朧月夜に蓮華と愛

32.純粋な不純物。


 大きな満月の輝く夜。
 屋敷の大広間には緊張した空気が張り詰めていた。大きな花がいくつも飾られた大きすぎる部屋の中に白い装束の狐たちが集まり、皆神妙な顔つきで言葉を発することもなく唇を引き締めている。
 蓮太郎と父親、そして年老いた狐たちが数人。急ぎで集められた長老たちだ。中には諸国漫遊ではないが旅に出ている者もいるので、とりあえず集まれる者だけが集まり、蓮太郎の話を聞いていた。
 自分よりもよほど位の高い狐たちに囲まれて、蓮太郎の額から汗が滲み出す。元々気弱そうな顔が更に気弱を前面に押し出し、その優しい瞳が涙を浮かべそうなほど揺らめいている。広間は開け放たれており、時折気だるげな温かさを含んだ風が通りぬける。月夜を眺めながら酒でも酌み交わせばとても気持ちがいいだろうと思えるほどだ。
 しかしそんなことを考えているのは大きな身体をどっしりと畳に下ろした父親くらいなものだ。庭から見える蓮華と月を眺めて一つあくびをしたところに、しわがれた声が聞こえた。
「呼び出されて何事かと思えば……」
 顔に刻まれた年齢の皺以上に深い皺を眉間に刻みながら、白く年老いた狐は深くため息を落とした。肺の中からすべての空気を出し終えると、いまだ濁りなき金色の瞳をまだまだ未熟で若い蓮太郎に縫いとめる。
「蓮太郎。お前自分でなに言うてるか分かってるんか」
 諭すように、しかし非難をこめて零れた言葉に、蓮太郎の肩がひくりと震える。先ほど報告した言葉――成実を、人間を好きになったということ――に嘘はない。心から愛しいと思える相手がたまたま周りの意に添わないだけで、人間だろうとなんだろうと蓮太郎には関係ない。しかし妖力も生きてきた時間も圧倒的に違う長老たちに囲まれてしまっては、居心地が悪いというレベルでなく恐ろしいものだった。
 声をかけられて、蓮太郎はおずおずと視線を上げる。目の前に座っている数人の狐は、すっかり年老いている。顔には皺があり、背中が丸まっているものもいる。白銀だったはずの耳も尻尾も金色が深まっている。中には蓮太郎の背の半分ほどしかない大きさになっている狐もいる。蓮太郎の記憶の中では、確かこの人すごく男前で背も高くて、なんでこんな小さくなったんだろうと、この場の雰囲気も忘れて首を傾げてしまいそうなほどに。それほど驚くべき変化をなしえた狐は、何枚か重ねた座布団にちんまりと座っている。そんな狐が先ほど蓮太郎に声をかけてきた人物なのだが。
「お前の役割はなんや」
 問われて蓮太郎はきゅっと唇を噛んだ。そんなことは言われなくても分かっている。生まれたときから役目を刷り込まれて育ってきたのだから。その役割に対して不満を持ったこともなければ疑問すらもなかった。もちろん今も持ってはいない。ただ自分の気持ちに正直でいたいだけだ。泣きそうに歪む瞳をなんとか年老いた狐に結び、蓮太郎はゆっくりと口を開いた。
「お父様のような、立派な跡取りになることです」
「それがそういうことかほんまに分かってるんか」
 ちんまりした狐の横にいた、少しばかり大柄な狐がぴきりとこめかみを引きつらせて重ねる。それから口々に、長老たちは蓮太郎に向かって好き勝手に口を開き始めた。自分に向けられる言葉の波に、蓮太郎はますます困ったような泣きそうな顔になっておろおろする。言葉を返すことも忘れてしまったように、唇を時折動かすが何もいえない息子を隣で見ていた父親は、わしゃわしゃと頭をかきながら言葉を挟んだ。
「そんなみんなでも言わんでもええんちゃうんか? 蓮太郎困ってるやないか」
 のんきにも聞こえる声が、ふわりと流れ込んできた風に乗って長老たちに届いた。それに大きな耳をひくりと反応させていっせいに皆が黙り込んだ。眼光鋭いそれは老いた者の視線とは思えないほど力がある。向けられた大きな狐、父親はなんやといった様子でキョトンとしているだけなのだが。
 しかし、その人数分の金色の瞳が自分に向いているわけでもないのに、蓮太郎が小さく息を呑んで顔を俯けた。
女子おなごのことに関して、お前が蓮太郎に何かを言えた義理やない」
 ちんまりした狐が昔を思い出して大きなため息を落とした。皺だらけの手で額を押さえて頭を振る。苦虫を噛み潰した顔でじっとりと父親をにらみ付けたあと、言葉を続ける。
「ええか、銀。お前が雪女に手ぇ出して氷漬けにされたのを、頭を下げて許してもろたんは誰や?」
 いきなり切り出されたことに、一瞬ぽかんとした蓮太郎の父親だったが、勿論思い当たる節はありまくりなので、気まずそうに笑いを浮かべた。
「え……っと……じーさんたち?」
「青女房に騙された時は?鬼の娘に手ェ出した時は?」
「それもやな……じーさんたちが助けてくれた……?」
天降女子あもろうなぐに骨抜きにされたときにお前を助けたのは誰やッ!?」
「あーもうッ! じーさんたちや! そんな昔のこと今掘り返さんでもええやないかッ」
