小さな天使に溢れる愛を。

4.

 晴れやかな日中の名残を残している茜色に染まりかけた空の下。アンリがふわふわと石畳の町屋たちを見下ろしながら空を漂っていると、声が聞こえてきた。
 なにやら切羽詰ったような子供と女性の声にアンリが青紫色の瞳をついと動かしてそこを見ると、狭い路地を走っていく小さな、見知っている姿を見つけた。
「……ナオ?」
 ふわりと空に立ち止まるようにしてそれを見下ろしたアンリがその姿を見送るようにしていたが、少しだけ考えた後にやけにまじめな顔でその子供の後を追いかけた。緩やかに風に靡く黒衣を翻して、手に持った薔薇の蔦の絡みつく大切な死神の鎌を抱き締めながら。
 しかし子供の動きではあるがなかなか早く、まして小さな身体は町屋に隠れて見失いそうになってしまう。アンリは慎重に視線をナオに止めたままそれを追いかけた。
 やがてナオがついたのは公園の滑り台の上だった。近所の住人しか知らないような小さなそこは、もう誰も遊んでいない。たった一人、ナオだけがうずくまるようにしている。茜色に染まりつつある空の色を受けた滑り台も他の遊具も、ナオを隠すように地面に影を伸ばしていた。
「ナ……」
 アンリは音もなく滑り台の下に降り立ち、見上げて子供の名前を呼ぼうとして、そのまま言葉を飲み込んだ。死神の青紫の瞳に映りこんだその小さな肩が震えているのに気づいたからだ。
 ナオは声を懸命に我慢して泣いている。まだ年端もいかない子供がこんな泣き方をすること自体不自然であることくらいは、いくらアンリでも理解できた。
 うめくような声がその身体から零れ、震えが次第に増してくるのを見つめていたアンリだが、そのうち何かに弾かれるように滑り台の上にふわりとした動作で飛び上がり、自分でも驚くほどに自然にナオの身体を抱き締めていた。
 ゆったりとした黒衣で人間の子供の身体を包み込むように守るようにして抱き締めたアンリを、当然のことながらナオは何事かといったように目を見開いて見上げた。頭に深く被ったフードの中のアンリの、誰もが見惚れてしまうだろう綺麗な造作の顔を、茶色の大きな瞳が視界に入れる。そんな子供を宝物のように抱き締めたアンリがそれを見下ろし、宝石のきらめきを持つ瞳を優しげに細めた。
「子供がそんな泣き方をするなんて、生意気だなぁ」
 冗談めかして笑いながらアンリは言い、白い手でナオの背中をぽんぽんとあやすようにたたくと、驚きつつもナオが震えている唇を動かした。
「お前……なんで?」
「もう、お前じゃなくてアンリって名前があるんだからちゃんと呼んでよね?」
「アンリ?」
「そう。ほんとの名前はアンリ・オーレリアン。でもみんなアンリってだけ呼ぶの。ナオはナオって言うの?」
 のんき極まりないいつもの口調でアンリが、鉄柵に死神の鎌を立てかけて滑り台の上にぺたりと座り込み、そのまま細い膝の上にナオを抱き上げた。たっぷりとした黒衣の中に埋もれるようになったナオが、涙を頬に残したまま素直に返事を返す。
直哉なおや
「直哉かぁ。かっこいい名前だね」
「一個づつくれた」
「え?」
 ナオの言った意味が分からず、アンリがきょとんとして聞き返すと、ナオは何かを抑え込むような小さな声で答えた。
「お父さんとお母さんの名前から、一個づつ俺にくれた」
 ナオの両親のことを知っているアンリがその言葉に少しだけ返す返事に躊躇った。それと同時にナオがこんな風になってしまっている理由が分かり、なんといっていいのかも考えてしまう。自分から触れていいものか、聖堂の店主に任せるべきならばこのままナオをあの不可思議な骨董屋まで連れて行くべきか。そう考えていると、ナオが顔を俯けてアンリの黒衣をきゅっと握って口を開いた。
「死ぬって何?」
「え……」
「さっき真理ちゃんが言ってた。お父さん天国に行ったって」
「真理ちゃんがそう言ったの? 天国に?」
「うん。天国って何?」
 震えを隠せない声のまま顔を上げないナオが、ますます震えてくる感覚がアンリにも伝わってくる。ナオの身体から溢れ出そうなその感情を受け止めて、アンリの瞳にも滲むものがあった。
 アンリはナオが本当の意味で「死」というものを理解していないことを知った。まだこの世に生まれて数年の子供ならばそれも当たり前なのかも知れないが、これをどう上手く説明してやればいいのか。真理子の言った天国も間違いではないだろう。命となる魂はこの世と離れれば常世で癒しを施され、また新しく生を受けてこの世に降りて来る。その場所を天国という表現をするのだから。
