実際は紘也のせいで十年も病院生活をしている母親に会される覚悟だが)、向こうも『朝明けの福音』が再興したことでてんやわんやなためなかなか時間の都合がつかない。
よって、現在は『待ち』の状態だった。
――行く前に宿題だけは終わらせとかないとな。
あとは美術の宿題だけ。異性を描くとなると紘也一人ではどうにもならないため、誰かにモデルになってもらわねばなるまい。
「葛木は断固拒否しそうだなぁ。愛沙は一昨日から母親の実家に行ってるし……クラスの女子で暇してそうな人いたかな?」
その暇を一階のリビングで絶賛持て余している少女たちのことは決してモデル候補にカウントしない紘也だった。モデルにするとアレらを『異性』だと認めてしまうことと同義である。それにとにかく面倒そうだ。
たとえばウロに頼むとする。高確率でヌードになる。
たとえばウェルシュに頼むとする。聞きつけたウロが割り込んで高確率でヌードになる。
たとえば山田に頼むとする。幼女を描くとか紘也の正気度が疑われ、そしてウロが山田を蹴り倒して高確率でヌードになる。
どうしよう、どれも結末は一緒だった。考えるだけで頭が痛い。
「柚音がいれば気兼ねなく頼めるんだが……いや、妹をモデルにするのもどうかな」
紘也の妹は両親と共にロンドンへ行ったのだ。いない者はいない。すっぱり諦めて夜にでもクラスの誰かに電話しようと決め、紘也は乾いた喉を潤すべく一階のキッチンへと向かうことにし――
部屋を出た瞬間、金髪の美少女と出くわした。
「あ、悪い、ウロ」
危うくドアでバコンとしばいてしまうところだった。ドアの向こう側が見えないと時々こういうアクシデントが起こってしまうのは必然だろう。
幸い目の前の少女は紘也が開けたドアにぶつかることはなかった。もっとも、ぶつかって怪我をしても一瞬で治ってしまう特性だから心配する必要性は皆無であるが……。
彼女は人間ではない。
見た目こそ人間の少女だが、その正体は〝円環の大蛇〟〝無限の大蛇〟〝身食らう蛇〟など様々な異名を持つチート幻獣ことウロボロスである。紘也の初めての契約幻獣でもあり、現在は理由あって秋幡家の天井裏に寄生、もとい居候している。口を開けば大変やかましく、ことあるごとに紘也に(性的な意味で)絡もうとしてくるから厄介なのだ。
今回は紘也の部屋の前に突っ立っていたようだが……まさか、紘也が人物画のモデルで困っていることを知られてしまったのではなかろうか? だとすれば『一肌脱ぎます!』とか言って実際に服を脱ぎ出しかねない。
少しでもその兆候が見えたらチョキで黙らせようと観察力を高める紘也だったが、ウロが口を開くことはなかった。
どころか、動こうともしない。端整な顔に微笑を浮かべたまま、青い瞳で紘也をじっと見詰めているだけだった。
――おかしい。
普段ならとっくに文章にすれば百文字以上は余裕で使う量の台詞を吐き出している頃合いなのに、彼女が騒ぎ出す気配はない。
「ウロ、お前なんか変――」
ちょっと、ほんのちょっとだが心配になって紘也がウロの肩に手を置くと――ぐらり。表情はそのままに、ウロの体がゆっくりと力なく廊下に倒れた。
「なっ!?」
ぶっ倒れたウロはだらりと弛緩し、まるで死体のように指先一つピクリとも動かさない。微笑を浮かべたままの表情がやたらと不気味に見えた。
さっと血の気が引く。
「なんの冗談だ! ウロ、おい! しっかりし……………………なんだこれ?」
ウロを抱き起した紘也は、そのあまりにも不自然な『軽さ』に疑問を覚えた。よく見たら背中にファスナーがついている。
「……」
ジジジっとファスナーを下ろす。パックリと裂けた背中の中には白い綿が大量に詰め込まれていた。
「……」
等身大の人形? いや、それにしては髪の毛や肌の感触が生々し過ぎる。
「……」
紘也は神経を研ぎ澄ませる。ウロボロスの契約リンクを探る。場所は真下。では、目の前のコレは一体なんなのだろう?
