朧月夜に蓮華と愛

25.夜明けと共に。


 寒さで目が覚めた成実は、壁にかかっている時計に目をやる。まだ六時前だ。ほんの数時間しか眠っていない。身体がだるく、何よりも瞼が、何か錘でもくっついているのかというくらい重かった。力加減なんて忘れたかのように瞼を手でごしごし擦りながら、薄暗い部屋の中で、盛大にため息を落とす。
「お風呂にも入ってないし、寒いし服もそのまんまだしなんなのもう……」
 誰にともなしにぶちぶちと文句を言ってしまうのを止められない。ひとまず部屋の暖房を入れて洗面所にふらつきながら歩いていく。狭いマンションなのですぐそこにたどり着き、冷たい水にまた文句を言いながら顔を洗った。
 水を滴らせながら、洗面台の鏡に映った自分の顔のあまりにも残念な様子に思わず笑いがこみ上げたほどだ。決して美人でもないのにパンパンに腫れた瞼と情けない顔つきで、さらに破壊力が増している。こんな顔であの神社の狐たちの前に立っていたと思うと恥ずかしくて穴を掘って入りたいくらいだ。きっと泣いていたから化粧だって崩れていたはず。
「……でもまぁ……仕方ないか。過ぎたことだし……」
 ふわふわのタオルに顔をうずめて、成実の唇からまたため息が零れる。白い優しい狐と、黒い狐のことが頭から離れない。それに涼子だって心配しているはずだろう。サクラにも迷惑をかけたし。成実の思考はどうしてもあの場所から離れないようにいくつもの顔が浮かぶ。
 眠さと疲労でまたふらつきながら、成実はベッドまで戻る。少しでも寛げるように服を着替え、ぼさぼさの髪を簡単にまとめ、ふとベランダへと視線を投げる。そこは薄いカーテンがひかれて外は見えない。が。
「……なに……?」
 三階にある成実の部屋は、街灯がほんのりと辺りを染めているのを確認できる。そこに普段は絶対にないだろう影が、輪郭のぼやけた姿を現していた。一人暮らしの成実だし、まさか家族がいてもベランダから「ただいま!」なんて言って帰ってくるわけもないし、時間も時間だ。一気に成実の背筋に寒いものが駆け上がり、ようやく温まってきた部屋のおかげで血色を取り戻していた頬の色も失せる。
「どろぼう……?」
 小さく口を継いで出た言葉に、自分で驚き震え上がる。音を立てないようにベッドに上がりこんだが、成実の体重でベッドが軋み更に震え上がってしまった。
 どうしようどうしよう。考えれば考えるほど何も思い浮かばず、震えてしまって力の入らない身体に、温かいはずなのに冷たく感じる空気がまとわりつく。なんでうちなの周りには結構大きな家だってあるじゃないここにはろくなものなんてないんだからよそに行ってよねッ!! と、言葉にはしないが必死で窓の外にいるだろう不審者に訴えるが、そんなものが通じるわけもない。ただじっとそこにある影は消える気配すらない。
 しんとした部屋の中に暖房器具の作動している音と、成実の呼吸だけが漂い、外は風が吹いているのだろう、影が曖昧な輪郭を時折揺らす。遮光のカーテンでないだけにその輪郭を隠すものは窓にはない。隠れるところもない狭いマンションの一室で、成実はふとんを手繰り寄せて抱き締め、壁に身体を押し当てて息を潜めているだけしかできないでいた。
 じっとりと暑くもないのに額に汗が滲む。ぎゅっとふとんを握りこんだ指先が感覚を失い、他人のもののように感じ始めたとき、不意に機械的な音が部屋の中に響き渡った。ベッドの下に放り出していたスマホのアラームが、景気よく最大音量で起床時間を知らせる音だった。
「――ッきゃあああああぁぁああッ!!!」
