朧月夜に蓮華と愛

7.気づいたものと気づかなかったもの。

 ふわふわした気持ちの良いものに包まれて、成実は目を覚ました。
 最初に目に映ったのは、木目の優しい天井。それから淡く光った蝋燭の炎。
「どこ?」
 目をぱちぱちと瞬かせて寝転んだまま、ぐるりと視線を巡らせた成実は少し身体がだるかったが、なんとか起き上がった。
「うわ……豪華なおふとん」
 視線を落として見たのは自分が寝ていた蒲団。それは白地に様々な色の花の刺繍が施されたふんわりとして、いかにも手の込んだものだった。何もかけていないのかと思うほど軽く、しかしふっくらとしたそれを手で触りながら、もう一度周りを確認する。
 どこかの一室のようだった。それほど広くはないが狭くもなく。成実が普段見ている和室に比べれば明らかに贅沢な造りのその部屋の中は、家具らしい家具もなく、成実が寝ていた蒲団と、なにやら御前が置いてある。
 艶のある漆塗りのような黒いお膳には、何かの飲み物が置いてある。硝子のような透明度のある入れ物に入っているのは薄桃色の液体。そして先ほどまで誰かいたのだろうか、杯が一つ。それには同じ薄桃色の液体が入っており、そこから驚くほど芳醇な花のような香りが漂ってきていた。
「いいにおい」
 思わず成実が言いながら、蒲団から出てその液体を覗き込んだ。全く濁りのない液体は中に何かの粒子でも入っているのかと思うほどキラキラと蝋燭の明かりを弾くように表面を漂わせて、まるで魅了するように香りも放つ。見ているだけでも綺麗なのだが、あまりの美しさと香りに一体どんな味わいなのだろうかと、成実の中で飲んでみたい気持ちが一気に大きくなってしまう。
 なんだかむずむずとその思いが膨らんで止まらなくなってくる。元々喉が渇いていたせいもあるのかもしれないが、気付くと成実は硝子のような入れ物を持ってもう少しだけ足すように杯に注いでいた。
「私が飲んでも……大丈夫だよね?」
 両の手で杯を持って改めて薄桃色の見つめてみると、花のような香りがふわりとまた湧き上がる。鼻先を掠めるその香りがなんともまぁいい香りで、無意識に成実が大きく香りを吸い込んだ。そしてそのまま少し怖い感じもしたので、杯を傾けて唇につくくらいのわずかな量で確かめてみた。
「あま……美味しい」
 花の香りと共に蕩けるような甘さが伝わり、成実の目が見張られた。しつこさのないその甘さが成実の好みでもあったため、くいっと杯を気前良く傾けて一気に飲み干す。
「うわぁー。これほんと美味しいっ」
 喉を通っていく感覚が甘いのに爽快で、更に潤っていく様子がはっきりと分かり、驚いた成実が思わず大きな声でそんなことを言って微笑んだ。喉が渇いていたこととあまりにも美味しかった味わいですっかり上機嫌になってしまった成実が、そのまま二杯三杯と杯を開ける。
 しかしそれは元々は狐たちの嗜む「酒」である。しかも元々アルコールに強いわけでもない成実なので、飲んだ分だけ酔いは確実に急速に回る。四杯目を口にしたとき、それが急激に成実を襲った。
「あれ……?」
 くらりと視界が揺れたと思ったら、成実は畳の上にぱったりと倒れこんでしまっていた。空になっていた杯が、これまたころんと畳の上に転がった。
「なんか……ぐるぐるする」
 自分の目に写るもの全てが水の中から覗いているような浮遊感のあるものに見えて、そしてその全てに視点が定まらない。ふわふわとした妙に気持ちのいい感覚ばかりが成実の中を漂い、そしてそれがとても面白く感じて、気付けば誰もいない部屋の中で成実はケラケラと笑い出していた。
「なにこれー。楽しー」
 一度笑ってしまうと自分の意思では止められないくらいおかしくて、腹を抱えて成実は笑い転げる。見るもの全てが日本であって日本でないようなこの部屋の中も、先ほどまで見てきた庭園も花畑も、酔っ払ってしまった成実には、何もかもが不思議で楽しく思えた。
