小さな天使に溢れる愛を。

2.


 それからも数回、アンリは聖堂を訪れるたびに壁に落書きしていたり、泥団子を近所の壁にぶつけていたり、犬と共に散歩している住人にいきなり大きな音がするおもちゃを片手に襲来してみたりするナオを見かけた。
 その小さな被害――骨董屋の典雅な男から言わせればだが――はランダムに標的を変えて続いていた。らしかった。
 そんな普段は静かな通りに、またふわりと冷たい風を纏わせたアンリが訪れると、小さな身体を丸めて骨董屋を覗き込んでいる子供がいた。手にはなにやら見たことのあるマジックペンを持って。
「またなんかするつもりなの?」
 アンリの白い綺麗な顔がきゅっと顰められてその子供、ナオに宝石の瞳を縫い付ける。結界を張っているために今のアンリの声も姿もナオからは見えない。
 ナオが身を潜めるようにしているのは聖堂の暖簾のすぐそばで、その幼い瞳が見上げているものは紫の美しい暖簾。トカゲもドラゴンもくっついていないたおやかに揺れるそれは、店主が自身の癒しの力で綺麗さっぱり復元したものだった。
「トカゲ消されたのが気に入らないのか」
 ふむ。とまじめな顔で勝手に分析したアンリが、まじめな顔のおかげで幾分普段より持ち前の美貌を見せている顔にあどけない、少しばかり意地悪な笑みを浮かべた。
 そのまま黒衣を揺らしてナオに近づく。結界を張っているために姿を見られることがないアンリがニヤニヤと楽しそうに笑いながら死神の鎌を抱きしめるようにしてナオの背後にしゃがみこみ、小さな顔のすぐ横に自分の顔を近づけた。そしてその瞬間手早く口の中で言葉を紡ぎ、結界を解く。
「何してんの?」
「うわああぁぁっ」
 耳のすぐそばで聞こえてきた声に、ナオがビクッと飛び上がりそのまま驚くほどの俊敏さで後ずさった。気配などなくしかも空気から滲み出すようにして現れた死神のことを幼い子供が気付けるはずもなく、泣きそうなくらい茶色の瞳を揺らめかせ、しかし大きな目でアンリを睨みつけた。
「なんだよお前! どっから来たんだよッ!」
 ナオが威嚇する子犬のように顔を真っ赤にして声を上げた。アンリから離れて聖堂の店先の壁に背中を押し付ける子供に、おかしくて笑ってしまったアンリがひょいっと立ち上がる。
「さっきからナオの近くにいたんだよ?」
「は? 嘘付けっ」
「嘘じゃないよー。姿消してたからナオには分からなかったんだもん。だって僕悪魔だし?」」
 闇夜のローブを頭からすっぽりと被った男が、からかいを含んだ様子でナオが以前アンリに対して言った言葉を引用すると、冗談の通じない――こんな真っ黒で大きな鎌を持っているアンリを見ればそう思っても仕方がないが――子供が目を真ん丸くして、それからむうっとふくれっ面になった。
「お前……やっぱり人間を殺す気なんだな!? そうはさせないからなッ」
 そう言ったナオがズボンのポケットから何かを取り出してアンリに向けた。それはこの間の拳銃の形をしたおもちゃだった。それを見たアンリがクスクスと笑いを零した。
「もうひっかからないよーだ」
 たとえのんきで馬鹿なアンリでも二度も同じ手に引っかかっては、死神以前に大人としてどうにもならないことぐらいは分かっている。小さな手に握られたそのおもちゃをちらりと見て、しかし大人気なく死神の鎌で応戦するような姿勢をとった。
 それを見たナオが気に入らないと言いたげに更に言葉を投げつける。
「うるさいハゲッ!!」
「ちょっ、ハゲって何さ!? 僕ハゲてないもんッ!」
「うるさいうるさいッ。お前なんかいつかハゲてしまえ!!」
「僕はハゲないよッ!! こんなに髪の毛あるんだからハゲたりなんかしないもんっ」
 たかが子供の売り言葉に買い言葉的なものを、真剣になって言い返してしまいアンリが頬をぷうっと膨らませて頭を覆っていたフードを脱ぎ捨てるように肩に落とした。爽やかな陽光の下に晒された黒に近い青の髪の毛がふわりと踊り、光の加減で青みが一層強く映る。無造作に伸ばされている肩甲骨の下くらいまである髪の毛も長身の立ち姿もかなり綺麗なものなのだが、ふくれっ面のその顔が本来の怖いくらいまで整っている美貌を吹き飛ばしてしまうほどなんとも子供っぽい。
 黒衣の死神と人間の子供がこの間同様、人気のない路地できゃんきゃん言い合いになってるが、それがこの目の前の店の主に聞こえないはずもなく、白熱する低レベルの言葉の応酬に暖簾が勢いよく跳ね上がった。
「いい加減になさい」
「きゃっ」
 厳しい声と共に暖簾のすぐ前に立っていたアンリの頭に何か重いものが乗っかり、その重さにアンリは首をすくめて小さく悲鳴を上げた。
「お前は何を子供相手に本気になっているのですか? 情けない。それともなんですか、年ばかりむやみやたらに重ねただけのお前の中身はナオと変わらないとでも言いたいのでしょうか。まったく、バカは死んでも治らないといいますがやはり一度死んでおきますか? それにしてもこれをお前に言うのは何度目になるのでしょうかねぇ」
 アンリよりもまだいくらか背の高い長身の店主が、ほっそりとした手でぐりぐりと加減のないままに死神の頭を押さえ込む。首の骨が軋んでしまいそうなほどの力に、情けなくも涙目になったアンリが立っていられなくなって座り込んだ。
「いたたたたたッ。ご主人っ。痛いってばーッ」
「痛くしているのですから当たり前ではありませんか。お前は正真正銘の馬鹿ですね」
 薄ら笑いながら死神の頭を押さえ込んでいる店主がそう言いながら、ちらりと意地悪げな視線をナオに流す。ナオはいきなり出てきて無体なことをしている和服の男のことをぽかんとして見ているだけしかできないようだった。
「ナオ」
「……なっ、なんだよ?」
「お茶を淹れて差し上げますから、お店の中に入りなさい」
「え?」
「ここではゆっくり話をすることもできないでしょう? そうそう、おいしいお菓子もありますよ」
 にっこりと、アンリを押さえつけている手に更に力を加えながら店主は晴れやかに微笑んだ。



