朧月夜に蓮華と愛
13. 知らなかったことを知らなかった。
頬が熱くて仕方ない。
ドキドキして背中を向けている蓮太郎の顔が見れなくて、でもこの空気がほんとにいたたまれないけどどうすればいいんだろう。と、ぐるぐるする思考を懸命に立て直して、成実はたっぷりと時間を置いて振り返った。
自分より背の高い蓮太郎の瞳に視線を上げて、それからぎこちなく笑う。
「なんか、朧が変なこと……言ってごめんね。えっと……別にやきもちとかじゃなくて、あの、誰なんだろうってすごく気になったのは、ほんとで……。それから、蓮太郎が撫子ちゃんの頭なでてる、の……すごく優しそうで、その……なんか、いいなって、思ったりして……あ、でも私の頭を撫でてとかそんなこと言ってるんじゃなくて。えっと、なんて言えばいいのかな……ごめんねワケわからないこと言って」
ますます頬は熱くなって考えと言葉が噛み合わなくて、成実の視線が頼りなく地面に落ちる。いい年していったい何をこんなに恥ずかしがっているのだろうと自分で滑稽に思えてこれも仕方ない。
一応二十歳をこえて、それなりに誰かと付き合ってきたこともある――――一応。でも蓮太郎のような相手は当たり前だが初めてで、どうしていいのか分からなくなってくる。綺麗な白銀の髪の毛と金色の瞳に耳と尻尾とかもうなんなのそれ! と、改めてツッコミたい気持ちだ。長い睫毛に囲まれた人外の色をした優しい瞳を、誰かに注いでいたのを見たのが初めてで、そんな風に誰かを見つめる蓮太郎を見ることが少し悲しかったのも、この混乱の理由かもしれない。
認めたくない気持ちが心の奥から息吹いてくる。温かくて甘いその感情を、成実は必死に押し隠した。
だって無駄だもの。そんな感情も忍び寄るから。
すっかり俯いて口をつぐんだそんな成実に、蓮太郎はふんわりと微笑して数歩離れていた距離を詰める。玉砂利が蓮太郎の歩みに音を立てそれに成実は気づくが、恥ずかしさのあまり目をぎゅっと閉じた。
「成実さん」
穏やかな呼びかけと共に成実の髪を優しく撫でる存在があった。柔らかく大きな掌が成実の髪を撫でてすいていく。その感覚に一瞬身体を強張らせた成実が、怖々と言った様子で顔を上げた。揺らめく視線がたどり着いたその先に、金色の滲むような優しさの瞳があった。
表情がなければ怖いほど整った蓮太郎なのに、今見せてくれている顔は子供のようにあどけなく、何の警戒もない信頼しきったものだ。
「僕でよければ、いくらでも頭撫でますよ」
「へ……?」
にこにこと笑う蓮太郎はほのぼの極まりない口調でそう言った。
    いやいやそんな意味で言ったんじゃなくてね。私そんなに頭撫でてほしそうだったのかな。そんなに子供みたいなこといったのかな。成実はドキドキする胸を落ち着かせながらも、蓮太郎の仕種に困惑する。
そんな成実に、蓮太郎は少しだけ悲しそうに言葉を続けた。
「撫子は、僕とは血のつながりはありません」
「え?」
「お父様が身寄りのなくなった撫子を自分の子供として迎えました。だから、血はつながってません。僕が小さい頃から面倒をみてきたこともあって、懐いてくれてるんですけど……さっきのことはまた僕から言っておきます。悪い子やないんで許してやってください」
「……うん」
あの蓮太郎と同じ色をした少女のこと思い出すと、なんとも言えない暗い気持ちになるのは間違いない。誰だって拒絶されることは嫌なのだから。朧は何てことないって顔してたけど、それでも思うところはあるだろう。
「朧は、強いね」
ぽろりと、そんな言葉が出ていた。蓮太郎は小さく頷いて視線を伏せる。
「ぼくなんかより、朧の方が上に立つべきやと思ってます。なんで僕なんやろうっていつも考えてしもうて……情けない話なんですけどね」
「……周りが反対してるんじゃないの?」
「……周り?」
会話がなんとなくかみ合わないのを感じて、成実の中で違和感が頭を擡げる。
朧が上に立てない理由は生い立ちが関係してると、サクラの説明からも理解できた。それをもしかして、蓮太郎は知らないのだろうか。
