小さな天使に溢れる愛を。

8.


「お……とう、さん。なんで……おと……さ……」
 ナオの口から言葉が続かない。しゃくり上げながら懸命に何かを言おうとするが、呼吸さえままならない子供には、考えることも難しい。ただ必死に父親に呼びかけようとしている姿は痛々しく、弱くて儚い者に見える。淡い姿の自分の父親に対する視線すら大きく揺らいで、涙で視界も一層滲んでいることだろう。
 そんな姿を見ているアンリでさえ堪えきれないように涙を青みを帯びるほど白い頬に零し、しかし視線を外すことなく見守っている。死神の肩が小さく震えているのを見た店主が眉根を寄せて、その黒衣の上からでも華奢な肩を優しくあやすように叩いた。それから長い睫毛に彩られた淡い伽羅色の瞳をナオに向け、静かに歩き出した。縁側に立っているナオに近づき、そのままナオを抱き上げ腕に入れて、優しく頭を撫でてやる。
「ナオ。悲しいですね。あなたの心の声が聞こえてきて私まで苦しくなります。こんな小さな身体でこの悲しみを受け止めるのは、とても辛いですね。私も何とかして差し上げたいのですが……申し訳ありません。力が及ばず……」
 柔らかなナオの髪を何度でも撫でながら、店主が小さく一つため息をついた。
 子供でも大人でも、誰か大切な人の死を受け入れるのは並大抵のことではない。店主は長く生きている分、その辛さも充分分かっているつもりだった。まだ親の愛情を必要とする年齢のナオならば余計にその重さも苦しさもあるだろう。この世で何よりも大切な存在である親というものは、何に置いても大きい。
 何もできないナオの父親は、店主の腕に抱かれて泣きじゃくるわが子の姿を、ただただ肩を震わせて見ているしかできない。それもどれほど辛いことだろう。
 腕に入れたいのは自分なのに。頭を撫でてやりたのは自分なのに。それをかなえてやれるのも自分のはずなのに。
 そんな気持ちを店主が分かっていないはずもなく、瞳をすいと流して父親を視界に入れると、ナオの頭を寄り一層優しく撫でて静かに口を開いた。
「ナオ。辛いかもしれませんが、今目の前にいるお父さんを認めてあげてください」
 店主の言葉に、肩に顔をうずめるようにして泣いていた子供の瞳が持ち上がる。揺らめき力のない茶色の瞳が震える視線を巡らせて自分の父親の姿を捉えた。
 店主はそれを確認して言葉を続ける。
「お父さんをあなたに返して差し上げることはできません。ですが、あなたが認めて差し上げるだけで、今このとき、お父さんはあなたを抱きしめることができるのです」
「…………どう、いう……こと?」
 しゃくり上げながらもナオが店主に視線を移して問いかけた。それに男の穏やかな瞳が笑みの形に変わる。
「ナオは今、お父さんに触れることができなくてショックを受けていますよね。その気持ちがお父さんをあなたから遠ざけているのです。悲しくて仕方がないと思います。お父さんと離れてしまったことが、何よりも今のナオには辛いことだ思いますが、それでも今ここに、あなたの目に映っているこの方を、お父さんだと認めることがお父さんにとって何よりも供養になるのですよ」
「くよう……」
「そうです。お父さんが常世……天国で幸せに過ごすことができるように、あなたがして差し上げてください」
 男にしては細い店主の指がナオの柔らかな髪の毛を何度も宥めるように撫でる。ナオの速拍する呼吸を落ち着かせるように、店主はナオの小さな身体を自分に密着させて呼吸を誘う。しばらく抱き締められるままにおとなしくしていたナオだったが、少し視線を伏せて考えた後、店主の瞳をまっすぐに見つめた。それは店主ですらやや目を見張るほど、小さくではあるが、しっかりとした力を持っていた。揺らぎを覆い隠すように、子供の瞳の中に燈る底知れない希望にも似た光は、店主にはとても眩しく見えた。
「お父さん、天国で幸せになれるの?」
 目許を真っ赤にしたナオの問いかけに、店主がしっかりと頷く。
「必ず、幸せになれます。ナオがお父さんを愛して、お父さんがナオを愛しているのですし、二人がちゃんと心を通い合わせることができるなら、それは何よりの供養なのですよ」 
 ナオは少し考えるように瞼を伏せた。どれだけ考えてもやはり納得のいくものではないはずだ。小さく震えている心を奮い立たせても、父親との別れなど受け入れるのは容易いことではない。
 何度もナオは父親に視線を持ち上げる。その度に父親は肩を震わせながらも最愛の息子に微笑みかけた。ぎこちない笑顔の中に溢れる愛情があるのは変わらない。自分の幼い頃によく似ている最愛の小さな存在は、現世うつしよの生を奪われた者にとってすればまさに「希望」である。
 この子の成長を、未来を、幸せを願わずにはいられない父親の愛情が滲む瞳の涙もまた、店主には眩しく見えた。
 ナオの目に映る父親の後ろには、アンリがいる。黒衣の死神は何も言わず、いつも手にしている薔薇の蔦の絡みつく死神の鎌を抱き締め、宝石の瞳を涙で潤ませて、ただナオを見つめていた。青白い端整な顔をあどけない笑みで飾りながら、
 ナオ、がんばって。
 そう、ただ小さな子供を慈しむ。
 しかし、ナオの顔が苦しそうに歪んだ。呼吸がまた落ち着かなくなり始め、それを感じた店主がきゅっときつく抱き締めた。震えてくる身体を何とかしようとしているのか、ナオは息をつめるように小さく呻く。
「ナオ。あなたの悲しみを私が変わって差し上げることができれば、どれほどいいでしょうか。本当に申し訳ありません」
 震えの止まらないナオの叫びを全身で受け止める店主が、長い睫毛を落としてナオを抱き締める。店主の肩にナオの涙の染みがいくつもでき、それが重くて悲しくてならなかった。
 そうしてしばらく時間が立った頃、ナオがまだ涙を零しながらそれでもゆっくりと顔を上げた。その瞳の中には一旦は消えかかった光を再び湛えていた。
 ナオは店主の腕から降りたいという仕種をする。店主が腕を解き静かに縁側の廊下にナオを下ろすと、ナオは目許を何度か擦り、庭との段差のせいで以前より近い位置にある父親の顔を見上げた。
「おとうさん……」
 か細い声が庭に溶けていく。涙の声はあの聖堂やアンリに悪戯をしていた子供と同じだとはとても思えなかった。
「おとうさん。俺……がんばるから。お母さん大事にして、ちゃんとお勉強して、それで……それで……お父さんみたいに、なれるように……がんばるから……」
 ぽろぽろと落ちる涙を拭うことなく、ナオは笑う。最愛の父親に向けて、今できる一番いい顔を見せようと、くしゃくしゃの、愛らしい笑顔を見せた。
「大好きなお父さんみたいに、なるから。大好きだよ、お父さん」
 その言葉を聞いた父親がたまりかねたようにナオへと手を伸ばした。いつもしていたようにナオの身体を引き寄せ、抱き締める。
 先ほどまで触れることもできなかった父親が自分を引き寄せて抱きしめてきたことに、ナオの瞳が大きく見開かれ、言葉を失いぽかんとした。
 淡い光を纏う父親は半ば透けているようにも見える。しかしナオの身体をその腕の中に入れて、大きな手で髪を撫でる。店主の手よりも一層優しく愛情の溢れるその仕種は、生きていた頃にナオがしてもらっていたことそのままだった。
 だが、触れてくる感覚以上にナオが驚いたのは、あんなに冷たかった父親が温かいことだった。それも生きていた頃と何も違いはない。
 大きな腕の中に入れられたナオが、そっと小さな手で怖々触れてみた。しっかりとした二の腕に指先が触れる。いつも抱き締めてくれるとき、苦しくなるくらい力を入れてきた父親の腕は、とても逞しく感じるものだった。震える指に伝わってきたその感触もまた、何も違いがなかった。
 この人はお父さんだ。
 頭で理解するより先に、ナオはそう思い、再び堰を切ったような涙を溢れさせていた。何かを言いたくても言葉を送り出すことすらできない子供と、それを理解して何も言うなといわんばかりに、愛しげに抱き締める父親の眼にもまた涙が溢れた。
 その光景はどんなに美しい景観も美しい絵画も魅力的な映画も敵わない。人間同士の心と心の見返りを求めない愛情が溢れ、無垢でこの上ない安らぎと温かさに満ち溢れていた。


