煌く夢に神の抱擁

7.

 一筋の明かりもない暗闇の中に、ふわりと漆黒のローブをたゆたわせてアンリは現れた。
 闇そのものにまぎれてしまえるような、黒いそれに包まれた華奢な体は勿論見えない。目深にかぶったフードからわずかに見えるのは黒に近い青の髪と、青みを帯びるほどに白い肌。伏せている長い睫毛を持ち上げれば、そこには闇の中に燦然と輝く、宝石と見紛うばかりの青紫の瞳があった。
 ここは劇場の舞台の上。深夜になりすっかり賑わいをなくした場所なので、勿論誰もいないし明かりなんてものもない。入り口はすっかり施錠されてしまっている。
 しかしアンリには人間の作った鍵なんてものは関係ないので、気まぐれな冷たい風を連れ立って入り込んできた。
 死神の目は、光を必要としないくらいに良く見える。ぐるりと周りを見渡して、そして一箇所に輝く瞳が縫いとめられた。
 整った眉間に苦しそうに皺を刻んだアンリの眼差しが、瞬くことも忘れて見入っているのは、舞台袖に続く場所。
 そこに立っている。金色の髪の愛らしい女の子が。
 俯いてしまっているので、アンリからは表情が見えない。長くて癖のない、太陽のように鮮やかな色をしたその髪の毛は、わずかな劇場の照明でも十分に美しく輝いた。
 それならば、きっと。
 大きなたくさんの照明でなら、もっと。
 輝いたはず。
 伸びやかな声も、本来の声量と響きと情感を取り戻したなら、誰もが心を奪われずにはいられなかったはずだ。
 愛らしい瞳が、もっと笑顔を湛えて、拍手を受けて、そして夢を叶えることができたはずだった。
 アンリは静かにその佇んでいる姿に近づき、そして長身の身体を折り曲げるようにして、俯いてる顔を覗き込んだ。
「アディー……?」
「…………」
 できるだけ前と同じように声をかけたアンリだが、わずかに声が震えた気がした。しかし、アディーは顔をあげることはない。金色の髪の間から見えるアディーの顔は青白く、暗闇をじっと身体の内側に持っている。どろどろとした負の感情しかないその眼差しがじっと自分の足先を見ているのか下にあり、しかしそれがどこを見ているのかも分からないくらいに、混濁しているようにも見えた。
 あれだけ愛らしかった容貌がやつれてしまい見る影もないことに、アンリが小さく息を呑んだ。人の死に際などたくさん見てきたアンリであるが、それでもこれだけ痛々しい姿を見ることにはいつまでたっても慣れない。
 しかもアディーは自ら命を絶った。それがアンリには悲しい。
 自ら命を絶ったものは常世へと行く権利を奪われる。どれだけ悲しく辛いことがあったとしても、死んだ方がましだと思える運命であっても、神は「自殺」を認めない。与えられた命を自ら放棄することは何よりも大罪であるからだった。
 だから、これだけはいくら高位のアンリでもどうにもしてやれない。この清らかな魂を自分の手で白くて無垢な世界へは連れて行ってやれない。
「アディー……ごめんね」
 震える声でそう言ったアンリの言葉に、やはりアディーは顔を上げない。微動だにしない小柄な身体を、アンリはただ見ているだけしかできなかった。
 本当は触れて思い切り抱きしめてあげたい。でも今のアディーは魂で、しかもよっぽど傷ついていたのだろう、核が丸見えになってしまっているくらいに脆かった。触れてしまうだけで壊れそうなほどに脆くて頼りないその存在を、アンリは黙ってみるしかできなくて、そしてそれが悲しかった。魂自身の決壊は、今この手でアディーを壊すことにも直結してしまう。さすがにアンリもそれはしたくないし、してはいけないことだった。
 端整な顔立ちをした死神の宝石の瞳が潤みを増して、視界が歪んだ。
 はたり、と青白い頬を零れた雫が黒衣に落ちて染み込んでいく。それは間隔をおかずにはたりはたりと落ちていく。白い頬に静かに流れる雫は、それ以上何も話すことができないアンリの心情を何よりも表すものだった。
 どれだけ時間がたったのか、アディーの身体がわずかに震えた気がして、アンリがまた俯いている顔を覗き込もうと身を屈めた。
「あ……」
 アンリの青紫の瞳が思わずのように見開かれて、アディーに注がれる。
 アディーの本来愛らしい瞳にも、涙が浮かんでいた。くすんだ硝子玉のような色をした生気のない瞳ではあるが、そこから流れ落ちる涙が、次々に長い睫毛を伝ってぱたぱたと床に落ちていく。
 無表情で泣いているアディーは壊れた人形のように雫だけを落とし、しかし同時に、わずかに唇が動いているのにアンリが気付いた。
「ん? 何話してるの?」
 聞き取れない言葉に、アンリが耳をアディーの顔に近づけた。本当に聞こえるか聞こえない程度のその声が、言葉ではなく音を紡いでいることに、しばらくして死神がようやく気付いた。
「歌ってるの……?」
 まるで意思のないその顔、生気のない瞳、金色の髪で隠された口元から小さく流れ出すその音に、アンリの瞳が一層潤んだ。
 声を出さずに何とか泣くのをこらえようとしていたアンリだが、そのうちそれもできなくなって、小さく嗚咽を漏らした。
 この子だけでなくて、きっと世の中には夢を持って頑張っている人間がたくさんいる。その中で本当にその夢を実現できるものが何人いるだろう。
 死神のらしくないほどの優しい眼差しが涙に歪みながら、穏やかさと哀れみと親愛を持ってアディーに止められる。
