小さな天使に溢れる愛を。

1.

「なに? ……これ」
 暖かく穏やかな日差しを受けた石畳の古い路地に立ち、アンリはぽかーんとした様子でそんな言葉を零した。
 ここは時代の流れから取り残されたかのような、日本家屋の並ぶ細い道。戦前からの町屋にある一軒の骨董屋の紫の暖簾の前で、黒衣の死神が人に姿を見られるかもしれないことなんて忘れたかのように、爽やかな風に踊るローブをたゆたわせて佇んでいる。
 目の前にあるのは、この骨董屋の象徴でもある紫に染められた大きく長い暖簾。四季折々の風に、アンリのローブ同様たゆたうそこには白抜きに「聖堂ひじりどう」と書かれている。
 優雅にたおやかに揺れるその暖簾の色は、アンリの好きな色であり、そしてここを営む典雅な和服姿の男、店主と呼ばれる男そのままのような高貴で清廉として、しかしどこか妖しげな色合い。
 しかしその美しい暖簾を見ているアンリの宝石かと見紛うばかりの青紫の瞳は、先ほどから瞬きすら忘れて、じいいぃぃっと見つめているのだが。
「とかげ……? に、羽……かな。これは」
 暖簾に対して述べる言葉としては似つかわしくない言葉が、また死神の顔色の似合わない妙に血色の良い唇から零れた。
 どんな方法で染め上げればこんな綺麗な紫になるのだろう。と思う鮮やかな色に、いかにもマジックででかでかと描かれただろうなにやらコレは、アートなの? いやいやそんなはずないよ。コレがアートなら僕だってアーティストといわれる分類に入るよね。と、絵心のない死神が瞬きを思い出しぱちぱちと長い睫毛を繰り返して動かした。
 頭から足先まですっぽりと闇を思わせる黒衣に包まれ、ほっそりとした白い手に深緑の薔薇の蔦が絡みつく無骨な死神の鎌を握って立っているそんなアンリに、後ろから声がかかる。
「ドラゴンだッ!」
「へ?」
 威勢の良い幼い声に、アンリが思わず小さく飛び上がり身を翻す。そして目の前に立っている子供についと視線を落とした。そこにはまだ初夏なのに半袖にハーフパンツという寒々しい格好の5~6歳の男の子の姿がある。
「トカゲじゃないぞっ」
 むっとした様子で睨み上げて来る東洋人らしい深い茶色の瞳を見下ろしたアンリに、その子供が小さな手に持っていたマジックペンを突き刺すように持ち上げた。
「んで、お前は誰だ?」
「……は?」
「変なカッコしやがって。お前バカなんじゃないのか?」
「え、ちょ……」
「そのでっかいのんなんだ。あ、お前さては人間を殺しにきた悪魔だなッ!?」
「は? え!? いや、僕……」
「うるさい言い訳するなッ。バカッ!!」
 真剣極まりない様子でアンリを睨んで、子供が反対側に持っていた何やらけたたましい音がする大きめの拳銃の形をしたものをアンリに向ける。アンリは勿論下界のおもちゃのことなど知らないが、しかし騒がしい音にぎょっとしたように身構えた。
「悪魔めっ。コレでもくらえっ!」
「いったああぁっいッ」
 子供の声がした直後、死神の声が路地に響き渡る。小さな手に握られていたそのおもちゃから勢いよく飛び出した丸く小さな弾のようなものは、実際威力なんてないのだが、至近距離な上に見事にアンリの白く形の良い額にヒットした。
 全く予想していなかった出来事に避けることもしていなかったアンリの額がうっすらと赤くなり、そしてそこを手で押さえながらアンリが思わずしゃがみこんだ。
 と、思ったら子供がそのアンリの背後に回り、目の前の背中を加減を知らないままに思い切り蹴り飛ばす。
「んきゃッ」
 小さな手同様小さな脚ではあるが、無防備にしゃがんでいたアンリがその勢いに負けて前につんのめった。なんとか手をついて転がってしまうことはなかったが、混乱している頭でも、こんなことをされる覚えないんじゃない僕? と、一気に頭に血が上る。
「な、なんなのもうッ!! 僕君になんかしたのッ!?」
 がばっと立ち上がり痛む背中をくるりと反転させて子供を見下ろす。本来青みを帯びるほど白い顔を赤くしながらむうっと頬を膨れさせたアンリが更に文句を言おうとして口を開きかけたとき、トカゲだかドラゴンだか分からない落書きをくっつけている暖簾がふわりと持ち上がり、中からある人物が姿を見せた。
「なんですか? 騒々しい」
 整った眉間に若干の皺を刻みながら優雅な裾裁きで現れた店主が、その長い睫毛に囲まれた柔和な目許をキョトンとさせた。 
 陽射し溢れる路地に出てきた店主は黒に青藍色せいらんいろが差し色に入っている和服を寸分の狂いもなく着込み、背の中ほどまである黒髪を黄金色の紐で緩くまとめている、今日も至って典雅で穏やかな佇まいだ。思わずアンリが「この人ほんとに綺麗だなぁ」と思い少しばかり見とれてしまったほどだった。
 一方店主の方はといえば、店の中でお茶を飲もうかと運んできたところだった。椅子に座り茶器を手にしたとき、表の方から聞き覚えのある声が聞こえてくるなと思い出てきたのだが、その声が馴染みの黒衣の死神だったのはまあ想定内なのだが、一緒にいる子供に若干意外そうな顔になる。
「おや。ナオじゃありませんか。おはようございます」
「う……」
