小さな天使に溢れる愛を。

7.

 静か過ぎるほど、夜風が庭の枝葉を漣のように通り過ぎるだけの空気の中。信じられないといった様子のナオが目を丸くして、この不思議な死神と骨董屋の店主を見つめている。
 店主はナオに穏やかに微笑みかけ、アンリもいつものあどけない笑みを絶やすことなくニコニコとしていた。
 そんな驚く子供の前で、アンリが漆黒のローブの前合わせに手を差し入れ、ナオの最愛の父親の魂を取り出す。勿論魂など初めて見たナオにとって、それが一体何なのかは分からないが、子供心にそれがとても特別な存在であることは理解できたのか、黙ったまま様子を眺めていた。
「ナオのお父さん。連れてきたよ」
 あどけなく笑んだままアンリがそう言い、自分の掌の上にある虹色のそれを示す。
「お……とうさん?」
 キョトンとしたまま言葉を返してきたナオにアンリがクスクスと笑いながら頷くと、その隣に立っていた店主が優しくナオに声をかけた。
「ナオ。今日がお父さんに会える最後の日です。私もアンリも、これ以上のことはあなたにしてあげることはできません。あなたの大切なお父さんを、あなたに返して差し上げることができないのは申し訳ないのですが、許していただけますか?」
 染み入るような店主の声に、ナオは視線を落として古びた家屋の廊下を黙って見つめた。
 この小さな子供の中で、どのような感情が吹き荒れているのだろうか。悲しみや怒りや、どうにもならない感情の波が押し寄せてきているのだろうか。小さくてまだまだ人生の経験などないその命の器が、命そのものが揺れ惑い、涙がぱたりと廊下に落ちて雫がはじけた。
 それは一粒落ちてしまえば、後はもう止めることなどできなかった。小さく音をさせながら、闇の中でわずかな光を湛えて落ちて行く涙を、店主もアンリも黙ったまま長いこと見つめていた。
 あの日の、公園で泣いていたように、ナオは声も出さずに全身を震わせて泣いている。それがとても痛ましかったが、やがてきゅっと握った手で目許を拭ったナオが涙に濡れた瞳を持ち上げた。
「会いたい。お父さんに会いたい」
 震える声であるが、しっかりと言った子供に、店主とアンリが少しだけ安堵したように肩の力を抜く。そして二人で顔を見合わせて小さく頷き、そのままアンリが言葉を紡いで優しく月明かりの降り注ぐ空中に魂を解放した。
 それに合わせるように店主が綺麗な形をした唇から、人間には分からない言葉を紡ぎ始めた。それは流れる音楽のように優しく穏やかな旋律を湛えたように空気に溶け込み、虹色の真球にも溶け込んでいく。
 ナオは勿論そんな光景を見たことはなく、泣いていたのも忘れてしまったかのように不思議な骨董屋の店主と黒衣の死神と、虹色の真球に視線を縫い止める。そんな中で、店主の言葉に誘われる真球が変化し始めた。
 優しく煌びやかな光を纏っていた魂が一層光を纏い、完全な球体の輪郭が滲むように解けていく。そうしながら大きく大きく、光は厚みを増して煌びやかさを増して、庭全体を照らすかのごとく溢れた光を零れさせ、やがてそれが人の形を造り始めた。
 店主の言葉が導き出したその形が、今度は輪郭をはっきりと持ち、燐光を纏った男性の姿を顕にした。ナオによく似た東洋人らしい茶色の瞳に、穏やかそうな顔立ちの男性。内側から溢れるナオへの愛情を滲ませた笑顔で、その男性は淡く、しかししっかりとナオの前に立っていた。
 背が高いすっきりとした印象の、自分がよく似ている男性に、ナオは言葉も出ないようにただその瞳を揺らめかせながら見つめている。
 男性もまた、最愛の息子の姿を視界の中に入れ、少し驚いたように見つめていたが、そのうちに微笑し口を開いた。
「ナオ」
 その声は鼓膜を打つものではなく、心に直接入ってくる感覚を持っていて、ナオが打たれたように身体を強張らせた。