そう思うと、成実は言ってはいけないことを言ったと知る。しかし何を言っていいのか分からなくなってうまくごまかすことができない。視線を定めておけず、蓮太郎がまっすぐに見つめてくるのに耐え切れないように逸らした。
「成実さん、どういうことですか?」
「いや……あの。私……」
「何か知ってるんですか?」
真剣に問いかけるあまり、いつもより声が低められて表情も硬い。端整な顔の造りに成実が思わず息を呑んだ。何よりもその瞳に引き込まれそうになってしまいそうだ。
蓮太郎は成実の頭を撫でていた手をするりと下ろして、上着越しでもはっきりと分かるくらい、成実の肩を掴んだ。痛みすら感じそうになって、成実が知らぬ間に身体を強張らせる。
「朧のことで何か知ってるんですか? 周りが許さないてなんですか?」
あえてゆっくりと、蓮太郎は確認するように成実に問いかけた。しかし成実は言葉を押し出せない。サクラと朧からしか聞いたことがない、本当にうわべだけしか知らない自分が何を言えばいいんだろう。おさまり始めていた思考が再び混乱してくる。身を屈めるようにして覗き込んでくる蓮太郎に、しかし嘘をつくこともまた、成実にはできそうになかった。境内に二人きりの状況も、先ほどの恥ずかしいくらい高鳴っていた甘い鼓動も、すっかり影を潜めて気にならなくなった。緊張した面持ちで、成実は消え入りそうな声を唇から零した。
「朧は、人間と狐の間に生まれた子供だって……サクラさんから聞いたの」
「それは……知っています。でも朧はちゃんとした狐やと僕は思ってます」
「うん。それは、私も思う。でも周りがそれを許さないって、サクラさんが言ってた」
「許さないって、どういう風に?」
穏やかに聞いてくる蓮太郎の瞳の中に、苛立ちにも似た光が垣間見える。それは普段蓮太郎が見せるものではなく、禍々しさすら感じるくらいだ。しかしそれは成実に向けられているものではないことだけは感じ取ることができた。成実には分からない誰かに向けたその光を、成実はそれでもまっすぐ見返すことが辛い。
「朧が狐の中で上に立つことを、許してないって。それに朧は、隠されて……育ってきたって、聞いた」
「……隠されて?」
その言葉に蓮太郎の優しい形をした白銀の眉が揺れた。成実はその下にある瞳を懸命に見つめて、泣き出しそうに顔をゆがめた。
「私はそれ以上分からないの。でもサクラさんが言ってたから嘘ではないと思う。朧からは蓮太郎とは異母兄弟ってだけしか聞いてないし。あの……中途半端に、変なこといってごめんなさい」
声がつまりそうになって成実は手で口許を隠すようにして俯く。瞼を伏せたら滲み出した涙が零れそうで、それは我慢したが、結局は涙は瞼を乗り越えて零れてしまった。
言っちゃいけないことだと分かってれば言わなかったのに。何度もそんな分かりもしないことを考えて肩を落とす成実の前で、蓮太郎は呆然とした様子で唇を震わせて何かを呟いた。
蓮太郎の前に朧が現れたのは、既に蓮太郎が大人としての儀式を終えたときだった。突然自分の部屋に入ってきた黒い狐に驚いたことを、今でも覚えている。そして父からいきなり「お前の兄だ」と言われたときは気絶しそうなほどだった。
もともとおとなしく穏やかな蓮太郎とは違い、朧は出会ったときから今のままで、明るくて粗暴なくらい元気な印象はあるが、実はとても丁寧に仕事をこなす。蓮太郎なら仕えてくれているものたちに任せるようなことも、嫌な顔一つせず、逆に周りと溶け込んで笑顔でやってしまうくらいだった。
また蓮太郎は、小さいときから長男として育てられ、性格のおとなしさからそれが降り積もる雪のようにプレッシャーになっていた。自分ではこなせない大役が、いずれ自分の肩にかかる。それに息がつまるような気持ちだった。
その、他の誰かから見れば小さいかもし知れない重圧を、朧が半分引き受けてくれるかのように、蓮太郎の目の前に現れた。
「お前のことは俺が守ったる。だから頑張れ」
そう言って笑う朧の顔が、蓮太郎の脳裏から離れない。金色の瞳をうつろにして、成実が泣いているのも気付かないまま、蓮太郎はその場から動けないでいた。
いつも穏やかに笑みを浮かべるその唇が震えながら、風に解けてしまうほど小さく言葉を零す。
