朧月夜に蓮華と愛

38.金色の中の闇。


「蓮太郎、大丈夫か?」
 自らが傷だらけにも関わらず、黒い狐は白い弟を気遣い言葉を投げかけた。息が切れて痛くて仕方がないが、それ以上に心配でならない気持ちがある。
「はい。大丈夫です……朧は、大丈夫ですか……?」
 白銀の眉を痛ましげに寄せた蓮太郎も、自分を庇ってくれている黒い狐に口を開いた。二人とも装束が破れ滑らかな肌に血を滲ませて、立っているだけでやっとだというように大きく肩を揺らしている。
 花の咲き乱れる地面に、低い風がそれらをそよいでいく。芳香の中に二人の血の香りが織り交ざり、ふわり、と浮き上がった風を受けた屋根の上の金色の存在が眉間に皺を刻んだ。
「せっかくの花の香りが台無しやないですか」
 眉間に皺を刻んで、血の香りを手で煽るようにひらひらをさせた子供のような大人のような不思議な存在は、音もなく流れるような仕種で立ち上がると、手にしていた風車をぴしりと朧と蓮太郎に向けた。
「仲良きことは美しきかな。とは、お前たちのようなことを言うんでしょうかねぇ」
「は……? 何言うてんねん」
 何をいきなり言い出したのか分からない朧が、日差しを受けて一層輝く髪を靡かせた狐、澪に向けて怪訝なまなざしを向けた。朧の赤い瞳もまた、日差しを受けて輝きを増している。それを見返しながら、澪は小さく笑いを零した。口許だけの微笑はその狐の一見幼い容貌を、総毛立つほどに妖艶に変えていく。長い睫毛の下の瞳が全く笑みを孕んでいないことも大きいだろう。小さな手に持っていた風車を訪れた狐たちに向けたまま、澪は白い歯を唇から覗かせて更に微笑する。
「お互いを庇いあって、仲がええことですなぁ。でもそんなことでは私のことは説得なんかできません。それに、その白い方、私の言いつけ守らんかったやないですか」
 くつくつと喉の奥で笑い、澪はいかにも残念そうに首をかしげた。その様子が小ばかにされているようで、朧がぎりっと歯を食いしばる。無意識のうちに手を握りこみ、爆発しそうになる気持ちをなんとか抑えこんだ。しかし耐え切れぬほどの怒りに、黒い狐の周りをふんわりとした青い炎が揺らめきたった。それを見て蓮太郎が目を丸くして、慌てて朧の腕を引く。何を言うわけでもないが、蓮太郎の温かな掌の感覚に、朧の瞳が我に返ったかのように瞬いた。
 先ほど、再び姿を現したこの狐が、朧たちが驚いているところに金色の光を遠慮もなく当て込んできたことは、誰が見ても不意打ちでしかなかっただろう。疲れきり、相手の気配を感じることができなかった蓮太郎と怒りで周りへの注意が払えなかった朧に、片手間のように作り上げた妖力の塊をまるで鞠でも投げるかのごとく澪は打ち込んだ。
 それは見事に兄弟を巻き込んで爆発した。灼熱と轟音が二人を飲み込み、情けなく吹き飛ばされた。無数の刃のような妖力は明らかに朧たちを殺すまでの威力はない。まるで痛めつけるのが目的のような絶妙の加減は、むしろ痛みと屈辱を倍増させるほどだ。その澪の攻撃に対して、朧が一瞬早く動き蓮太郎を庇うようにして抱き込んだおかげで、白い狐の方は幾つかの深い傷と多くの掠り傷ですんだが、朧が背中にそれの殆どを受け入れる羽目になった。もとから甚平はぼろぼろになっていたが、それがもう見る影もなく破れてしまい、上半身が剥き出しになってしまっている。褐色のしなやかな肌に生々しく赤い雫が伝っている様子を、澪は面白げに笑いながら見ていた。
「それにしても、お前は珍しい色してますなぁ」
 澪は朧の問いかけに答えることもなく、また違う言葉をかける。朧に対して少しは興味があるのだろうか。珍しいモノを見るように不躾な眼差しを投げてくる澪に対して、朧はいつものことかと、呆れる素振りを隠す様子もなく答えた。