 やがて、ナオに何度も謝り、そして愛していると告げる父親がうっすらと光を増して解けていく。淡い光の中に包まれるように抱き締めてくる感覚が薄れ始めたことに、ナオが大きく息を呑んだ。
 今生での別れが迫っていると父親もナオも悟り、そっと顔を見合わせた。互いの瞳に映りこむ互いの姿を心に焼き付けようとして、一時も目をそらさない。
 しかし父親の姿がナオの瞳の中から消えていくのにそう時間はかからなかった。光は虹色を増し、長身の身体を包み込んで解けさせていく。密度を増した虹色が空中で集まりそれが真球へと姿を変えていく。ナオの見守る中で、それは掌に少し余るほどの大きさの聖なる存在へと完全に姿を変えていった。
「お父さん…………大好き」
 ナオは、涙を零してそう言った。本当なら泣き叫んでもいいだろうにと店主もアンリも思うのだが、それでもナオは涙こそ流すものの決して怒るわけでもなく叫ぶわけでもなく、必死に幼い中に溢れ出るものをひた隠しにして、短い言葉を父親への最後の言葉にした。
 魂の姿になった父親をアンリが再び常世へと送り届けるために、黒衣を翻して姿を消した。去り際にナオの小さな頭を一度だけ、そのほっそりとした手で優しく撫でた死神は、冷たい風を残してふわりと時空を飛び越えて行ってしまった。
 残された店主はナオを抱き上げると縁側に腰を下ろして、泣いているナオの背中を穏やかな手つきで何度でもぽんぽんと叩いた。
「ナオ。えらかったですよ。ナオはきっと素敵な大人になるでしょうねぇ。お父さんに負けないくらい立派になれますよ」
 独り言のように呟く店主にナオは答えなかったが、その代わりに小さな手がよりどころを探すように、店主の仕立てのいい和服の袖を握った。その手が震えているのを見た店主が小さく吐息を零し、透き通る瞳を空へと持ち上げた。
 うっすらとした滲むような雲の向こうには星々が煌き、優しい色合いを見せている月がふわりとした明かりを差し込ませている。
 いくつもの出会いと別れを繰り返しては脈々と続くこの世界。そのほんの小さな別れに過ぎなかったかもしれないこの出来事もまた、長い時間を過ごしてきた店主の中で大きな思い出になり、この腕の中にいる小さな天使の、生きる糧になってくれればと願うしかできない。
 父親には敵わないが、店主は全身でナオを包み込むように抱き締め、そっと長い睫毛を頬の上に落とした――溢れる愛を注ぎ込もうと。


 了

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