「朧のこと、僕……なんもしらへんかった……」
ドキドキして背中を向けている蓮太郎の顔が見れなくて、でもこの空気がほんとにいたたまれないけどどうすればいいんだろう。と、ぐるぐるする思考を懸命に立て直して、成実はたっぷりと時間を置いて振り返った。
自分より背の高い蓮太郎の瞳に視線を上げて、それからぎこちなく笑う。
「なんか、朧が変なこと……言ってごめんね。えっと……別にやきもちとかじゃなくて、あの、誰なんだろうってすごく気になったのは、ほんとで……。それから、蓮太郎が撫子ちゃんの頭なでてる、の……すごく優しそうで、その……なんか、いいなって、思ったりして……あ、でも私の頭を撫でてとかそんなこと言ってるんじゃなくて。えっと、なんて言えばいいのかな……ごめんねワケわからないこと言って」
ますます頬は熱くなって考えと言葉が噛み合わなくて、成実の視線が頼りなく地面に落ちる。いい年していったい何をこんなに恥ずかしがっているのだろうと自分で滑稽に思えてこれも仕方ない。
一応二十歳をこえて、それなりに誰かと付き合ってきたこともある――――一応。でも蓮太郎のような相手は当たり前だが初めてで、どうしていいのか分からなくなってくる。綺麗な白銀の髪の毛と金色の瞳に耳と尻尾とかもうなんなのそれ! と、改めてツッコミたい気持ちだ。長い睫毛に囲まれた人外の色をした優しい瞳を、誰かに注いでいたのを見たのが初めてで、そんな風に誰かを見つめる蓮太郎を見ることが少し悲しかったのも、この混乱の理由かもしれない。
認めたくない気持ちが心の奥から息吹いてくる。温かくて甘いその感情を、成実は必死に押し隠した。
だって無駄だもの。そんな感情も忍び寄るから。
すっかり俯いて口をつぐんだそんな成実に、蓮太郎はふんわりと微笑して数歩離れていた距離を詰める。玉砂利が蓮太郎の歩みに音を立てそれに成実は気づくが、恥ずかしさのあまり目をぎゅっと閉じた。
「成実さん」
穏やかな呼びかけと共に成実の髪を優しく撫でる存在があった。柔らかく大きな掌が成実の髪を撫でてすいていく。その感覚に一瞬身体を強張らせた成実が、怖々と言った様子で顔を上げた。揺らめく視線がたどり着いたその先に、金色の滲むような優しさの瞳があった。
表情がなければ怖いほど整った蓮太郎なのに、今見せてくれている顔は子供のようにあどけなく、何の警戒もない信頼しきったものだ。
「僕でよければ、いくらでも頭撫でますよ」
「へ……?」
にこにこと笑う蓮太郎はほのぼの極まりない口調でそう言った。
    いやいやそんな意味で言ったんじゃなくてね。私そんなに頭撫でてほしそうだったのかな。そんなに子供みたいなこといったのかな。成実はドキドキする胸を落ち着かせながらも、蓮太郎の仕種に困惑する。
そんな成実に、蓮太郎は少しだけ悲しそうに言葉を続けた。
「撫子は、僕とは血のつながりはありません」
「え?」
「お父様が身寄りのなくなった撫子を自分の子供として迎えました。だから、血はつながってません。僕が小さい頃から面倒をみてきたこともあって、懐いてくれてるんですけど……さっきのことはまた僕から言っておきます。悪い子やないんで許してやってください」
「……うん」
あの蓮太郎と同じ色をした少女のこと思い出すと、なんとも言えない暗い気持ちになるのは間違いない。誰だって拒絶されることは嫌なのだから。朧は何てことないって顔してたけど、それでも思うところはあるだろう。
「朧は、強いね」
ぽろりと、そんな言葉が出ていた。蓮太郎は小さく頷いて視線を伏せる。
「ぼくなんかより、朧の方が上に立つべきやと思ってます。なんで僕なんやろうっていつも考えてしもうて……情けない話なんですけどね」
「……周りが反対してるんじゃないの?」
「……周り?」
会話がなんとなくかみ合わないのを感じて、成実の中で違和感が頭を擡げる。
朧が上に立てない理由は生い立ちが関係してると、サクラの説明からも理解できた。それをもしかして、蓮太郎は知らないのだろうか。