 ナオと呼ばれた子供は店主の穏やかな顔を見上げて気まずそうに、そして困ったようななんともいえない顔になり、ぱっと小さな身体を翻すとアンリのことも忘れて脱兎のごとく走り去ってしまった。そんな、何か喚きながら石畳を転がっていくように走っていく子供の後ろ姿を、アンリも店主も見送るだけしかできなかった。
「なんなの、ほんと……」
「さて。なんでしょうねぇ……」 
 独り言のような呟きを交わし二人が首を傾げながら顔を合わせる。しかし「あ」と、アンリが思い出したように暖簾を指差した。
「ご主人、これ良いんですか?」
「はい?」
 アンリの白い指の先を確認するように視線を巡らせた店主が、先ほどから暖簾と共に揺らめいているその落書きを視界に入れる。
「これは……」
 長い睫毛の下の淡い茶色の瞳がじっとそこに見据えられ、店主は言葉を詰まらせた。しばらく黙っていた店主がやがて大きく息を吐き出すと、何も言わないまま男にしてはほっそりとした手を上げて暖簾を外し、そのまま店の中に引き込もうとした。
「どうするんですか、それ」
「さすがにこのまま出しておくわけにはいきませんので、とりあえず片付けるんですよ」
「落ちるんですか? そのトカゲだかドラゴンだか知らないですけど」
 どれだけ見ても、アンリにはトカゲにしか見えない落書きは拙く子供が描いたものとしか考えられない。ってことは、ここにいたあの子しかいないよね? とアンリが考えていたことと同じことを店主も考えていたようだ。二人そろって客のいない店の中に入る。店主が暖簾を店のいつも片付けておく場所にかけながら、薄く笑った。一瞬店主の背後に真っ黒いものが噴き上がったような気がしたアンリが、自分は何もしていないが条件反射のようにビクッと飛び上がったほどだった。
「さてどうでしょうか。それにしてもこんなことをしたのは、ナオでしょうねぇ……まぁ子供の悪戯ですから」
 誰もが見惚れる端整な顔に張り付くような笑顔がやたらに迫力があるというか黒いというか、アンリがふるふると震えてしまうほど真っ黒なものを背中にしょい込んだ店主がゆったりとした足取りで、いつもの椅子に腰を下ろした。アンリもまた慣れた様子で座り心地の良い来客用のソファにすとんと腰を下ろした。そして頭にかぶっていたフードを肩に落とし、壁に大切な死神の鎌を立てかけると、大きくため息をついた。
「あの子、誰ですか?」
 元々人通りの少ない路地にあるせいか、あまりこの近隣の住人を見たことがないアンリにとってはナオは勿論初めて見る子供だった。因みにそんな子供に足蹴にされてしまったこの死神は、天界では最高神に次ぐ位を持つ偉い神である。
 蹴り飛ばされた背中の痛みはなくなったものの、そんな扱いをされたことがなんとも腹立たしく、今更ながらアンリが頬をぷっと膨らませてぷりぷり怒り始める。店主は小さく笑いながらアンリを見て、それから口を開いた。
「ナオは最近良くこの辺りで見かける子です。どうやらこのご近所の方のところに預けられているようですね」
「預けられてる?」
「どんな事情かは私にもよく分かりませんが、この間他の方が教えてくださいました。親と離れて親戚の家にいると。まだ小学校に上がる前の子供が親と離れて暮らすのは寂しいでしょうし、この辺をうろついて悪戯をしているのも、もしかしたらそんな気持ちの表れかもしれません」
 静かに語る店主が暖簾のない店先に視線を移して、少し寂しそう微笑んだ。遮るものがないそこはふんだんに明るい日差しを店内に誘い込み、いつもと違う印象を持たせる。
「そうなんですか」
 アンリもまた店主の視線をなぞるように明るい店先に視線を止めて、どこか自分の子供のころに感じていた気持ちを思い出す。アンリは親に育てられていない。その気持ちがふわりと、切なく悲しく死神の中に巻き起こり、きゅっと唇を噛んだ。
 そこに、ばたばたばたばた!と、元気な足音がして小さな身体が転がり込んでくるようにして飛び込んできた。
「このバカ悪魔ッ!」
「は?」
 何事か理解できないままのアンリが間抜けな声を出した。目の前には先ほどのナオがおり、有無を言わせず何かをアンリに向ける。それは水鉄砲で、しかも結構大きなものだ。目を丸くしてカラフルなその飛び道具を見ているアンリに向かって一気に水が弧を描き放たれる。
「ひゃあッ!?」
「おや」
 距離のある弧を描く水がいくつもアンリにかけられ、フードを落としていた黒に近い髪の毛と、白い顔が主に濡れた。いきなり水を浴びせられたアンリは当然ながら冷たく、しかしいきなりすぎてあわあわしてしまい、ろくに自身をかばうこともできないであっという間に滴るほどに濡れてしまった。
「ざまーみろッ。ばーか!」
 ケラケラと笑いながらナオがそんなことを言い、満足げに水鉄砲を抱えてまた走り去っていく。小さな嵐が去ったような店の中で、優雅にお茶を飲む店主と売り物である魂を宿した不可思議な品々、そして何の因果でこうなったのか分からないが、まさに水も滴る綺麗な顔を、怒りで真っ赤にしたアンリが残された。
「もう……ほんと……ほんとに……あの子なんなのおおおおおっ!?」

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