朧月夜に蓮華と愛

36.暗闇の向こう側。


 痛む身体に鞭を打ちまた急斜面を登り、朧がなんとか吹き飛ばされたところまで上ると、そこにはもう誰の気配も姿も見えなかった。静けさだけを含んだ緩やかな風が吹き、それに揺れる小さな足元の花たち。積み上げられた不自然な形の岩。何もなかったかのように存在するそれらを視界に入れて、朧の赤い瞳が不機嫌そうに歪んだ。
「あいつどこいったんや」
 あいつ――澪という名前以外に長寿だということしか、誰も知らない。なぜ一人だけ永遠にも思える命を持っているのかも、普段は目上の者にでも臆することがないあの父親が、あんな言い方をしたのかも分からない。朧は立ち尽くしたまま何度も首をかしげて考えたが、やはり自分の知りうる限りの中で澪の情報はなかった。
 ただ、あの力の大きさだけは痛いほど知った。あれでも澪からすればほんの遊びだったのだろうが、山に息づくもの全てがうろたえ、そこから溢れ出るような戦慄するほどの気配。自分の身体の中に流れる妖力を何の前触れもなく形作るのは相当だった。見た目がなんとも小さく、幼いような印象を受けるだけに本当に油断していた黒い狐は、掌の傷から未だ滲む血を悔しそうにぺろりと嘗めた。
「強くても何でも、蓮太郎探すのにここまできたんやから……なんとかせなかんねん」
 一人決意を確認するように呟き、目の前にぽっかりと開いている穴を見つめた。
 こそこそするのは性に合わない。それにそんなことをするほど後ろめたいことをしに来たわけでもないし、喧嘩をするつもりもない――まぁ、その辺は性格からして少々自信はないけれど。とにかくここに蓮太郎が来ているのかすらもはっきりとしていないので、確かめることが第一だった。
「よっしゃ!」
 両手を持ち上げて自分の頬をぱんっと叩き、朧は躊躇うことなく岩に開いている、闇が包み込む穴の中に入っていった。
 一歩入っただけで、ひんやりとした空気が朧の身体を撫でていく。音も何もない、視界さえ危ういその暗がりは、思いのほか長かった。目がいいはずの狐でも何も見えないほどの濃密な闇の中をどれくらいか歩き、小さく光が見え始めたと思ったら、それは朧が近づくよりも早く、まるで自ら近づいてくるかのように大きくなりふわりと黒い狐の周りを照らした。
 黒しかなかった視界に、突如溢れた光に朧が覆わず目をきつく閉じてやり過ごす。ひんやりとしていた空気もいつの間にか光に侵食されるように薄れ、ほんのりと花の香りを含んだ柔らかな温かい空気に満ち溢れた。少しだけ時間を置いて瞼を持ち上げて見た風景に、次第に朧が目を見張った。
 小さく愛らしい鳥の鳴き声に、涼やかな虫の声。それから一定感覚で小気味いい音を立てる、水の流れの中にある竹の音。温かいのだが、夏のような日差しの強さを感じ、そして実りを感じ水に冬を感じるような、なんとも不思議な、すべての季節を表したかのような景色を、朧の瞳は映し出していた。。
「…………へ?」
 信じられないほどに広い目の前の世界。俺、岩の中に入って行かんかったか? そう何度も自分の記憶を確認した朧は、訳が分からないように呆けてしまうしかできなかった。
 目の前には高い空と溢れる陽射し。黄金色の穂を誇らしげに揺らした稲やその上を飛ぶ蜻蛉たち。たわわな実をいくつも湛えた木々。耳を癒すような透明度の高い川の囁きに、その傍らに建つ茅葺屋根の家。水車がゆっくりと回り、そこに飾られた鳥の竹細工が、屋根からつるされた同じ竹の細工に一定感覚で、こん、と当たり音を出す。
 岩を積み上げたあの見た目からは想像できないこの景色。これがあの澪が作り出したものだとすれば、朧の感覚からすれば「あいつ神様かなんかちゃうんか」と思ってしまっても不思議はないだろう。アヤカシにはそれぞれ能力があるが、少なくとも狐にここまで力はない。幻覚を作り出すことはできても、これはそれとは全く違う。きちんと全てに命が宿り朧たちが暮らす外の世界、成実や涼子が暮らしている人間の世界となんら変わりがなかった。
「なにもんや……あれ」