本人に訊くのが一番だ。
「ウロ! なんなんだコレは!?」
急いで一階に下りた紘也は勢いよくリビングに突入して叫んだ。ドバン! とドアが開かれると同時に「ぴぎゃ!?」と変な声が聞こえて青い物が転がったが今は気にしないことにする。
「オゥ! やっと見つけましたか紘也くん」
金髪青眼の少女――幻獣ウロボロスはソファに優雅な姿勢で寝っ転がって週刊の漫画雑誌を読んでいた。手が届く距離にあるテーブルにはポテチとコーラが置かれ、居候のくせに大変いい御身分であることが窺える。
その辺を小一時間ほど説教したかったが、残念ながら優先して訊くことがある。今はぐっと我慢の子。
「コレはなんだ?」
「抜け殻です」
「は?」
ウロボロスがなにを言ったのかさっぱりわからなかった。
「コレはなんだ?」
「なんでもう一回訊くんですか!? 抜け殻だって言ったでしょ!? あたしの抜け殻ですよ抜け殻。ちょっと今朝背中がムズムズしてたからそろそろ時期だなぁと思ってジュホヒュピホーっと一気に脱いだのです」
ウロボロスの抜け殻。
それだけ聞くと魔術的な意味で大変な代物に聞こえなくもないが、紘也が抱えているソレにそんな価値があるとは到底思えなかった。
だが、納得できる部分もあった。
「時期、か。そう言えば蛇は夏に脱皮しやすいって生物の先生が言ってたような」
「紘也くん紘也くん、もしかしてわざと言ってる? あたしはね、蛇じゃなくてそれはもうめっちゃくちゃ高貴で高位で高尚なドラゴンなんですよ? オーケー?」
「ノー」
「ノー言われた!?」
漫画雑誌を放り投げてさめざめとわざとらしく涙するウロだった。
「仮に脱皮したことはよしとしよう。で、なんでその抜け殻に綿を詰めて俺の部屋の前に置いてたんだ?」
「え? そんなの決まってるじゃあないですか。抱いて寝れば安眠保証。アンナコトやコンナコトから人に言えないムフフなことまでご利用可能な至高の一品。あたしからのプ レ ゼ ン トです♪」
「超いらねー」
紘也は抜け殻人形をウロに向かって投げ返した。
「まあまあまあ、そんなこと言わずに。お財布に入れると金運が超絶3UPしますよ?」
「入るか!? てか返品したんだから押しつけてくんな鬱陶しい!?」
「クーリングオフは適用されません」
「ずいぶん悪質だな!? ていうかそもそもなんで抜け殻が人型なんだよ!? おかしいだろその姿は『人化』した偽物なんだぞ!? 眼球とか皮じゃねえし!?」
指摘すると――バッ! もんのすごい勢いでウロは明後日の方向に顔を背けた。どうやら訊かれると都合の悪い部分だったらしい。
「まあまあまあ、細かいことはお気になさらずに。もろたもろた言うたらあかんで」
「前にもやったぞこんな遣り取り!?」
強引に押しつけられたウロボロスの生皮製等身大ドールに心の底から気持ち悪さが込み上げてきた紘也は、最終手段としてウロの対面に位置するソファを見る。
そこには燃えるような真紅の髪を二股の尻尾みたく結っている少女が座っていた。ポテチを齧りながらスマホのパズルゲームを夢中でプレイしている彼女も紘也の契約幻獣だ。
ウェールズの赤き竜――幻獣ウェルシュ・ドラゴン。
元々は父親の契約幻獣だったが、紘也を護衛するため紘也と契約し直した少女。
紘也が従える契約幻獣三体の中で最も『マシ』な部類に位置する彼女に、本日最初の命令を降す。
「ウェルシュ、焼却処分」
無表情の紅い瞳が『待ってました』と言わんばかりに光を灯す。
「……了解です、マスター」
淡々と紡がれた言葉。次の瞬間、空中に放り投げられたウロボロスの抜け殻が真紅の炎に包まれた。
「なんばしよっとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!?」
ウロが泣き叫びながら炎を消そうと飛びかかるが、残念。もう遅い。真紅の炎は抜け殻だけを灰も残さず綺麗に焼滅させた。ウェルシュ・ドラゴンの〈拒絶の炎〉は対象物だけを跡形もなく焼き尽くすのだ。
「ううぅ、酷いよ紘也くん。アトランティスではあんなに愛を熱く語り合ったのに。唇的な意味で」
「やめろ思い出させるな!」
かぁあああ、と顔面の発熱量が上昇したことを自覚した紘也は慌てて首を横に振り回した。『黎明の兆』が本拠地としていた放浪大陸『アトランティス』での戦いで、紘也は一度死んでいる。それを蘇生してくれたのがなにを隠そう、目の前にいるウロだ。方法はエリクサーの原液――ウロボロスの血を飲ませること。
口移しで。
「アレは人工呼吸的なもんだろ!」
「キスはキスです。いい加減に認めてあたしに身も心も捧げてくださいよベッドの上で!」
「……ウロボロス、その辺りの話をウェルシュは聞いていません。詳しく。詳しく」
「ええい!? あんたは黙ってポテチでも食ってなさい腐れ火竜!?」
「マスターの唇を奪ったウロボロスはウェルシュが滅してなかったことします。あとウェルシュは腐ってません」
