刹那玻璃の思い込み、聞き流し、解るコテン?
光源氏さんの心理学上の分類?そして、当時の後宮の位置は?
刹那玻璃は他の方にもお伝えしておりますが、
「光源氏は『ロリコン』『マザコン』『エディプスコンプレックス』『ピグマリオンコンプレックス』で、最後に『燃え尽き症候群』だと思います‼」
『ロリコン』は『ロリータ・コンプレックス』の略称ですが、本来は十代前半の成長期に入りつつある不可思議な美しさを持つ時期の少女を性愛の対象として見るという意味で、和製英語です。
反語になるのは『ショタコン』。
『正太郎コンプレックス』と書きますが、ロリコンとは逆に少年にそういう対象で見ると言うことです。
あ、刹那は、『ショタコン』公言していますが、そういう性的な意味でという意味ではありませんので、それだけはご安心ください。
刹那は、可愛い~‼と萌えるだけですので、逃げないでください。
で、光源氏は幼くして母の『桐壷の更衣』を失い、父の『桐壷帝』が、面影を求めて宮中に迎えたのが『藤壷の女御』。
『七殿五舎』の一つ、『飛香舎』の別名が『藤壷』。
庭に藤が植えられていたことから、そう呼ばれるのですが、当初は、『弘徽殿』等の『殿』に身分の高い女性が暮らすことが多かったものの、『飛香舎』は、当初は身分の低い女性のための屋敷だったようです。
しかし、平安時代中期以降は帝が生活する『清涼殿』の北西にあったため、有力な寵愛の深い女人を住まわせた建物です。
現に、一条天皇の時代、この『飛香舎』の主は藤原道長の娘、藤原彰子。
彰子とも呼ばれる彼女は、最初は10才で女御として入内し、『中宮』となります。
この時に実は、中宮と言う言葉が意味を持つようになります。
なぜかと言うと、当時、仏教が主流とはいえ、帝は『神の末裔』。
一条天皇の皇后であった従姉の定子もしくは定子は、父の藤原道隆の死に、叔父との権力争いに破れた兄、伊周の後ろ楯を失い、出家した存在だったためです。
一条天皇の寵愛は深く、『登花殿の女御』、もしくは『梅壺の女御』と呼ばれます。
『梅壺』は、『凝花舎』と言い、『藤壷』の北にあります。
一度出家した……仏門に入った女性を『還俗』させて、再び入内させたとしても、『帝の妻』として祭礼に立ち会うことはできないと、当時権力を握っていた藤原道長の娘を入内させ、帝の寵愛する『登花殿の女御』を皇后に、『藤壷の女御』を中宮にとおくことになります。
しかし、二人の正室である従姉妹は仲が悪いと言うことはなかったようです。
もともと11才年の違う従姉妹であり、定子の3才下、彰子の8才上の一条天皇の后として共にいたのは一年余り……第三子となるび(女偏に美)子内親王を出産後亡くなります。
定子の生んだ第一皇子の敦康親王は彰子が可愛がり、自分の子供が生まれるのが遅かったこともあり、父の道長が、後一条天皇を擁立することを反対したとあります。
定子の死後、清少納言等が後宮を離れ、入れ替わるように紫式部が、幼い彰子の教育係として出仕したのだと思われます。 
ちなみに『七殿五舎』とは、
【七殿】
『弘徽殿』
『承香殿』
『麗景殿』
『登花殿』
『貞観殿』
『宣耀殿』
『常寧殿』
【五舎】
『飛香舎』(藤壷)
『凝花舎』(梅壺)
『昭陽舎』(梨壷)
『淑景舎』(桐壷)
『襲芳舎もしくは(しゅうほうしゃ)』(雷鳴壺)
からなる主に天皇の后妃の住まう屋敷を示します。
当初は、七殿のみあり、格は元々は七殿が上であったとされています。
『源氏物語』の『藤壷の女御』の実家は強い後見人がついていたため、こちらに迎えられたのです。
ではでは、本当は、短く済ませるつもりでしたが、ついつい熱が入りました。
