朧月夜に蓮華と愛

27.悩むのはお約束。


 桃色の空の下、もう何度目かになるのか分からないほどのため息に、聞いていた小さな狐がこちらも何度目かになるの分からない動作で首を緩くかしげた。頭のてっぺんで結い上げた白銀の髪がさらりと小さな肩を滑り落ちる。
 年中春のような気候のこの異世界は、ほのかな花の香りと温かな風が通り抜け、どことなく気だるいような感じがして何も考えたくなくなる。のに、そのため息が深々と何度も子狐――楓の鼓膜を打った。
 開け放した障子のおかげで、ほのかな芳香を湛えた風の入る豪華な和室の中。ちょこんと座って繕い物をしている楓が、小さな手を止めてようやくのように切り出した。廊下を挟んで向こうには、綺麗に手入れの施された庭がよく見えた。
「蓮太郎様? 一体何をそんなに悩んでおいでですか?」
 可愛らしい金色の瞳で主を見るが、その主からの返事はない。楓は一度咳払いをしてからもう一度問いかけた。
「蓮太郎様っ。どうかされましたか?」
「…………へ?」
 部屋の真ん中でゆるりと姿勢を崩し脇息にもたれていた蓮太郎が、たった今全てに気付いたといわんばかりに、その輝く金色の瞳を楓に止めた。白い顔は相変わらず端整なのだが、纏う雰囲気がどうにも柔らかで緊張感の欠片もない。白い装束と綺麗に整えられた髪も何もかも凛とした印象があるはずなのに、今日は特にいただけない。と、小さくても優秀な狐は思ってしまう。勿論自分の主でもあるので、楓は蓮太郎をとても大事にしているのは当たり前の話である。慣れた様子で針仕事中の楓が、視線を手元の戻す。
「なんだか、先ほどからため息ばかりついていらっしゃるので、何かおありかと思いまして」
「なにか…………うん」
 曖昧な表情のまま、蓮太郎が楓の小さな手を眺めてわずかに頷いた。器用に針を進めていく楓は、ちらりと視界の端に蓮太郎を捕らえると、特に何も言わないで蓮太郎からの言葉を待った。
 風が庭の木々をさわりと悪戯に撫でていく。豊かに生い茂った葉がそれに漣のように音をたてる。桃色の空の下の瑞々しい緑は、全体的に暖色のそこに引き締まった印象を与える――主とは全く違って。
 ふわりふわりと舞い踊る蝶が、部屋の中に紛れ込んできた。鮮やかな色を羽に宿した大きな蝶は、蓮太郎の憂いを慰めるように白銀の耳に優しく近づく。蓮太郎はそれがくすぐったいのか、大きな耳をぴこぴこっと動かした。
「楓は、僕が結婚するの嬉しい?」
「……はい?」
 なにやらとても当たり前のことを言われてしまい、楓らしくなく気の抜けた声を漏らした。思わず手を止めて蓮太郎をまじまじと見つめてしまったくらいだった。
「いや、だから……結婚して、ちゃんと子供とかできたら、楓たちは喜んでくれるんかなって思ただけ」
「それは喜びますよ。だって蓮太郎様だけではなくて、奥様とお子様のお世話もできるんでしょう? そんな嬉しいことはありません」
 愛らしく大きな瞳を心底嬉しそうに細めて、楓は笑う。しかし蓮太郎の心はなんとなく沈んでいく。
 楓たちが望んでいるのは、勿論だが同じ狐の花嫁であり、決して人間ではないからだ。後を継ぐ子供も勿論狐同士から生まれてこなければ意味がないのだろう。
 結婚ってなんやろう。
 蓮太郎は楓を眺めながらそんなことを考えてしまうのを止められなかった。