 ベランダに限りなく意識を張り付かせていた成実は、襲撃されたその音にまさに飛び上がり、弾かれたように叫び声をあげた。朝も早くから近所迷惑甚だしい声は、当然外にも聞こえただろう。影も思わずびくりと身体を強張らせて、こちらも弾かれたように動いた。――成実の部屋に向かって。
 ゆったりとした装束の袖を揺らしながら、白い炎を透明な硝子にぶつけ、一瞬にして消滅させる。影の放った炎が孕んだ風で、部屋の中に強い風が突き刺すように入り込み、カーテンが大きく踊る。それを見た成実が続けざまに叫び声を上げた。
「成実さんッ!?」
 ふとんを頭からかぶりすっかり腰砕けになっている成実の鼓膜に、切羽詰った聞き覚えのある声が届いた。成実の記憶の中で一番大切な声。しかしそれをそうだと理解するには成実が混乱しすぎており、一瞬「あれ」とは思うものの怖すぎて布団から出ることはできなかった。 
 部屋の中に入り込んだ影は、部屋の中をぐるりと見渡した。柔らかな色でまとめられた小さくても居心地の良さそうな部屋。その中でベッドに視線を廻らせると、そこには人がいるだろう気配がある。影――蓮太郎は、金色の瞳をぱちぱちとさせながら思わず立ち尽くした。スマホのアラームはご機嫌な様子で起床を知らせていていたが、しばらくするとふつりと切れた。
 成実に謝らなければ。朧にも涼子にも、ここ数日の話を聞いた。サクラにも話を聞き、しかし社を半壊させたことをこっぴどく怒られたのだが、おかげで正気を取り戻すことができた。三人に促されるまでもなくいきさつを飲み込み、蓮太郎は社を離れて成実の部屋まで来た。だがオートロックなんてモノを蓮太郎が知っているはずもなく、どうやって成実に会えばいいのだろうか、しかし会わなければ、少しでも早く会って謝らなければ。その思いで成実の気配を頼りに、人間世界ならば不法侵入であるがこうやって部屋のすぐ傍にやってきたのだ。
 蓮太郎にすればこれだけで思い切った行動だった。朧なら何の遠慮もなくいきなり窓を壊してでも成実に会っていただろうが、蓮太郎は不意に怖くなって動けなくなってしまった。もし成実が会ってくれなかったら、嫌われていたら。そんなことを考え、また時間も成実の都合も考えずにここまで来てしまったのだが本当に良かったのだろうか。今更!? と、朧がいたら間違いなくつっこんでいただろうことを考えて、足が竦み動けなかったところに成実の叫び声が聞こえて、何かを考える前に身体は勝手に反応を示していた。
「……成実さん。僕です……蓮太郎です……」
 近づいてもいいものかと迷い、蓮太郎はその場に立ったまま成実へと声をかけた。布団の中で身体を強張らせている成実が、声を聞きひくりと動く。蓮太郎は早く成実の顔を見たい気持ちも大きかったが、ひとまずここは焦らずにまた、成実の名前を呼んだ。
「成実さん。顔を見せてくれませんか?」
 静かな、穏やかな声音に、成実の思考は不思議なほど落ち着いていく。心臓が口から飛び出してしまうんじゃないかと思うくらいどきどきしていたのに、優しく神経をなぞるように聞こえてきた声に、もぞもぞと暗闇の中で身動ぎ、ひょこりと顔を覗かせた。
「れ……れんたろう……? ほんとに……?」
 顔の半分だけ出した成実が、ほのかに灯りを帯びる蓮太郎の姿を視界に入れる。白装束に白銀の髪、白い尻尾に大きな頭の三角。自分の見慣れた部屋の中にいる蓮太郎は、ここでは違和感半端ない姿で立っていた。狭い部屋に、長身の身体が窮屈そうに見えるほどだ。
「はい。蓮太郎です」
 少しだけぎこちない表情ではあるものの、蓮太郎は笑う。金色の瞳はまっすぐに成実を見つめ、柔らかな微笑は、きちんと自分の意思で宿らせた温かみがあった。成実も視線を受け止めた蓮太郎は、一つ息を吐き出すと、その微笑を翳らせた。
