小さな天使に溢れる愛を。

6.

 夜、もうすっかり紫の暖簾を店の中にしまい込み、聖堂の店主は夕餉も終えて食後のお茶を縁側で飲んでいた。
 古い町家の立ち並ぶこのあたりは、空を見上げれば星々が良く見える。静かな空気と穏やかな風が、店の真裏に当たるこの庭の桜の木の葉をさわさわと撫でて通り過ぎていった。
 両手で茶器を包むようにして持ち、長く艶やかな黒髪を風にふわりと躍らせて、そんな庭を眺めている店主の目の前に新たな風が舞い上がる。それは少し冷たく、そしてここにはない薔薇の芳醇な香りを連れていた。
「おや」
 かぐわしい香りを鼻先にかすめ、店主が穏やかな淡い色をした瞳を細めると、視界に映りこみ始めたのは死神の黒衣。次第に姿を現したなじみの男は、いつものように白い手に薔薇の蔦の絡みつく無骨な死神の鎌を持っていた。
 黒に近い青の髪に、天上の星ですら敵わない宝石の青紫の瞳。どんなに端整こめて作られた彫像でも霞んでしまうだろうほど、本来ならば整った顔をあどけなく笑ませているアンリが、店主ににこやかに声をかけた。
「こんばんはぁ」
 無邪気な子供のように笑っているアンリを見て、店主が思わず小さく笑いを零す。
「はい。こんばんは」
 相変わらず緊張感のないアンリの笑顔は、本当にこれが高位の神なのかと思わずにはいられない。しかしその笑顔が店主には可愛くてならず、そしてアンリそのものが店主にとっては難儀なところもあるが可愛くて仕方がなかった。
「連れてきましたよ」
 店主が小さく笑うのを見ながら、アンリがそう言って縁側に座っている男の真正面に立った。
「そうですか。ご苦労様です」
 店主が腰を下ろしたままであるが丁寧に頭を下げると、アンリが眉間に皺を寄せ困ったような顔になる。
「ほんとですよぉ。僕だけじゃたぶんだめだろうと思って、リューリクにも協力してもらいました」
「そうでしたか。では、私からあの世界の神に声をかけておきましょう」
「へ?」
「今回のことは、全て私の思いつきですとね」
 店主の言葉にアンリが目を丸くして言葉をつまらせた。確かにそうだけど、でも納得して手を貸したのは自分だし、全てを店主が負うことはないはずだ。
「でもそれじゃあなただけの責任になってしまうじゃないですか」
「構いません」
「いやいや構いますよ。最初はびっくりしたけど、でも僕だって自分の意志で動いてます。リューリクだって同じですよ」
 やいやいとアンリは引き下がらない。きっと店主が白い世界の白い神に言ったところで、自分も怒られる羽目になるのは明らかなのだが、それでも店主だけが責任を負うことには首を縦に振るわけにはいかないと食い下がった。そんなアンリにしばらく言葉を返していた店主も、意外にというか実はとても頑固なところは昔から変わらないというかの、のほほんとした死神に向かって苦笑いをしつつ言った。
「では、一緒に怒られましょうか」
 すいと立ち上がりながら言った店主の言葉に、アンリが一瞬きょとんとしたが、意味を理解すると、宝石の瞳を嬉しそうにあどけなく笑い、大きく頷いた。
「はい。あなたが怒られるところなんて見たくても見られるものじゃありませんから、ぜひ一緒に怒られます」
 皮肉めいた中にも店主に対する親愛の見えるアンリに、店主がクスクス笑いながらローブのフード越しに柔らかく頭を撫でた。
「ではその前に、ナオにお別れをさせてあげましょうかねぇ」
「そうですね」
 言ってアンリが闇夜のローブの胸元にほっそりとした手を差し入れ、何かを取り出す。それは片手に少し丸ほどの球体。ローブの隙間からキラキラとに虹色の光を零れさせて姿を現したそれも温かく神聖な虹色だった。アンリの手の上で二人を照らす真球は、人間の魂。ナオの最愛の父親のものだった。
 店主が長い睫毛を伏せながらその瞳に慈愛を滲ませて、長い指先でそっとその真球を撫でる。
「はじめまして。人生……お疲れ様でした」
「ほんと。お疲れ様でした」
 呟くように言った店主の言葉に続くようにアンリも優しく言葉を零す。それに何も反応はないが、魂はふわりとした表面に店主とアンリの顔を映し出していた。
「ではいきますか」
 風に少し乱れた黒髪を手でかきあげながら、骨董屋の店主はそう言った。



 聖堂から歩いて数分のところにある真理子の家もまた、歴史ある日本ならではの家屋だった。古くからここに住んでいた真理子の曾祖父母たちから引き継いだという家は、あちこち修繕されながらも古いよき時代の建物を守っていた。
 本来ならば、門扉にあるインターフォンを鳴らして入るのが当たり前なのだが、今日はナオに用事――しかも相当特殊な――であり、ひそかにやってしまいたい二人は、自分の部屋が庭に面していると言っていたナオの言葉を思い出し、ふわりとその庭に姿を現した。
「ご主人がこんなことするなんて、初めてじゃないですか?」
 姿を現したアンリがすぐ横に立っている和服の男にからかうように、しかし声は潜めて言う。
「そうですね。私はお前のように不躾にいきなり入り込んだりしませんから」
 言われた言葉に店主がにやりと笑って言葉を返すと、アンリがぷうっと頬を膨らませて店主を睨んだ。
「不躾ってなんですか。そりゃお店の中にいきなりいきますけど、そこまで不躾でもないはずですよ?」
「店の中でも何でもいきなり現れればそれも不躾だと思いますがねぇ。ですが今日は真理子さんには知られたくないので、申し訳ないですがこのままナオの部屋に行きましょう」
 縁側から続く幾つかの部屋を見つめながら店主が言い、そのまま静かに歩き始めた。アンリもそれに続き、そして灯りのついている部屋の前、障子越しにアンリが声をかける。
「ナオー。いる?」
 温かな暖色系の照明がついている部屋にはナオの気配がある。しかしいきなり入り込むわけにもいかないので、アンリは二度ほど声をかけた。すると奥の方から影が生まれ、やがてそれが近づき静かに障子が開いた。
「え……なんで?」
 呼ばれたナオが少しだけ開けた障子から顔を覗かせて、目にした男二人の姿に幼い瞳が驚きを隠せないままに丸くなる。そんな子供に構わずアンリがニコニコと声をかけた。
「ナオの顔が見たくなって来たの。少しでいいからでて来てくれない?」
「ナオの会いたい人をお連れしましたよ」
 店主もまた、小さな子供に対する愛情を湛えた瞳を優しく笑みの形に変えて言葉をかけた。

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