 そんな酔っ払いが一人で笑い続けしばらく時間がたったころ、成実が背を向けていた格子の引き戸が音もなく開いた。
「成実さん……?」
 静かな手つきでその引き戸を開いた白い狐、蓮太郎がひょこっと顔を出して覗き込んだのだが、しかしその場で立ち尽くし、部屋の中で笑い転げている成実を見て金色の瞳をぱちぱちとさせて固まった。
 蒲団に寝ているはずだった成実が部屋の隅のほうでうずくまり、ケラケラと笑っていればそれも仕方のないことではあるのだが、きょとんとしたまま見つめている蓮太郎が、それを理解するには少しだけ時間を要した。そんな蓮太郎に気付いた成実が楽しそうに笑いながら声をかけた。
「あー、れんたろーじゃないのー」
 呂律の回っていない、かつご機嫌な声音と表情で成実は四つんばいのまま蓮太郎の立っている方へとずりずり移動し始める。だが支えている両腕でさえ力が入らないのか、ふらりと前のめりにこけそうになって、蓮太郎が慌てて近づき細い成実の肩を支えた。
「大丈夫ですか。成実さん」
 おろおろしているのが見て取れる蓮太郎の心配そうな顔が成実を覗きこむ。長い睫毛の下の金色の瞳を至近距離で見た成実がじいいぃぃっと見返し、ふんわりと幼子のように微笑んだ。特別突出して美人というわけではない成実だが、その笑顔があまりにも無邪気で可愛らしく、蓮太郎はわずかに目を見張った。
 一瞬二人の間に沈黙ができ、成実は桃色の不思議な飲み物のせいで頬が赤かったが、蓮太郎の白い頬にほんのりと朱が上ったとき、二人の後ろにある引き戸が更に大きく開けられて、驚いたような声が聞こえた。
「れ、蓮太郎様……!? 何をしておいでですか!?」
「え?」
 幼く可愛らしい声が鼓膜を打ち、蓮太郎がハッと我に返り振り向くと、そこには子狐が並んでいた。皆同じ顔で同じ白い装束を着ている。五人、いや五匹とでも言おうか。
 それを蓮太郎越しに視界に入れた成実が、ぽかんをした顔で並んでいる子狐たちを見た後、またケラケラと笑い始めた。
「なにこれ、楓がいっぱいー」
 蓮太郎に縋りつくようにして身を起こした成実が笑いながら数を数えたりしてまた笑う。一方笑われた方の、一体何のことを言われているか分からない四人が、唯一分かっている楓に視線を送る。楓は小さくため息をついて眉根を心配そうに寄せながら、成実に向かって口を開いた。
「成実さん。僕は五つ子なんです」
「いつつご? だからそんなかえでがいっぱいなの?」
「いえ、僕がいっぱいではなくて……こっちから順番に桔梗ききょうひのき菖蒲あやめ銀杏いちょうになります」
 名前を呼ばれた狐たちがそれぞれ丁寧に頭を下げると、成実がそれを酒のせいで蕩けた視線で確認していき、
「よろしくねぇ」
 と、能天気に挨拶をした。蓮太郎は成実を支えたまま畳に膝をついた状態でそれを見ていたが、部屋の中に置かれたご膳を見ると成実の今の状況を理解した。
「成実さん、あれ、飲んだんですか?」
「へ? あれって?」
「桃色の、あれです」
 いまやすっかり量の減った狐たちの「酒」を指差して言う蓮太郎に、振り返った成実が素直にうんと頷いた。
「美味しかったよー。あれなぁに?」
 桜色の頬で上機嫌な成実の言葉に、蓮太郎が大きなため息をついた。
「あれは、御神酒です。サクラさんが好きで、まぁ僕たちも飲みますけど……人間が飲んだのは初めてですよ。大丈夫ですか?」
 アヤカシの存在の嗜むものをまさか成実が飲むとも思えず少しだけ部屋を離れた蓮太郎が、またやらかしてしまったという思いでうなだれるが、そんなことは全く分からない成実が首を傾げて蓮太郎を見た。
 もともと成実がこちらの世界に合わず意識を失ってしまってこの部屋で寝かされている間、蓮太郎が付き添いとして一緒にいたのであるが、その際に蓮太郎が喉を潤すためにあの薄桃色の「酒」を飲んでいたのである。しかし楓たちに呼ばれてほんの少しだけ部屋を空けた隙に成実が目を覚まし、そしてその酒を見つけて飲んでしまったのがいきさつでだった。