「成実さんに、謝ろう思って……でもなかなか勇気がなくて声をかけられんかったら、叫び声聞こえてきて、それで僕慌ててしもうて……いきなり入ってきてすみませんでした」 
 深々と蓮太郎は頭を下げた。頭の高い位置でまとめられた髪がさらりと流れ、入り込んでくる冷たい風にふわりと揺れる。飾り珠がかちりと音を立て、それがやけに大きく聞こえた。それを半ば夢のように眺め、成実は呆然と見上げていた。
 蓮太郎はそんな成実に、躊躇いながらも一歩近づく。布団に紛れ込むようにしてうずくまっているような座っているような体勢の成実の、視線に合わせフローリングの床に正座をすると、まっすぐに成実の瞳を見つめた。ただ座っただけの所作なのに、流れるように綺麗でそつがなくて、成実はそれも見惚れるしかできなかった。
「……僕のせいで、嫌な思いさせてしもうて、申し訳ありませんでした」
 謝罪の言葉を、蓮太郎はいくらか時間を置いて言い、床に額をつける勢いで頭を下げた。
「へ……?」
 20年と少し、人生の中でこんな風に謝ってもらうなどとは予想もしていなかった。思わず間抜けな声を出してしまった成実だが、あわてて身を正すように起き上がりふとんを跳ね除けてベッドを降りる。
「蓮太郎やめて、そんな風に謝らないで」
 蓮太郎の広い肩を支えるようにして、成実は白い狐の頭を上げさせようとする。しかし蓮太郎は身を強張らせて、それを拒否した。
「僕が、ぼんやりしてるからこんなことになって……成実さんにも朧にも、涼子にもサクラさんにも迷惑をかけてしまいました。謝っても許してくれるか分からんけど、でも僕にはこうすることしかできへんから。……ほんまにすみませんでした」
 苦しげな自己嫌悪と後悔と、申し訳ないという思いが蓮太郎の言葉に滲み出す。白銀の髪が蓮太郎の端整な顔の殆どを隠してしまっているので、成実からは蓮太郎がどんな表情をしているのかは分からない。だが大きな身体をこれでもかと小さくして謝っている心は充分に理解できた。
 自我を取り戻してしまえばいつもの蓮太郎に戻るのだと思っていた自分は、蓮太郎を本当に理解していなかったのだと、成実は気付く。
 自分のしたことで周りに迷惑をかけてしまったことは、何よりも蓮太郎を傷つける。一族をまとめる立場が約束されて育てられた蓮太郎にとって、周りの調和は、きっとどんなことよりも大切なものだろう。自分の意思でしたことでなくても、朧が困惑し怒り、涼子が心配し、サクラが自ら出てきて蓮太郎を解放した。それから成実が悲しみ泣いた。元に戻ったんやからええやないか。と、朧ならきっと笑って済ませることも、蓮太郎はそうではない。心からの猛省と、自分を追い詰めることを止められない。
 上質な白い装束に包まれた蓮太郎の身体が、小さく震えている。もう本当に充分だと、成実がまた泣きそうな自分を叱咤するように深呼吸をした後、蓮太郎の肩に置いていた両手に力を入れた。
「蓮太郎、頭を上げてっ」
「え!?」
 成実は立ち上がり、まるで大きな荷物を持ち上げるように蓮太郎の肩を引き上げた。小柄な成実ではこうでもしないと蓮太郎の顔を上げることができなかったからだ。だが意外に力があるのか、蓮太郎は危うく後ろに倒れそうな勢いで顔を上げる。
 成実は蓮太郎の前に回りこみ、すとんと腰を下ろして目線を合わせる。長い白銀の睫毛に囲まれた金色の瞳が潤んでいるのを見て心が痛んだが、しかし成実はにっこりと笑い、その人のものではない色の髪を、子供にするようにわしゃわしゃと撫で回した。