「黒いのがそんなに珍しいんかい。狐どもは」
「そうですなぁ。初めて見ました。お前はどこの子や?」
「どこの子て、そんなん知らんわ。ただ俺は人間とのあいの子やからこんな色してるんちゃうか」
 自分の出生なんてさして興味がない朧が、なんでこんな話をコイツとせなあかんねんと思うものの不機嫌そうに返す。それを黙った聞いていた澪が、朧の言葉を理解すると、驚いて目を見開いた。
「お前、人間の子なんか?」
「そうや。それがどないした。名前は朧や。覚えとけくそがきっ」
 忌々しげに瞳を歪めて、朧は言い放った。自分の生まれに負い目があるわけでもない。人間と狐の間に生まれても、この命は授かったもので、誇りにさえ思っている。生きているからこそ苦労もするし楽しいことも幸せもある。それが生きるということだと、朧は誰に教えてもらったわけでもないが知っている。生きている間に自分のできることをする。長い命を持つ種族と短く儚い命の種族、間に生まれたからこそ、命の重みも他のアヤカシよりかは理解しているつもりだった。
 凛とした中に柔らかくも強さを持つ朧を、やや後ろから見ていた蓮太郎は、その言葉と背筋の伸びた黒い姿に目頭が熱くなる思いだった。
 朧くらい自分もはっきりと言葉にできれば、こんなことにはならなかったのかもしれないと、自分のふがいなさにうんざりする。何を言われても朧は強い。それは出会ったころから分かっていたことだ。その強さに、朧が守ってくれる環境に慣れてしまって、努力をしてこなかったのではないかと思う。成実のことも、これからの自分の生き方のこともどこかで朧がいるからと、安心してしまっていた。こうして今守られていることも、朧が傷だらけになりながら澪と蓮太郎の前に立ちふさがっていることも、嬉しいのだが、自分にも何かできたのではないか。
 よく言えば優しく、悪く言えば気弱。朧とは正反対のそんな白い狐を、誰もが跡取りだからと守ってくれていた。押しが弱いのも、朧がその分補ってくれている。だからお前はそのままでいいと、父親がいつか言っていたのを思い出した。そのときはそのまま言葉の意味を受け取ったが、本当にそうだったのだろうか。朧が蓮太郎の足りないところを補ってくれているが、それではいつまでたっても朧がいなくてはいけない。
 そうではなくて。焦る必要はないが、少しづつ成長していけいけばいい。そう言ったのではないだろうか。大きく溢れる愛情を注いでくれている父親は、決して蓮太郎を叱ったりしなかった。女癖の悪い人だけど、前に立って家族を守り、平和に穏やかな日々を皆が過ごせるように、田畑を耕し山を整え一人一人に声をかける。何気ない会話から些細な変化を読み取り、困ったことがあれば少しでも手を差し伸べる。そんな父親にわずかでも近づくのが夢だった。こんなところで躓くのが今の蓮太郎のすることではない。傷だらけの朧に守ってもらうのが、今すべきことではない。
 金色の優しい瞳が涙で潤んでしまうが、なぜこんなことをされなければいけないのかという気持ちがふつふつと湧き上がってくる。自分の家族を傷つけられてまで、気弱である蓮太郎ではない。成実のことも大切だが、まず守るべきは自分の家族だ。ここで泣き言を言うなら、それこそ何も進まない。理不尽な攻撃を受ける理由もないだから。
 肩で大きく呼吸を繰り返す朧の腕を、蓮太郎は優しく撫でた。自分よりも少し大きなその腕には、血が滲む傷が沢山ある。アヤカシは人間に比べると耐久性はある。しかし痛みを感じないわけではない。涙が下瞼を越えそうになって、蓮太郎は慌てて細い手で目許を擦った。