 ちんまりとした狐と父親の中で様々な記憶が甦ってきたのだろう。憤慨する長老に煽られるように父親の声も大きくなり、しばしの間、内容的にはとてもくだらない喧嘩が勃発した。まあ大半が女関係の、父親の黒歴史だった。父親の女性遍歴など知る由もない蓮太郎が、次々と出てくる名前に呆気に取られてぽかんとしていたが、やがて言いたいことをある程度言ったのか、長老が再び蓮太郎に視線を止めた。父親はすっかり口で負けてしまい憮然とした様子で煙管を咥えている。
「あのな蓮太郎。こんな父親やからお前の今回のことに関しては、わしらは父親の言うことには耳を貸さん。このさき家族を守っていくのはお前の役目や。そのためには不純物を入れるわけにはいかん」
「不純物……」
 その言葉に頭を殴られたような気持ちになった。自分のこの気持ちも、成実自身も不純物だということか。胸の中にどろりとした何かが蔓延る。一気に頭に血が上って視界が一瞬眩んだような気がして目を閉じた。感情の乱れは妖力の流れを変える。実際少し前には、撫子のことで感情のコントロールができなくて神社を壊したこともあったのだし。普段がまったくもって穏やかな蓮太郎の普段見せないその昂りに、白銀の髪がふわりと踊り、身に纏う穏やかな色が消えていった。その気配が勿論分からないはずもなく、父親も長老たちも身に迫る蓮太郎の感情に眉をひそめた。
 だめだ、我慢しなくては。そう思うが、自分のことを責められるだけならなんとも思わないが、成実を否定された気持ちになった蓮太郎がそれを我慢するのは難しかった。綺麗な眉間に皺を刻み、両手を血の気が引けるほど握りこんでなんとかやり過ごす。ふさふさとした尻尾が一層ふくらみを増して全身の毛を逆立てる勢いの息子に、父親が大きな掌で俯いている白銀の頭を軽く叩いた。
「落ち着けや、あほ」
 呆れた中にも心配する声音に、蓮太郎がぎゅっと瞑っていた瞼を持ち上げる。白い頬が上気しているのを隠すようにして蓮太郎は更に俯き、それから何度かゆっくりと息を吐き出した。
「申し訳、ありません……」 
 半ば呻くようにして零した言葉に、父親の金色の瞳がやんわりと細められた。それから、息子の気持ちを考えるとやりきれない思いがするといったように、こちらも息を吐き出すと長老たちに視線を向け問いかけた。
「どうしてもあかんのか?」
「あかんもんはあかん。狐の中に人間の血を入れるわけにはいかん」
 きっぱりと改めて言われると、更に悔しさが募る。成実の何を知っているわけではないのに。そう喉元まで出掛かって来たのを、蓮太郎はギリッと歯を食いしばって我慢した。父親は蓮太郎の頭を撫でながらのんびりした口調で重ねる。手に持ったままの煙管からゆらりゆらりと紫煙が昇るのを眺めている瞳が真剣な色を帯びた。
「なんでそんなに頑なやねん。蓮太郎が跡を継いでくれたらそれでええやんけ」
「お前がそんなんやから蓮太郎までがこんなことになるんや」
 しわがれた声でちんまりとした長老は呆れた色を隠しもしないまま言い放った。
「狐もそうやけど、だいたい人間の言うアヤカシの存在がもう少なくなってるやないか。そんな中で混血なんぞしてしもたら純血がおらんようになる。未来を閉ざしてしまうことになるのが分からんのか」
 未来永劫自分たちが存在していくには、他の血で汚してしまうわけにはいかない。長老たちの言いたいことも分からないではないが、正直そんな自分の孫やひ孫の、それこそ何代先か分からないところまでの話をされても、若い蓮太郎には実感もない。それのために自分の気持ちを殺して守らなければいけないものだったのかと、逆に驚くほどだ。やはり自分は本当の意味で跡を継ぐことを理解していなかったのだと知ると同時に、そのために諦めなければいけないものがあるのだろうかと疑問がわく。
 家のことを考えると、成実とのことは当然障害になりうる。しかし自分らしく生きていくには成実は必要不可欠。行き場のない怒りと混乱のおかげで、思考がない交ぜになって蓮太郎の中で渦を巻く。まるで人格が分かれたかのように、長老たちの言葉に納得している自分と反発している自分がいて、目の前で再び言い合いを始めてしまった父親と長老の声が聞こえなくなっていった。
 成実が好きなだけなのに。
 混乱する蓮太郎の中に、たった一つ輝きを持っているのはこの感情だけだった。
 月夜は穏やかに蓮華の香りを纏う。母親の好きな花が庭で咲き乱れている。香りを抱き優しく微笑む母親が見えるようで、こんな風に自分のことで言い合いをしている父親と長老たちのことを母親が見ているとしたら、きっと悲しく思うかな。ふとそんなことを考えて、更に蓮太郎の感情が揺らめく。
「僕、間違ったことしてない……」
 無意識に、綺麗な形の唇が消え入りそうな言葉を零した。

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