小さな天使に溢れる愛を。

3.


 その日の夕方、一人の女性が聖堂を訪れた。黒髪を緩く頭の高い位置でまとめた眼鏡をかけた若い女性が暖簾を揺らして入ってくると、店主が穏やかに微笑んだ。
「こんばんは、真理子さん」
「こんばんは」
 優しい女性らしい声で挨拶をした真理子と呼ばれた女性が深々と店主に頭を下げた。その様子はとても申し訳なさそうで、見ている店主が恐縮してしまいそうなほどだった。
「頭を上げてください。今日は何もされてやいませんよ」
 小さく笑いながら店主が柔らかく言葉をかけると、やっと真理子は頭を上げ、しかし目を伏せたままで表情も暗い。
「本当に毎回申し訳ありません。私がもう少し時間があればあの子にかまってあげられるのですが……」
「ナオも真理子さんが忙しいことは分かっているんですよ。教室の生徒さんもたくさんいるでしょうし、仕事も忙しいでしょうから。ですが、やはり子供ですからきちんと理解するには至らないのでしょうね」
 あの悪戯を繰り返す子供のことを心配している店主の声に、真理子が少しだけ微笑んだが、やはりナオの保護者としては自分がいたらないことは充分に分かっている。まして悪戯をしていることを真理子はいつも自分の仕事がひと段落した夕方にご近所を聞き回って頭を下げている状況なのだから、仕事中でも気になって仕方がない。
 真理子はナオの母親の妹のあたる。まだ三十にもいかない若さだが、京繍の腕前は相当なもので教室を開き生徒もたくさん抱えているし、真理子の腕を気に入って注文する客もついている。家での作業ではあるが、一日子育てをするには真理子が忙しい環境にいるのも、真理子とナオにとって最適とはいえなかった。
 それらを分かっているし、ここで生まれ育った真理子だからこそ、近所の住人もナオが悪戯してもまだおおらかに対応してくれている。勿論幼いナオにそこまでの理由は分からないが、しかし悪戯をしても真理子から怒られはするものの、他の大人たちからはあからさまには怒られない。それが親と離れて暮らしているナオに対する大人たちに優しさなのだが、ナオには寂しさを助長するのかもしれないと、店主が思うには思うのだが、この穏やかに大らか過ぎる骨董屋の店主は、実害が小さいこともあり怒らずに見守っていた。
 真理子は眼鏡の奥の瞳を翳らせて、小さく、しかし深いため息を落とした。そして思わずといったように言葉を零した。
「ナオが寂しい思いをしていることは分かっています。本当ならもう姉夫婦が迎えに来てもいい時期なのですから……」
「迎えに来てもいい時期……ですか」
「あ……」
 本当に無意識だったのか、店主の繰り返した言葉に我に返ったように真理子が目を見張った。揺らぐような色を湛えたその瞳を店主の優しい瞳がしっかりと見つめ、その後花が綻ぶように微笑した。
「少しお茶でも飲んでいきませんか? ナオは今何をしていますか?」
「今は、私の友人が見ていてくれています」
「ではその御友人にはもう少しだけナオの相手をしていてもらいましょうか」
 にっこりと微笑んだ店主に、真理子は断ることを忘れたかのようにただ頷くだけだった。