 それから視線を持ち上げて、屋根の上に立っている金色の狐を視界に入れた。日差しの中で金色の装束を着た小柄な狐は、まさしく太陽のように輝いている。眩さにくらみそうになる蓮太郎の金色の瞳が、澪を見つめると、その狐は信じられないモノを見るように二人を見下ろしていた。
「…………なんや?」
 微動だにしない澪を見上げながら、朧が怪訝な様子で蓮太郎に向かって囁いた。まるで人形のように、風に遊ばせている装束と靡く髪とは対照的に、呼吸さえしているのかというほど、それ以外に澪は動く気配をさせていない。顔色は失せ始め、幼い印象だった容貌の感情全てが抜け落ちていく。艶やかな唇が、しばらくすると少しづつ震え始めたのに気付いた蓮太郎が、首をかしげている朧に向かって声をかけた。
「なんか……様子がおかしい……」
 言葉を最後まで唇に載せる前に、一瞬で背筋が粟立つのを感じて息を呑んだ。全身の産毛まで逆立つような激変した空気に、朧と二人揃って頭の先から足先、尻尾までが何か不快な恐ろしいもので撫でられる感覚を覚えた。
 目の前の金色の狐は、瞬きをすることなく二人を見つめている。金色の艶やかな、しかし深い闇を宿したおぞましさすら感じさせるそれを見て、更に身体が強張るのを感じた。こんな空気は初めてだ。何もかも根こそぎ奪い取るような闇の感情。どす黒いどろどろとした溶岩のような、何もかも焼き尽くしてしまうほどに溢れてくるものの根源は、澪の小さな身体だ。その器となる小さな姿に、なぜそこまでの感情が隠されているのかは当然二人は知らない。だが気圧されるように、ほぼ同時に数歩後ろに下がった。そんな白と黒の狐に、金色の狐は溢れ出るうねりには似つかわしくないほど穏やかな声音で言葉を発した。時折吹き抜けていた風は、驚くほどひやりとしたものに変化していた。
「なんで、人間の子が……ここで生きてるんや……」
「は……」
 囁くほどの言葉に、耳の良い二人はかろうじて澪の言葉を受け止めた。しかしその意味がまるで分からない。なんと返して良いのか分からなくて言葉を選んでいると、澪は更に口を開いた。その顔にはなんの感情もなかったが、それに反比例するように空気はますます澱み、黒ずんだ気配を増していく。溢れる陽射しと、朧と蓮太郎の足元を埋め尽くしている花の絨毯が、逆に異質に見えるほどだ。
 聞き取れないほどの小さな声で、しばらく澪は何かを呟いていた。視線を二人に繋ぎ止めてはいるものの、でも二人を見ていないような空ろな光を滲ませた金色の瞳。だが、何も知らない無垢な赤子のようにも見える空ろな、不思議な瞳の中で様々な色が垣間見える。暖かな色を宿らせたと思ったら次の瞬間には闇に変わり、またなにかふんわりとした色を滲ませる。物言わぬ白い容貌は、その度に纏う雰囲気を変えていく。同じ存在からこうも複雑な感情を見たことはなかった。一体何を考えているのかも想像すらできない白と黒の狐は、自分の足が囚われたように動けなくなっているのを感じて、その場で立ち尽くすしかなかった。
 何よりも溢れてくる闇の中で、恐ろしさから動くことができなかった。額に恐怖から来る汗が流れる。震えてしまうほど切迫してくる澪の感情。それがふと、わずかに緩んだ。どろりとした不快な流れの中で、ふっつりと切れてしまったそれに、朧も蓮太郎も耐え切れずに安堵した息を吐き出した。それが間違いだった。
「なんでお前はのうのうと生きてるんやぁッ!!」
 カッと目を見開いた澪が、手にしていた風車を一瞬で燃え上がらせる。そのまま澪を包んでしまいそうなほど膨れ上がった金色の炎は、濁流のように朧めがけて放たれた。

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