 自分を手痛く歓迎してくれた金色の姿を思い出しながら、朧はゆっくりと歩き出した。踏みしめる大地も、勿論土の感触を返してくる。すっかり乱れた朧の黒髪がふわりと風に流されるたびに心地よく、桃色ではないが海のような深い青を湛える空に流れるゆったりとした雲が目を癒してくれた。
 見渡す限りは広いのだが、家らしきものはこの一軒しかないようだと思う。畑や水田もよく手入れをされている。家の傍の川には小さな魚影が見える。朧が出てきた暗闇は、ちょうど家の正面が見える方向だったらしく、川の上に渡している細く小さな橋があるのを確認できた。陽射しが充分あるせいか、家の中に明かりはない。決して大きくない家だが、造りはしっかりしているようだ。朧たちの家も、父親の家も狐の一族の中では大きく特別であるが、これは他に存在する狐たちが住む家に似ている。鄙びた中に温かさが滲み出るような、家族が住まう家だ。足をやや引きずるようにして黒い狐がそこへ近づき、橋の上から川を覗き込む。そこには紐をつけた桶の中に瑞々しく熟した野菜と果物が冷やされていた。
「気配ないけど、おるんかなぁ……」
 耳をそばだててみても感覚をすませてみても、何も感じない。もしかしたらいないのかもしれないし、朧がここまで来ることを予見して気配を消しているのかもしれない。とにかくもうこれ以上かすり傷でも増やすのはごめんだと、朧は身構えながらゆっくりと近づいていく。家の正面から静かに裏に回るように壁をなぞって行く。幸い垣根など家の周りを取り囲むものがないために、朧は裏側に回ることができた。
 咲き乱れる、という表現がぴったりの淡い色を湛えた花の絨毯が視界を満たし、それに思わず感心した朧は、その中に移りこんできた白い姿に驚いた。
 乱れきった白銀の長い髪、薄汚れた白い装束、両膝を地面に落として項垂れているその姿は、探していた弟だった。朧が立っている場所からは顔を見ることはできないが、間違いなくそれは蓮太郎だった。
 何をしているのかと思うほど、そこにいる蓮太郎はピクリとも動かない。まるで人形のように指一本も動かない有り様に、朧はしばらく声をかけることができなかった。
 温かな陽射しに穏やかな風、その中にいる白い狐は、明らかに異様なほど疲労しているようにも見える。
「れ……」
 蓮太郎の名前を呼んだつもりだったが、その前に朧の身体が動き出していた。勿論痛みを感じないわけではなかったが、それも気にならないほど自分でも動転していた。何があったのだろうと考える暇もなく、今にもくず折れそうな白い身体を、褐色の朧の腕がまるで抱きこむようにして支えた。
「蓮太郎!?」
「…………おぼろ……?」
 赤い瞳をこれでもかと見開いて自分の肩を掴んできた朧に、蓮太郎も目を見張る。互いに顔を穴が開くほど見つめあいながら、いくらか言葉が出てくることもなかった。
 蓮太郎は、やはりひどく疲れ果てていた。いつもの柔らかく穏やかな雰囲気もなりを潜め、顔色もよくない。朧と違ってきっちりと髪を結い上げていたはずなのにそれも乱れてしまい、艶のなくなったそれが風に靡いた。
「おまえ、なんしてんねん」
「そう言う朧こそ、こんなところで何して……」
「お前を探しに来たんやないか。何言うてんねんあほか」
「そうなんですか?」
 疲れた顔はしているものの、蓮太郎が意外にもしっかりと言葉を返してきて朧は少しではあるが安堵した。これで倒れたれたりしたら、きっと頭に血が上ってこの家を破壊してしまっていたかもしれない。とにかくちゃんと蓮太郎を見つけることができたことに、実感がわきあがるにつれて嬉しくて仕方ないように笑みを零してしまうのを止められなかった。大きな手で乱れた蓮太郎の髪を乱暴に撫でながら、とにかく跪いている蓮太郎を花の中に座らせる。自分も腰を下ろして、改めて蓮太郎へと言葉を投げかけた。
「ほんっま、心配したんやぞ? なんも言わんとおらんようになりやがって」
「あ、すみません……」
「まぁもう、事情はおとうちゃんから聞いたからええけどやなぁ。なんでこんなとこきたんや?」