   それをやっと理解したこの屋敷の主である蓮太郎が困ったような顔で成実を見つめ、世話係の楓たち五つ子もどうしたものかと入り口で立ち尽くしていると、またもや誰かが顔を覗かせた。
「なんやみんなしてこんなとこに立って……成実元気になったんか?」
 五つ子たちの後ろから顔を見せた朧が、部屋の中で半ば抱き合うような格好で向かい合っている蓮太郎と成実を見て赤い瞳を丸くした。
「なにしてん……お前ら」
「え? あ、いや、な、何にもしてませんよっ」
「いやいや、その格好明らかにおかしいやん。しかも成実顔赤いし。やらしいことしようとしてたんか?」
「は!? あほなこと言わんといて下さいっ」
 朧にニヤニヤと笑われて蓮太郎が真っ赤になって反論した。成実の肩を抱いていたが、恥ずかしさのあまりぱっと手を離した狐が行き先を失ったように視線を泳がせて手をひらひらとさせた。
「まぁなんでもええけどやな。楓らにはまだ早いから、そんなことするんやったらここ閉めや」
「だから何にもしませんて!!」
 朧のからかいなのは分かっていても、まじめな蓮太郎がますます赤くなってうろたえるのを、不思議そうな顔で見上げていた成実が、とろんとした瞳の上に瞼が降りるのを止められないようにふらりと身体を傾けた。蓮太郎の白い装束の袖を掴み、しかし何も抵抗できずに凭れかかる。
「成実さん!?」
「成実?」
 蓮太郎と朧が同時に声を出し、甚平姿の黒い狐が小さな楓たちをひょいっとまたいで部屋の中に入る。蓮太郎は凭れかかってきた成実を抱き締めるような格好で受け止めて慌てふためいた。
「大丈夫ですか。やっぱりこっちのお酒は合わんかったんでしょうか」
「……酒?」
 蓮太郎が独り言のように零した言葉に朧の大きな黒い耳が反応して、視線を先にある御膳に向ける。そこにある薄桃色の酒を見て、全て合点がいったと言わんばかりに盛大なため息を零した。
「こいつほんまあほか。てか蓮太郎もなんであんなもん置いたまま部屋空けてんねん」
「す、すんません。ほんの少しの間やと思ってたし、まさか成実さん起きるやなんて……しかも飲むやなんて思いもせんかったし」
 泣きそうな顔でぶつぶつ言っている蓮太郎が、それでも大事そうに成実を抱えるように受け止めている。朧はしばらくその様子を呆れ返った顔で眺めていたが、やがて小さく笑って成実の肩をとんとんと叩いた。
「飲んでしもたもんしゃーないやん。酔いさめるまでまたここで寝てもらってたらええんちゃうか。おい、成実?」
 大きな手で肩を叩かれた成実だが、意識はますます深く落ちていっているようで、瞼を震わせただけで起きる気配はない。朧がそんな成実を見て意地悪げに楽しげに微笑んで蒲団に寝かせようと思い、慌ててばかりで役に立たない蓮太郎の代わりに成実を抱きかかえようとした。
「……て、おい」
「え? あ……」
 力のある朧なら、成実を抱えることなんて造作もないのであるが、成実の身体が何かに引っかかっているように持ち上がりにくい。ふと赤い瞳を下にしてみると、成実の細い手が蓮太郎の装束を離さないとでも言いたげにきゅっと握ったままだった。
 そして成実の口がわずかに開き、小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの言葉を零した。
「……れんたろう……」
 それは蓮太郎にはいまひとつ聞き取れず、距離的に顔が近かった朧には聞こえるほどの声だった。
 それを聞いた朧の赤い瞳がふと見張られて、その後成実が見たら驚くのではないかというほど、優しげに笑みの形をとった。

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