明日、再び平安の時に戻りましょうか……。
「光源氏は『ロリコン』『マザコン』『エディプスコンプレックス』『ピグマリオンコンプレックス』で、最後に『燃え尽き症候群』だと思います‼」
『ロリコン』は『ロリータ・コンプレックス』の略称ですが、本来は十代前半の成長期に入りつつある不可思議な美しさを持つ時期の少女を性愛の対象として見るという意味で、和製英語です。
反語になるのは『ショタコン』。
『正太郎コンプレックス』と書きますが、ロリコンとは逆に少年にそういう対象で見ると言うことです。
あ、刹那は、『ショタコン』公言していますが、そういう性的な意味でという意味ではありませんので、それだけはご安心ください。
刹那は、可愛い~‼と萌えるだけですので、逃げないでください。
で、光源氏は幼くして母の『桐壷の更衣』を失い、父の『桐壷帝』が、面影を求めて宮中に迎えたのが『藤壷の女御』。
『七殿五舎』の一つ、『飛香舎』の別名が『藤壷』。
庭に藤が植えられていたことから、そう呼ばれるのですが、当初は、『弘徽殿』等の『殿』に身分の高い女性が暮らすことが多かったものの、『飛香舎』は、当初は身分の低い女性のための屋敷だったようです。
しかし、平安時代中期以降は帝が生活する『清涼殿』の北西にあったため、有力な寵愛の深い女人を住まわせた建物です。
現に、一条天皇の時代、この『飛香舎』の主は藤原道長の娘、藤原彰子。
彰子とも呼ばれる彼女は、最初は10才で女御として入内し、『中宮』となります。
この時に実は、中宮と言う言葉が意味を持つようになります。
なぜかと言うと、当時、仏教が主流とはいえ、帝は『神の末裔』。
一条天皇の皇后であった従姉の定子もしくは定子は、父の藤原道隆の死に、叔父との権力争いに破れた兄、伊周の後ろ楯を失い、出家した存在だったためです。
一条天皇の寵愛は深く、『登花殿の女御』、もしくは『梅壺の女御』と呼ばれます。
『梅壺』は、『凝花舎』と言い、『藤壷』の北にあります。
一度出家した……仏門に入った女性を『還俗』させて、再び入内させたとしても、『帝の妻』として祭礼に立ち会うことはできないと、当時権力を握っていた藤原道長の娘を入内させ、帝の寵愛する『登花殿の女御』を皇后に、『藤壷の女御』を中宮にとおくことになります。
しかし、二人の正室である従姉妹は仲が悪いと言うことはなかったようです。
もともと11才年の違う従姉妹であり、定子の3才下、彰子の8才上の一条天皇の后として共にいたのは一年余り……第三子となるび(女偏に美)子内親王を出産後亡くなります。
定子の生んだ第一皇子の敦康親王は彰子が可愛がり、自分の子供が生まれるのが遅かったこともあり、父の道長が、後一条天皇を擁立することを反対したとあります。
定子の死後、清少納言等が後宮を離れ、入れ替わるように紫式部が、幼い彰子の教育係として出仕したのだと思われます。 
ちなみに『七殿五舎』とは、
【七殿】
『弘徽殿』
『承香殿』
『麗景殿』
『登花殿』
『貞観殿』
『宣耀殿』
『常寧殿』
【五舎】
『飛香舎』(藤壷)
『凝花舎』(梅壺)
『昭陽舎』(梨壷)
『淑景舎』(桐壷)
『襲芳舎もしくは(しゅうほうしゃ)』(雷鳴壺)
からなる主に天皇の后妃の住まう屋敷を示します。
当初は、七殿のみあり、格は元々は七殿が上であったとされています。
『源氏物語』の『藤壷の女御』の実家は強い後見人がついていたため、こちらに迎えられたのです。
ではでは、本当は、短く済ませるつもりでしたが、ついつい熱が入りました。
明日、再び平安の時に戻りましょうか……。
コメント