 いつも顔を合わせるのは夜だよね。そう思いながら成実は駅から神社への路を歩いていく。人気のない道は以前襲われかけたこともあり、成実にとっては怖いのだが、会いたいという気持ちの方が勝る。足早に住宅街の中を進み、赤い鳥居が見えてくるころに、思わず緊張していた気持ちが解けて息を吐き出すのが常になっていた。
 まだまだ春には遠い。身を震わせながら境内の玉砂利を踏みしめて社に近づく。しかし心はとても温かく、早く金色の瞳の中に自分を映してほしくて、成実は大切な名前を呼びかけた。今日は涼子は家族で出かけると言っていたので、家の方には全く灯りがなく静まり返っていた。
「こんばんは」
 成実の呼びかけに、蓮太郎がふんわりと姿を現した。白銀の髪が夜の闇を柔らかく弾き、蓮太郎を彩るように燐光の名残が周囲に散る。大きな尻尾を嬉しそうに動かしながら、整った顔に笑顔を滲ませている白い狐は、成実の前で静かに頭を下げた。
 いつもながらもう一人の、成実にとって性悪狐でしかない朧と違って、蓮太郎は穏やかで静かだ。どうして朧と兄弟なのかとつくづく考えずにはいられない。よく見れば目許は似てるのだが、やはりどうしても比較してしまう。そもそも着ているものからして二人は違う。髪型は最近同じように頭の高い位置でまとめているが、朧は無造作にまとめただけなのに対し、蓮太郎はきっちりと結い上げていて見たこともないような珠や房で飾られており、日本古来の装束もありかっちりとした印象があった――本人の雰囲気はいざ知らず、だが。長身の蓮太郎を見上げながら、成実はあまりに整った狐の顔にため息を零しそうになりながら頬に集まる熱を感じる。
「こんばんは」
 気が利いたことも言えないのは成実も蓮太郎も同じだった。ただ挨拶をして、それから社の古びた階段に腰を下ろして時間を過ごす。人間の生活をあまり知らない蓮太郎が、成実の一日を聞くのが主な内容でしかない会話だが、そんなことすら幸せだと感じてしまう。相手が狐だろうが人間だろうが、こんな時間の方が圧倒的に心が落ち着くのだと、成実は嬉しくて仕方がない。
 狐にとってこちらの気候はあまり関係ないようで、蓮太郎自身は寒さなどないのだが、やはり成実はじっと座っていると身体が冷えてくる。まさか社の中に勝手に入ってしまうわけにもいかず、あまり長くいられないのが少しだけ寂しいのがこの季節の難点だ。
 そんな短い時間の中で、成実は沢山蓮太郎の顔を見よう思うのだが、どうしても恥ずかしさの方が大きくて目を合わせていられなくなる。自分に対して自信がないからかもしれないが、いかんせん蓮太郎の整いすぎている容姿もだめなんだよと、八つ当たり的に考えるくらいだ。
 月光よりも甘やかな金色の瞳も白銀の長い睫毛も、いつも柔らかく笑みを湛えた紅花色の唇も、透けるように白い肌も人のものでないだけに圧倒的に綺麗だった。
 美人って、昔は男の人にも用いる言葉だっけ。と、学生時代にどこかで習ったようなことを思い出さずにはいられない成実だが、今日はどことなく蓮太郎が元気がないような気がした。静かな蓮太郎だからいつものことかと思いがちだが、それでも何か言葉が少なかったり、黙り込んでしまう傾向にあるような気がした。
 あの騒ぎから数日たち、蓮太郎が壊した成実の部屋の窓はサクラがキレながらも修復してくれた。勿論蓮太郎はそのあとに正座をさせられ小さな犬っころのようにこんこんと怒られたらしいのだが、成実はそれを朧からしか聞いていなかった。それがまだ堪えているのだろうか。マフラーをぐるぐると巻きなおしながら、成実が瞳を上げて隣にいる白い狐を覗き見る。
 夜空を見上げている蓮太郎の横顔が、どことなく元気がないように成実には見える。それぞれの膝の上に置いた繊細そうな手が、時折きゅっと握られて、成実との時間の中に何か違うことを考えているかのように思えた。
 悩み事とかあるのかなぁ。などとのんきに思っていた成実だが、蓮太郎は自分と違って何かと思うことも沢山ある存在なのだとふと思う。毎日仕事をして家に帰れば自由な自分なんかより、蓮太郎はきっと気を配るべきところがあって、きっと狐の中のしきたりだとかこれからのことだとか、やるべきことも成実が想像できないほどあるはずだ。
 それなのにここでこうしていていいのだろうか。ましてこの間よく分からないが何かの儀式もしていたようだし、今までとは蓮太郎の環境が変わっているのかもしれない。
 そう思うと、もう何度目になるのか今更感の拭えない思いが溢れてくる。
 自分では蓮太郎には似合わないのだ。蓮太郎が自分といると時間がなくなって迷惑ではないのか。と、心の中にどんよりとした気持ちが湧き上がり、無意識に視線を足元に落とした。古い木目の刻まれた階段をぼんやりと眺めながら、成実の気持ちは更に加速する。
 本当は、迷惑なんじゃないのかな。涼子が聞いたらそんなことないですよと懸命に励まし、朧が聞いたら間違いなくはたき飛ばしそうなことを考えた成実の横で、白い狐もまた何かを思って小さくため息を落とした。
 互いのため息が仲の良さを表すように重なる。人間の瞳と人外の瞳がつられて交わり、座っているとは言え、身長差の分だけ少しではあるが成実は蓮太郎を見上げ、蓮太郎は成実を見下ろした。
 自分ではコンプレックスの塊である成実だが、決して顔の造作が悪いわけではない。見上げたきれいな瞳に澄んだ夜空が溶け込み、思わず蓮太郎が頬を赤らめた。こんなに可愛いのになんで朧はあんなことを言うのだろうと頭の片隅で考える。
 そんな蓮太郎の長い睫毛に、額から落ちかかる白銀の髪が弱くなった月光を纏いふわりと冷えた風に揺れる。長い睫毛の下の金色の瞳が、空に浮かぶ月よりも輝き艶やかに見え、成実は思わずほうと吐息を漏らした。
「……成実さん? なんか悩みでもあるんですか?」
「…………へ?」
 見とれて出たため息を悩みのそれと勘違いされて、成実の口から間抜けな声が零れ落ちた。しかしたった今、また悩みを生産してしまったので、あながち勘違いでもないのかもしれない。
 だがここで馬鹿正直に思うことを言えないのはもうどうしようもない性分なので、はたと我に帰り、
「何でもないよ。少し寒いかな」
 成実はそう言ってにっこりと笑うしかできなかった。

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