なにかのスイッチが入ったウェルシュがウロに飛びかかったおかげで紘也は解放された。床でもみくちゃになりながらプロレスを繰り広げる二人に溜息をつき、紘也は喉がカラカラだったことを思い出した。
麦茶を飲むためキッチンに行こうとした時――
《こら。人間の雄》
八つに重なった声がかけられた。振り向けば、リビングのドア付近で青い和服を纏った女の子が鼻を押さえた涙目で紘也を睨んでいた。結ってもいないのに八つに分かれた黒髪がゆらゆらと揺れている。
この幼女ももちろん人間ではない。巨大なる霊威ある者。日本神話における八つの谷峰に跨る、水害を象徴する八頭の大蛇。
幻獣ヤマタノオロチ。
紘也の三体目の契約幻獣だ。
「どうした、山田? 転んだのか?」
《違うわ! 己が開けた扉が吾にぶつかったのだ!》
そういえばドアを開けた時になにか悲鳴みたいなのが聞こえた。どうもバコンとやってしまったらしい。ウロボロスの抜け殻の件で頭がいっぱいだったからすっかり忘れていた。
ヤマタノオロチ――紘也たちは『山田』と呼んでいる――は元々恐ろしい幻獣であったが、現在は力の大半を失って見ての通り無力な幼女と化している。紘也が魔力を与えれば一時的に本来に近い力を取り戻せるようだが、不要な時にそれをしてはなにを仕出かすかわかったものではない。監視の意味を含めて秋幡家で居候させている現状だ。
《吾に謝れ。人間の雄よ。詫びとして魔力を寄越してもよいのだぞ?》
「あー、悪かった悪かった。次から気をつけるよ」
《……ぐぬぬ。全く心が籠っておらぬ》
なぜか悔しそうに歯噛みする山田。こいつは隙あらば紘也から魔力を奪おうとするのだ。無論、貧弱な幼女形態のヤマタノオロチがなにをしようと紘也を脅かすことはできない。寧ろ山田の方がちょっとしたことで命の危機にすらなり得るから困る。
ヤマタノオロチが死ぬと紘也も死ぬ。逆もまた然り。そういう呪いが契約と同時にかけられてしまったのだ。嘘ではなく事実だったことはアトランティスで証明済み。
契約を切ることはできない。普通の幻獣契約ならばどちらかの意思で一方的に破棄することもできるが、呪いという特殊性のせいか紘也はヤマタノオロチとの運命共同体を終わらせることができないでいた。
呪いの解呪も込みで、ロンドン行きはもはや覆せないだろう。
「ていうか紘也くん、ロンドンにはいつ行くんですか? アレからもう一週間以上経ってるんですよ?」
ウェルシュの顔面を踏みつけて勝ち誇っていたウロが、紘也の心でも読んだかのようなタイミングで訊いてきた。
「さあな。向こうがいい時に迎えを寄越すって言ってたから、もうちょっとかかるんじゃないか?」
「ならまだチャンスはありそうですね。お義父様にお会いする前に既成事実をにゅふふ。というわけで紘也くん今晩にでもどうですか一発。くんずほぐれつ熱い夜のひと時を――」
「あ、冷蔵庫空っぽだ。買い物行かないとな」
「はい華麗にスルーされましたーっ!」
冷蔵庫には麦茶を含め飲み物はそこそこ充実していたが、食料品は調味料ばかりで卵が一個だけしかなかった。一人暮らしではなくなったから食料消費が早い早い。
買い物に行くのなら、たまには凝った物でも作ってみようか。
「なあ、お前ら今日はなにが食べたい?」
リビングの幻獣たちからリクエストを募集してみる。
「はいはーい! あたしはマンティコ――」
「却下」
「速いよ!?」
「……ウェルシュは片耳豚の角煮が――」
「却下」
「……残念です」
《ふむ。では吾は酒をもらおうか。龍を殺せそうな名前の銘酒があったはず――》
「未成年は酒買えないし買わない」
《ぐぬぬ……》
幻獣に訊いた紘也が馬鹿だった。よってこちらから選択肢を提示して選んでもらう方式に切り替えることにする。
「カレーとシチューと肉じゃがならどれがいい?」
「紘也くん紘也くん、それどれ選んでもだいたい食材一緒ですよね!?」
バレたか。
「でもあたしはカレーがいいです。中辛でお願いします」
「ウェルシュはシチューが食べたいです」
《なら吾は肉じゃがにしておこう》
「纏まれよお前ら」
山田に至っては『なら』とかつけているから張り合う気満々だった。
「意見が割れてしまいましたね。だったら、モンバロで決着をつけようじゃあないですか!」
「……いい度胸です、ウロボロス」
《フン。吾に勝てると思うておるのか金髪よ》
幻獣娘三人がテレビの前に集合する。据え置きの家庭用ゲーム機の電源を入れ、そろそろ巷の人気も落ち着いてきた対戦格闘ゲーム『大乱戦・モンスターバトルロイヤル』を起動した。
「……」
三人のレベルは絶望的に低い位置で接戦している。非常に時間がかかりそうだったので、紘也は黙って出かけることにした。
玄関を出たところで、ふと思い出す。
「あ、そうだ。孝一が今日からバイト始めるって言ってたっけ。買い物ついでに顔出してみようかな。それと物置の電球も切れてたから電気屋にも寄って――」
などと外での用事を心のメモ帳に記入しながら、八月の炎天下を歩き始める紘也だった。
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