 そして、ふと思いついたように、アンリがあどけない笑顔を浮かべた。
「ね、僕も歌って良い?」
 今アディーが口ずさんでいる歌は、初めてこの劇場でこの子の歌声を聴いたときの歌だった。アンリが一息大きく吐き出した後、まっすぐにアディーを見つめたまま、綺麗な形の唇から旋律を零した。
 最初は小さな声で口ずさむと言った様子のアンリだったが、そのうちその声が伸びやかさを持ち劇場内に響きだした。
 人外のアンリの音階は際限のないように伸び、性別不明なほどに魅惑的な声だった。ファルセットでは女性らしい艶やかさと清らかさを持ち、低音の声では普段ののほほんとした死神からは想像もつかないほどに落ち着いた男性的な声を披露した。
 身体全体を楽器のようにして声を響かせて、アディーの歌声に合わせるようにテンポを保ちリズムを取る。華奢な身体から放たれるその声は天界にまで届くかと思うほど美しい旋律を奏でて、やがて歌い終わった。
 歌い終わったアンリが長い睫毛を伏せていた瞳を開くと、そこには顔を上げたアディーの姿があった。
「アディー?」
 変わらず生気のない顔つきではあるが、それでもしっかりとアンリに向かって視線を止めている。それに無性にアンリは嬉しさを感じた。
「僕が歌うなんてめったにないんだからね? 感謝してよね」
 冗談っぽくアンリが言って、美貌を掠めさせるくらいに無邪気に微笑んだ。しかしその瞳にはまだ涙の名残がある。
「本当ですね」
 そんなアンリに抑揚のない神経質そうな声が聞こえた。振り返ると白いローブを着たユリがいつの間にか立っている。闇の中にふわりと浮かんだ白いそれを緩やかに翻して、ユリはアンリのそばに近づいた。
「あなたの歌声、久しぶりに聴きました」
「だよね……だって最近歌ってないもん」
「相変わらず良い声をしてますね」
「どうせほめてくれるなら、もっと言い方考えてくれない? 辛気臭いよ?」
 淡々と言ったユリに対してアンリがぷーっと頬を膨らませた。それにユリが小さく笑いを零す。
「歌ってるあなたは素敵ですね。これは本当に思っていますから信じてください」
「別に疑ってるわけじゃないけど……」
「それにあなたは本当に優しいです。やはり死神なんて止めて他の神にでもなればいかがですか?」
 以前と同じことを言って、ユリがからかうようにアンリを見つめた。しかしその深い色を湛えた藍色の瞳の奥底には優しさも含まれている。アンリは少しだけ考えた後、にっこりと笑った。
「僕はこれで良いんだよ。死神なんて最初はどうでもよかったけど、今は好きなの」
 そのまま視線を流してアディーを見る。アディーは顔をアンリに向けてはいるが、感情のまったくない様子はそのままで、ぼんやりとした瞳が悲しげに見えた。
 アンリが何度か大きくため息をついてアディーを見つめていたが、これ以上どうすることもできないことは身に染みて理解している。切なげに眉根を寄せた死神がやわらかい手つきでアディーの滑らかな髪の毛を一つ撫でた。
「ごめん、僕はこれ以上何もしてあげられない」
 また声が震えてしまう、涙は何とか我慢することができたが、アンリの声が子供のように震えていることは、白い死神にも容易に理解できた。
 そのアンリを見つめながらユリが長めの前髪の間から澄んだ色の瞳をほんの少しだけ穏やかに細めた。
「黙っていて差し上げますから」
「……へ?」
「黙っていて差し上げますから、連れて行ってあげてください」
 何を言われたか分からなかった。連れて行く? どこに?
 間抜けな表情のまま自分を見つめているアンリを、ユリは穏やかに笑みを湛えて見返した。そして白いローブを翻して背を向ける。
「あなたに出会えたことは、この子にとって一番の幸せなのかもしれません。その幸せをここで終わらせるのは忍びないので、常世へと連れて行ってあげてください」
 自殺した魂は、常世へと行く権利がない。
 それは勿論ユリだって理解していることだった。しかしこの神経質そうなまじめな死神は、アンリの心を感じ取り、決して許されることのない行為を黙認しようとしている。まさかユリがこんなことを言うなんて思いもしなかったアンリの瞳が信じられないものを見たように見開かれた。
 白く穏やかな光を纏いながら姿を掠めさせたユリがふと振り返り、少し意地悪げにアンリへと視線を投げかける。
「このことが最高神に知られたときは、あなたに脅されたって言いますからね。責任は取ってください」
 そしてやわらかく子供のように微笑んでふんわりと完全に姿を消した。
 残されたアンリはしばらくの間呆然としたように立っていたが、やがてあどけなく微笑んだ。
「ありがとね、ユリ」
 邪気のない笑顔のユリを思い出して、アンリの胸がほんのりと温かみを帯びる。それから改めてアディーに向き直り、更に穏やかに目許を細めて、きゅっと、そっと抱きしめた。
「じゃあ、いこっか」
 腕を解くと、魂の開放を意味する言葉を紡ぐ。
 自身の持っている死神の鎌で、魂を救い上げるための言葉を大切そうに紡ぎながら、アンリの顔はニコニコと綻ぶままに笑っていた。
 煌く夢を持った若き人間の魂に抱擁を与える言葉は、静かな劇場の中に優しく溶けていった。


 了

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