「本当にもういいの。いつもの蓮太郎に戻ってくれたんだから。いいんだよ」
「でも……成実さん……」
「なぁに?」
 眉間に皺を刻んで蓮太郎は成実を見る。
「たくさん、泣きはったでしょう?」
「そ、そんなことないよ?」
 ぎくりと、成実の目が泳ぐ。明らかに泣きましたと丸分かりの瞼では、それも何の意味もない言い訳だ。いくらぼんやりしている蓮太郎とは言え、さすがにそれくらいは分かる。ますます眉間の皺を深くしながら、肩をがっくりと落とした狐は視線を、正座している膝にある自分の手に落とす。
「目ぇ腫れてるし、朧も成実さん泣いてたて言うてたし……僕のせいですから……」
「そんな、腫れてるかな。気のせいじゃない?」
「めっちゃ、腫れてます……」
 蓮太郎の気弱な眼差しが成実と交わる。泣いてないなんて嘘をつき通せるくらいなら、最初から泣いてないよねと、成実は思い、観念して苦笑した。
「丸分かりだと思うけど、泣いたよ」
「はい……すみませんでした」
 成実の言葉に蓮太郎が小さくだがはっきりと息を呑んだ。それからまた頭を下げようとした白い狐を、成実があわてて制する。
「謝らなくていいってば。もう充分謝ってもらったし」
「でも謝るしかでけへんし……」
「私も、謝らないとだよ」
 蓮太郎の言葉に重ねるように、成実は少々口調を強くして言う。
「何をですか? 成実さんなんもしてへんのに」
「私もね、蓮太郎を置いてきたから」
「……はい?」
 成実の言っている意味が分からないと言ったように、蓮太郎が首をかしげる。徐々に夜があけてきて、蓮太郎の髪が朝日を溶かし込む。その綺麗な髪を眺めながら、成実は言葉を続けた。
「蓮太郎のことを、これ以上見てられなくて、自分の気持ちが辛すぎて……あの場所を離れちゃった。ごめん。蓮太郎のこと助けてあげられなくて、何もできなくてごめんね」
 言いながら、この数日間のことを思い出して、成実の目から涙が零れた。我慢しようと思っても止まらない雫が、次々に頬を伝う。でもそれは悲しい涙ではなくて安心したのと、何よりも蓮太郎が好きなのだと自分の中で再確認した気持ちの表れでもあった。
 嬉しい気持ちが混じり、泣きたいのか笑いたいのかよく分からなくなってきた成実が、それでも声を零して笑い出す。蓮太郎はそれを泣きそうな顔で見ていたが、そのうち長い腕を持ち上げて、成実の頬を伝う涙を繊細な指で拭った。
「成実さんはやっぱり、笑ってるほうが可愛いですね」
「…………へ?」
 いきなり言われた言葉に、成実がキョトンとした後、ものすごい勢いで頬を真っ赤にした。可愛いなんて言葉をまさか言われるとは思いもしていなかったし、そんな雰囲気でもないだろうと、思わず蓮太郎につっこみたいがそれもできないほど頬が熱くなり、うろたえてしまう。そんな成実を見ながら、蓮太郎はふんわりと微笑んだ。
「朧と喧嘩してるときの顔も、困ってるときの顔も可愛らしいですけど、やっぱり笑ってる顔が一番可愛い。泣いてる顔はもう見たくないです。僕の好きな成実さんは、ニコニコ笑ってるんです」
 東向きの成実の部屋には、朝陽がふんだんに入り込む。その中でそう言って微笑む蓮太郎の顔は、穏やかで特別な愛情を宿らせ成実に向けられた。久しぶりと感じずにはいられない白い狐のその笑顔に、成実は嬉しくて幸せで、赤い頬のまま、自分でも気付かぬうちに更に顔をほころばせていた。
 自然と笑みを交わすうちに、二人の間にあった重苦しい空気が、朝の光に溶け込んでいくのを、互いに感じた。

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