「ご主人、なんですか? こんな時間に」
 夜もふけた頃、店じまいをして照明を落とした店の中に黒衣の死神がふわりと音もなく姿を現した。少しだけ冷たい風を纏いながら。
 闇の中から闇が現れるように、漆黒のローブに頭から足先までを包んだアンリが、相変わらず大事そうに死神の鎌を抱き締め、寝支度を整えた浴衣姿の店主に視線を流した。
「おや、そんな言い方をするってことは、何か予定でもあったのですか?」
 店の小さな明かりをつけながら店主がそう言うと、なんとなく癇に障ったアンリがむっとしたように眉間に皺を刻んだ。
「別にもう何にもないですけど、僕これでも自分の家に着いたばっかだったんですよ」
「暇だったのなら良いではありませんか。よくここには勝手に来るくせに、私が呼ぶと嫌なのですか?」
「そんなことはありませんけど……暇だといわれるのは心外です」
 意地悪げな店主の瞳にアンリがぷっと頬を膨らませて、しかしそれ以上は言い返さず、来客用に置かれている座り心地の良いソファに腰を下ろした。
「せっかくきたんですからお茶淹れて下さいねぇ」
「まぁ、それくらいは私もおもてなしさせて頂きますよ」
 遠慮もなく言いのけたアンリに店主がクスクス笑いながら奥の厨房へと入っていった。
 いくらか時間を置き、温かなお茶を盆に載せた店主が戻ってくる。茶葉の柔らかく優しい香りにアンリがあどけなく笑いながら白い両手で包み込むように茶器を持ち、そのままこくりとお茶を飲んだ。
「やっぱりおいしいですよねぇ。ご主人のお茶」
「お世辞でもそう言っていただければ嬉しいですね」
 店主が穏やかに微笑みながら綺麗な所作で自身もお茶を口にする。それからアンリに向かってまっすぐ視線を止めて問いかけた。
「一度、常世に入った魂をこちらに連れてくることはできますか?」
「……はい?」
 店主の言葉を受けてアンリの瞳が真ん丸くなる。一体何を言われているのか分からないといった様子の死神が何度か瞬きをした後、ようやく意味を理解して更に目を丸くした。
「そ、そんなこと……したことないし、できるどうかも分かりませんよっ」
「分からないということは、できるかもしれないということですね?」
「いやいやそんな前向きに考えないでください。まさか……それを僕にやれということですか?…………っていうか、誰の魂を?」
 アンリの瞳が明らかに混乱を映し出す。魂を常世から連れ出すなんてことはいくら普段から決まりごとをあまり重視しないアンリですらやったことがない。そもそもそんなことをした死神も、アンリの中に記憶としていない。ついでに聞いたこともない。それをこの目の前に典雅な男は簡単でしょうとでも言いそうな勢いでアンリを見つめている。それが妙な威圧感と共に死神を包み込む。
「私ができればやっているのですが、さすがにそこまでお前たちの世界に踏み込むことは躊躇いがありますので、ぜひお前にも協力していただきたくて」
「ちょっと待ってください。だから、誰の魂を連れ出すのですか?」
 アンリがもう一度問いかけると、店主が茶器を手にしたまま淡い色をした瞳を伏せた。
「ナオの父親です」
「え……?」
 意外な名前を聞いてアンリがキョトンとする。あの僕に散々なことをしてくれた子だよねナオって。その父親ならばまだ年も若いんじゃないの?と、そんな人間が既に死を迎えて常世にいるのかと単純に驚く。そして、そんなアンリの考えていることを理解している店主が死神の青紫の瞳を見返して小さく頷いた。
「ナオの父親はナオが真理子さんに預けられてから、出張先で事故にあって亡くなったそうです」
 若くして起業したナオの両親はそれなりに成功していた。幼いナオを真理子に預けなればいけない状況は、決してナオにとって良いことではないけれど、それでもナオを充分に愛していたし、何よりもナオのために仕事をしていた。今回も夫婦そろって仕事で家を空けるため真理子のところにナオを預け、そして出張先で交通事故に遭ってしまったと、夕方店主は真理子から聞いたのだ。
「そうなんですか……僕はその人の魂を回収したわけじゃないからなんとも言えないですけど、でも心残りだったでしょうね……」
 最愛の子供を残しての死はどれほど辛いことだっただろう。まだまだやり残したこともあるだろう若い人間の死に、アンリはいつも痛ましく感じてしまう。
 しかしふと、死神の頭に疑問が浮かぶ。
「ナオのお母さんは? どうしてるんですか?」
 死神のもっともな疑問に店主がまた頷いて、そして静かに口を開いた。
「病院に。遠方で、しかもあまり良くはないようです……」
「そんな……」
 どちらもナオにとってはかけがえないのない存在だが、父親だけに留まらず母親までも命の危険に怯えている。そして何よりも店主もアンリも驚いたのが、未だナオはそのことを聞かされていないということだった。
「なんでナオに話さないのですか!?」
 アンリが思わず身を乗り出すようにして店主に問いかける。店主を問い詰めるようなことをするなんて意味のないことであるが、とっさに出た反応をアンリは止められなかった。
 しかしその言葉を受けた店主は常である平然とした態度を崩さず、少しだけ悲しそうな色を瞳に宿した。
「ナオはまだ子供です。死を受け入れるのは大人でも簡単なことではありませんよね。ナオの父親が亡くなって、母親まで命が危ういとどこまで受け止められるか分からなくて……また真理子さん自身も姉であるナオの母のことも義理の兄である父のことも、上手く自分の中で処理できていないようです。話さなければいけないことも理解しているようですが、帰りを待ちわびているナオに対しては、なかなか言えないようです」
「でも、そんなの後回しにしてしまえば……余計ナオが傷つくんじゃないですか?」
「そうですね。私もそう思うので、早くお話した方が良いですよとは言いました。今日初めて他の人にそのことを話したと言って笑っていた彼女は、少しだけですが明るい顔をなさっていたので、あまり時間をおかずにナオに話をするかと思いますよ」
 夕方訪れた真理子からその話を聞いたときは、店主もさすがに驚いたものだ。自身が混乱し、ナオを思えば話せないと言った真理子の気持ちも分からないでないが、やはりアンリと同じように、知らなければ母親に何かあったときにナオは一層傷つくのではないだろうか。だから店主は時間をかけて真理子の話を聞き、諭した。ナオが傷つくのは避けられないかもしれないが、その傷を少しでも軽くしてやるのが大人の役目だと。
「知らないことのほうが幸せなこともありますけど……でも隠しておけないことなら早く知らせてあげる方が良いですよね、絶対」
 あの小さな身体を震わせて、怒鳴って逃げるようにして店から出て行ったナオの姿を思い出しながら、アンリが独り言のように呟いた。
「私もそう思います」
「で、僕にナオのお父さんの魂を連れ出せと?」
「せめてお別れを言わせてあげてやりたいんですよ。ナオの誕生日には出張から帰ってきて、親子三人で過ごすことを約束していたようですので」
「それって……悲しい誕生日プレゼントですよね」
 店主の言葉にアンリの小さな声が重なった。それは古い町屋にしっとりと染みこんでいきく。魂の宿る不思議な品々がひそやかに息づく骨董屋の中には、それきり二人の会話はなくなってしまった。

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