 その様子を見ていたアンリが店主に耳打ちをする。
「ナオ、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。子供は本能的に悪いものと良いものを感じることができます。ましてこの方はナオの父親なのですから」
 店主が穏やかに微笑み、アンリの労をねぎらうように黒衣にフード越しに頭を一つ撫でる。それに死神が驚きながらも嬉しかったのか恥ずかしそうに微笑んだ。
 その二人の前で、ナオの父親が一歩前に踏み出す。廊下に立っている息子に手を伸ばすように。
「ナオ」
 もう一度呼ばれた自分の名前にナオはまた小さく身を震わせて、しかし息を呑むと、小さな手をその差し出された手に返す。淡く光った父親の手にナオの手が触れたとき、ナオはまるで熱いものにでも触れたように手を引いた。
「……つめたい」
 呆けたように、ナオは呟いた。今まで触れてきた父親と違う感覚に思考が追いついていないようだ。
 大きな手も溢れる愛情も変わらない。しかし何よりも温かく感じる体温がない。触れている感覚もない。ただ冷たいだけだった。それがナオにはショックだったのだろう。差し出して触れたいはずなのに、躊躇ってしまってそれ以上手が出なかった。
 そんな息子の反応に、父親は悲しそうに視線を落とした。手を下げることはしなかったが、無理矢理にナオに近づこうともしなかった。それは、親子の距離は二人の腕の長さしかなかったがそれ以上に遠く、次元すら違うものであると痛感するものだった。
 ナオの瞳の中に困惑が明らかに見て取れる。揺らめき再び涙を蓄え始めた子供に向かって、店主が眉根を悲しそうに寄せながら言葉をかけた。
「ナオ。この方はあなたのお父さんであることは変わりないのですよ。心は、何も変わっていません。残念なことに生身の身体を失ってしまいましたがね」
「う……うん」
 ナオは懸命に店主の言葉の意味を理解しようとしているのか、何度も小さく頷き、しかし我慢できないようにぽろぽろと大粒の涙を頬に零した。
 それを見てアンリも声をかける。宝石の青紫の瞳をナオと同じように涙で潤ませながら。
「ナオ。お父さんに笑ってあげて」
「え?」
「お父さんも、ナオに会いたかったはずだから、笑ってあげてよ。ね?」
 アンリの言葉にナオの視線が父親に縫いとめられる。その瞳に映った父親の顔はとても寂しそうで悲しそうで、ナオがこのときになって初めて見た顔だった。
 ナオの中で父親は明るくて元気でいつも忙しそうに仕事をしていた。ナオに構ってやれないことをいつも謝っていたのを思い出す。ナオはそれはそれで寂しいことだったが、たまに取れた休みの日は、疲れていても全力で向き合って遊んでくれていたので、わがままを言わずに留守番もしてきた。
 今回の出張も、終わったら家族三人で数日ではあるが休みを取って過ごす予定だった。ナオの誕生日を祝って、ささやかながら日帰りで旅行にも行くはずだった。
 その約束があったから、ナオは一人真理子の家で留守番をすることも苦じゃなかったはずなのに。
 これは一体なんなんだろう。この目の前にいる人は父親なのに、触ることもできなくてただ冷たいだけ。姿かたちは同じでも、でももう自分を抱き締めてくれない。
 そう思うと、ナオの瞳が大きく歪み、堰を切ったように涙が溢れた。
 幼いナオが身をもって「死」を理解した涙が、尽きない泉のように溢れて止まらなくなる。先ほどとは違って、抑えることのできない声もそのままに泣きじゃくるナオを、店主もアンリも黙って見つめ、そして最愛の息子を抱きしめることができない父親も、自分の身の上に降りかかった人生の結末と、ナオの姿に涙を堪えきれず、肩を震わせた。

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