 蓮太郎が何のために生家を訪れたのかと、その後の経過は知っているが、なぜここまで来たのかは朧には分からなかった。父親も知らず、ただ長老のたちが蓮太郎の名と澪の名を出してなにやら会話をしていたのをたまたま聞いた父親が、朧に、もしかしたら蓮太郎が向かったのかもしれないと話したことがここを訪れるきっかけになった。それすら分からなければこうして蓮太郎を見つけることもできなかったので、それはお父ちゃんお手柄やっ! と内心朧はとても感謝した。理由は本人を見つければそこで判明するのだから、ひとまず行動を起こさなければ何も変わらない。こうして来たことは正解だった。
 朧の問いかけに、蓮太郎は疲れきった瞼を細い手で擦りながらゆっくりと話し始めた。
「ここの、澪様を説得できたら……認めてやってもええっておじい様たちが言うたから」
「説得?」
 澪を説得という時点でもう朧には訳のわからないことだった。いかんせん名を聞くのも初めてだったからだ。長老たちと父親で、今現在は何かを決めるときは話をする。狐の世界は幾つかの領主、と、人間の言う世界でなら言う家柄があり、朧たちの家はその中でも一番発言権を持つ家になる。勿論独裁にならぬようにその家の中で長と長老がおり、抱える狐の皆が平和であるように勤めることが目的だ。
 幾つかの領主となる狐に属するように沢山の狐たちが暮らしているあの地域より、かなり離れたこの山の中でくらしている金色の狐が一体何の関係があるのだろうか。
「なんなん、あのちっこいの」
「さぁ……おじい様たちはそれ以上教えてくれませんでした」
 蓮太郎もあれの正体を知っているわけではないので、これ以上はっきりとしたことが言えず言葉を濁すしかない。二人で妙な沈黙を分かち合い、黙り込むしかなかった。そんなことなど小さなことだと言うかのように、穏やかに花の芳香が周りを包み込んでいる。
「ほんで、お前何してたん。こんなとこで」
 見つけたときの蓮太郎の姿を思い出して、朧が問うと、蓮太郎は今までのことを思い出したのか眉間に皺を刻んで肩から力を更に抜いた。
「澪様に、事情を話してお願いしたんです。成実さんのこと……そしたら、許してほしかったらここでええて言うまで動くなて。できたら許してやらんこともないって」
「…………あん?」
 自分の鼓膜が受け止めた言葉に、思わず間抜けな声を出してしまった。目を丸くした朧に、蓮太郎はどうしたらいいのか分からないと言った様子で瞳を揺らめかせる。
「僕なんもでけへんし、これくらいで許してもらえるならて思ったけど……」
「いやいや、そんなんおかしいやん。許してもらうのになんでこんなことせなあかんねん。人のこと馬鹿にしてんのか!?」
 やり方に朧がむっとしてしまうのを抑えられずに声を荒げた。先ほど見た怖いまでに綺麗な、しかし意地悪そうな狐の考えることだと、納得できるだけに無性に腹が立って仕方がない。成実のことを考えたら言いなりになるしかない蓮太郎にしたことは、正面から何事も向かうことを好む黒い狐からすれば子供じみて不愉快だった。しかもこんなことをして許してやろうと思うような相手ではないような気がしてならない。からかっているだけだろうと思う。
 むかむかと、腹の中が落ち着かない朧の顔がますます険しくなってくる。青筋を立てるほどに怒っているその顔を、白い狐は今にも泣き出してしまいそうな顔で見返す。自分のことでまた朧が不快な思いをしていることが、蓮太郎には心苦しくてならない。そして心配をかけてしまっていたことを今更ながらに感じて、更にその気持ちが加速する。
 蓮太郎の視線にもかまってやれないほど、朧は座り込んだまま考えた。こんな馬鹿げたことをさせるあの狐に、信用なんてないも等しい。そもそも信用するまで知っていない。このまま蓮太郎をつれて帰りたい気持ちはやまやまだが、黙って帰るのも癪に障る。ここは一つ何か文句を言ってやろうか、たとえまた吹き飛ばされても言わないよりましやないかあの性悪狐めっ!
 考えに至った朧が勢い良く、自分の背後になっている狐の家だろう建物を振り返った。――時。
「なんですのその目、おぉこわ」
 からかうように笑いを含んだ声が鼓膜に届く。陽光溢れる空気の中、瞳を持ち上げてみれば、いつの間にか茅葺屋根の上に小柄な狐がちょこんと腰を下ろして二人を見下ろしていた。

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