 しかし見たことのない世界を、まして「死」そのものを幼い子供にきちんと理解させることは難しい。死を迎えた姿を見せるわけにもいかないのだから。
 アンリはなんとか懸命に自分の知っている言葉の中でナオへと説明をする。
「なんて言えばいいのかな? ……今ナオは息をしていろんな物を食べたり、いろんな物を見たりしてるでしょう? 真理ちゃんや僕にこうやって触ることができるでしょう? 歩いて走って遊んだりお勉強したり。毎日夜が来て、眠って起きたら朝が来て一日が始まるよね。ナオが当たり前だと思ってることができなくなるのが、死ぬってことなのかな。悲しいけど、好きな人に会えなくなっちゃうことも入るよね」
 これ以上上手いことが言えなくて、アンリの口も重くなる。もっと分かりやすく説明できれば良いのかな。でもナオが死を理解したところで、父親が帰ってくるわけでもない。理解できようができまいが、今はそれを受け止めるしかナオにはない。
 そう考えると、こんな小さな身体で残酷なことを受け入れるしかない子供に対するアンリの気持ちが重く漂い、無意識のうちにぎゅっとナオを抱き締めてしまっていた。
「アンリ……苦しい……」
「あ、ごめん」
 たっぷりとした黒衣の中で、ナオが思わず顔を顰めてアンリを見上げた。それでようやく力を入れすぎていたことに気付いた死神が少し慌てたように腕から力を抜く。そしてそのまま自分を見上げてくる純粋な瞳を覗き込むようにして柔らかく首を傾げた。
「ナオ。お父さんに会いたい?」
「え?」
「もし、僕がお父さんを連れてきたら、ナオは会いたい? 天国にいるお父さんに、お別れ言えるかな?」
「会えるの……? お父さん」
 ナオはアンリの言った意味が分からないようにぽかんとして言葉をつまらせた。そんな子供を見つめながら、アンリが優しい声音のまま言葉を口にした。
「たぶん、僕ならお父さんを連れてこれる。でもね、これがお父さんに会える最後の時間になるから、ナオがちゃんとお父さんにお別れ言えるか心配なんだ」
「お別れ……」
「そうだよ。天国に行ってしまった人をもう一回生き返らせることはできないの。それに天国から連れ出してしまうことも、本当はだめ。だから、ナオがお父さんの顔を見て話ができるのはこれが最後だよ? それをちゃんと分かってくれないと、僕はお父さんを連れて来れない」
 死を迎えた人間が今生の人間と会うことなど、本来あってはいけないし、これが当たり前だとナオが思ってしまっても困る。別れであることを前提に引き合わせることしかできない死神も心は痛んだが、ナオにとってそれが正しい言葉かけであると考えて、アンリは言葉を柔らかく保ったまま続けた。
「僕は死神だから、これくらいしかできないけど……ナオがそれでもいいって言うなら、お父さんを連れてくる」
 白いアンリの手が何度もナオの細い髪を撫でる。その感覚が心地良いのか、少しだけ表情を和らげたナオがしばらく考えるように黙り込んだ後、小さく呟いた。
「ちゃんとできる」
「うん?」
 聞き取れなかったアンリが顔を覗き込むと、茶色の瞳からぽろぽろと涙を零しながら、ナオが泣きじゃくりもう一度口を開いた。
「ちゃんと、お別れする……できる。お父さんと、約束した。お母さんを大事にするって……だから、できる……」
「そっか……」
 全身を震わせるナオを見下ろして、アンリの宝石のような美しい瞳が感化されるように小さく歪む。
「ほんと、子供のくせに生意気だなぁ……」
 クスクスと笑いながらアンリは冗談めかしてそんなことを言い、今度は加減しながら優しくそっとナオの身体を抱き締めた。
 家族に対してあまり良い環境ではなかったアンリにとって、父親は恐怖の対象であり、決してナオのようなまっすぐな感情だけを持っていない。しかしどこかで愛してほしかったと渇望するアンリ自身の子供のような心がナオに触発されて出てきてしまいそうで、それが泣いているナオに幼かった頃の自分を重ねてしまいそうで、きゅっと眉根を寄せて振り切るように頭を振った。
「僕が、ナオのお父さんを連れてくるから泣かないで。会わせてあげるから。ね?」
 これほどまでに純粋に父親を求めるナオをうらやましく思いながら、黒衣の死神は切ない気持ちのまま夕日を眺めていた。

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