そう思うと、成実は言ってはいけないことを言ったと知る。しかし何を言っていいのか分からなくなってうまくごまかすことができない。視線を定めておけず、蓮太郎がまっすぐに見つめてくるのに耐え切れないように逸らした。
「成実さん、どういうことですか?」
「いや……あの。私……」
「何か知ってるんですか?」
真剣に問いかけるあまり、いつもより声が低められて表情も硬い。端整な顔の造りに成実が思わず息を呑んだ。何よりもその瞳に引き込まれそうになってしまいそうだ。
蓮太郎は成実の頭を撫でていた手をするりと下ろして、上着越しでもはっきりと分かるくらい、成実の肩を掴んだ。痛みすら感じそうになって、成実が知らぬ間に身体を強張らせる。
「朧のことで何か知ってるんですか? 周りが許さないてなんですか?」
あえてゆっくりと、蓮太郎は確認するように成実に問いかけた。しかし成実は言葉を押し出せない。サクラと朧からしか聞いたことがない、本当にうわべだけしか知らない自分が何を言えばいいんだろう。おさまり始めていた思考が再び混乱してくる。身を屈めるようにして覗き込んでくる蓮太郎に、しかし嘘をつくこともまた、成実にはできそうになかった。境内に二人きりの状況も、先ほどの恥ずかしいくらい高鳴っていた甘い鼓動も、すっかり影を潜めて気にならなくなった。緊張した面持ちで、成実は消え入りそうな声を唇から零した。
「朧は、人間と狐の間に生まれた子供だって……サクラさんから聞いたの」
「それは……知っています。でも朧はちゃんとした狐やと僕は思ってます」
「うん。それは、私も思う。でも周りがそれを許さないって、サクラさんが言ってた」
「許さないって、どういう風に?」
穏やかに聞いてくる蓮太郎の瞳の中に、苛立ちにも似た光が垣間見える。それは普段蓮太郎が見せるものではなく、禍々しさすら感じるくらいだ。しかしそれは成実に向けられているものではないことだけは感じ取ることができた。成実には分からない誰かに向けたその光を、成実はそれでもまっすぐ見返すことが辛い。
「朧が狐の中で上に立つことを、許してないって。それに朧は、隠されて……育ってきたって、聞いた」
「……隠されて?」
その言葉に蓮太郎の優しい形をした白銀の眉が揺れた。成実はその下にある瞳を懸命に見つめて、泣き出しそうに顔をゆがめた。
「私はそれ以上分からないの。でもサクラさんが言ってたから嘘ではないと思う。朧からは蓮太郎とは異母兄弟ってだけしか聞いてないし。あの……中途半端に、変なこといってごめんなさい」
声がつまりそうになって成実は手で口許を隠すようにして俯く。瞼を伏せたら滲み出した涙が零れそうで、それは我慢したが、結局は涙は瞼を乗り越えて零れてしまった。
言っちゃいけないことだと分かってれば言わなかったのに。何度もそんな分かりもしないことを考えて肩を落とす成実の前で、蓮太郎は呆然とした様子で唇を震わせて何かを呟いた。
蓮太郎の前に朧が現れたのは、既に蓮太郎が大人としての儀式を終えたときだった。突然自分の部屋に入ってきた黒い狐に驚いたことを、今でも覚えている。そして父からいきなり「お前の兄だ」と言われたときは気絶しそうなほどだった。
もともとおとなしく穏やかな蓮太郎とは違い、朧は出会ったときから今のままで、明るくて粗暴なくらい元気な印象はあるが、実はとても丁寧に仕事をこなす。蓮太郎なら仕えてくれているものたちに任せるようなことも、嫌な顔一つせず、逆に周りと溶け込んで笑顔でやってしまうくらいだった。
また蓮太郎は、小さいときから長男として育てられ、性格のおとなしさからそれが降り積もる雪のようにプレッシャーになっていた。自分ではこなせない大役が、いずれ自分の肩にかかる。それに息がつまるような気持ちだった。
その、他の誰かから見れば小さいかもし知れない重圧を、朧が半分引き受けてくれるかのように、蓮太郎の目の前に現れた。
「お前のことは俺が守ったる。だから頑張れ」
そう言って笑う朧の顔が、蓮太郎の脳裏から離れない。金色の瞳をうつろにして、成実が泣いているのも気付かないまま、蓮太郎はその場から動けないでいた。
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