 落ち着いた照明で照らされた不可思議に魂の宿る品々が並ぶ骨董屋の中には、相も変わらず客はいない。古い柱や梁が歴史を物語り、しかし古い柱時計の時を刻む音がこの時代の流れから切り離された店の中にも時間が存在することを証明してくれていた。
 そんな店の中の、来客用にと置かれている座り心地の良いソファにナオと、その横に首が痛んで仕方がないといった様子のアンリが互いにむっとしたまま座っていると、優雅な裾裁きで盆に人数分のお茶と菓子を載せた店主が戻ってきた。
「あいにくジュースがなくて申し訳ないのですが、冷たいお茶で良いですか? 今度何か用意しておきますね」
 穏やかに微笑みながらナオの前に切子細工の可愛らしいコップを置き、アンリと自分用に準備した温かなお茶が入った茶器もそれぞれに置く。それから頂き物だという甘い菓子をナオの前に差し出した。
 まだふくれっ面なのは変わらないナオであるが、店主が出してくれたお茶を無言のまま手にしてこくりと飲むと、喉が渇いていたのだろうか小さく息を吐き出した。
 アンリもまたその横で店主の淹れてくれたお茶を口にしてほうっと吐息を零す。そんな二人を見て店主は柔和な目許を更に綻ばせた。
「ところで、今日はどんな悪戯をするつもりだったのですか? ナオ」
 お菓子をほおばっているナオに、店主が言葉も取り繕わずにそんなことを問うた。ナオは叱るでもなく聞いてきた店主に目を丸くして、それから気まずそうな顔で黙ったまま端整な店主の顔を見つめた。そこにアンリが茶器を片手に言葉を挟む。
「また落書きするつもりだったんじゃないですか? トカゲの」
「トカゲじゃないって言ってるだろ、ドラゴンだよっ」
「トカゲでもドラゴンでもなんでも良いですが、落書きをするものではありませんよ。うちの暖簾も壁もね」
「う……」
 店主の言葉にナオが言葉を詰まらせて俯いた。その姿が可愛くて、店主の目許がふんわりと笑みの形に変わる。
 聖堂の壁にも暖簾も、他の近隣の壁もナオが来てから増えた落書きで、大人たちはせっせと消す作業に追われることが増えたことがあった。ナオが落書きに用いるものは主に油性のマジックなのだが、時にはクレヨンだったり、どこから持ち出してきたのかスプレーだったりしたこともあった。子供のすることなので大掛かりな落書きではないものの、それなりに消すことには時間を要する。
 しかしこの店だけは、翌日、もしくは当日中に綺麗さっぱり消えているのだ。ナオの落書きが。跡形もなく最初から何もなかったかのように消えているそれがナオには不思議で仕方がなく、一体どうなっているのだろうと思い始めてから、ナオの落書きは聖堂に集中していった。
 しかし消えていく落書きの方法が、人ではない店主の癒し力であることを子供が知ることはないのだが。元は龍神という正体の店主は再生させることや病、怪我なども含めて「癒す」事に関してはとても秀でているので落書きを消すことなんて造作もないことだった。
「ナオ」
 優しい声で店主は目の前の子供の名を呼ぶ。大きくて純粋さの溢れるナオの瞳が店主の姿を映し出すが、その奥には震える心が見え隠れしていた。
「悪戯をするのは歓迎できかねますが、いつでもここには遊びにいらっしゃい。それと、あまり叔母様に迷惑をかけてはいけません」
「おばさま……?」
「あなたが今一緒に暮らしている、真理子さんですよ」
 その名前を出した途端、ナオの顔に泣きそうな怒りたそうな感情のせめぎ合いが滲んだ。きゅっと唇を噛み、小さな手も指を折り曲げて握り締められる。そうして俯いてしまったナオを、不思議そうにアンリが覗き込んだ。
「ナオ? どうしたの?」
「……さい」
「へ?」 
 小さな声に聞き取れなかったアンリが更にナオを覗き込もうとして顔を寄せたとき、勢いよく小さな身体が立ち上がった。
「うるさいッ。みんなうるさい!! 俺は真理ちゃんなんか嫌いだし、嫌いだし……お父さんもお母さんも、みんな嫌いだッ!!」
 顔を真っ赤にして涙を堪えたナオがそれだけを店主とアンリにぶつけ、そのまま店を飛び出した。
 店先の暖簾を跳ね上げて乱暴な足音を引き連れて出て行ったナオを、アンリは驚いたまま見つめ、店主は柔和な目許を寂しげに伏せがちにして見送った。

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