煌く夢に神の抱擁

5.

 それは、漏電がきっかけだった。
 古い劇場の建ち並ぶ一角で、小さな火花がきっかけの火は瞬く間に大きくなり、その建物を飲み込んだ。ひしめき合うようにして並んでいる劇場やレストランなどの施設が次々に炎の中に取り込まれて、まるで生き物のように赤い熱を持った化け物に変わる。
 人々は逃げ惑い、そして消火は難航した。
 決して広くはない通りの小さな劇場から吹き上がった炎に、消防車は入り込めず、人の手によって何とか火を消そうと足掻いてるが、賑わいが一番大きくなる時間帯の火事は、あざ笑うかのように大きく大きくなっていく。辺り一帯に叫び声や怒号に近い声が溢れ、避難を誘導する人たちの声がかき消されていく。
 煙がいくつも上る夜空を、アンリは空に身を漂わせて黙って眺めていた。透き通る宝石の瞳に浮かび上がる紅蓮の炎が様々なものを焼き尽くし、そのおぞましいほどの匂いが高い鼻梁を掠めていく。普段あどけないほどの表情を浮かべているアンリの顔には、何の感情も読めない仮面が張り付いていた。
 死神の仕事は「その日死に行く魂の回収」。
 それがアンリの仕事であり死神のできるただ一つの仕事である。どんなときも、どんな綺麗な魂も穢れた魂も、それを器となる身体から切り離して回収するときには、自分が持てる最大の慈愛を持ってあたる。それくらいしかできないのだから。
 しかし、何の罪もない人間が苦しみ、無常にもこの世から切り離されることは、アンリとて楽しいはずもない。争いや不慮の事故などのときは、いつも思う。
 せめて常世へと導くことが癒しになれば。
 自身は永く、気の狂いそうな時間を持つ神。決して人間のことを理解できるはずもないのだが、それでも、何とかしてその心に寄り添える立場でいたいと、青い死神が心を痛めた。
「こんなところにいたのですか」 
 漆黒のローブがふわりと風に踊ったとき、背後から抑揚のない声が聞こえた。それに振り返ることなく、アンリがのんきな声で言葉を返した。
「ん? まぁね。僕は監視するだけの立場だしね。下に降りていく必要なんてないもの」
 振り向かずに答えたアンリのすぐ横に、雪のように白いローブを着たユリが並ぶ。真紅の鎌を手にした死神が、藍色の瞳にアンリと同じように燃え盛る炎を映しながら。
「立場、と仰るわりには……苦しそうな顔をなさっていますね」
 ちらりとその瞳を動かし、ユリはアンリの端整な横顔を見つめた。二人の眼下に広がる光景は先ほどからますます勢いを増した炎で街の1/3ほどが被害を受けているようだ。
 ひしめき合う建物と狭い通りばかりの一角から出た炎が、水を得た魚のように街を飲み込んでいく様子を二人は黙って見下ろしている。アンリとユリ以外の死神がそこかしこに出現し、息絶えた人間から魂を回収している様子まで、それぞれに煌く瞳に映し出された。
「それにしても、何人回収するの?」
 アンリがふと、ユリに問いかけた。
「何人って……ご存知ないのですか?」
「うん。あんまり興味なかったから。人数までは把握してない」
 のんびりとした口調で言ったアンリに、ユリが思わず眉根を寄せた。何かにつけてあまり興味のない自由なアンリの性格を思えばこれも当たり前なのだろうが、生真面目なユリにはそれこそ理解できないことだった。眉間の皺を隠そうともしないままにユリが大きくため息をついた。
「まぁ、ここは私の管轄なので、あなたはそこまで知らなくても良いのかもしれませんが……ざっと250ほどです」
「そんなに? 大変だねぇ。そりゃ応援もいるよね」
 驚いた顔でユリを見たアンリだが、その顔はあくまでも飄々としてのんきなものだった。しかし瞳の中には愛情と悲哀を湛えているのも、ユリには理解できた。
 自由気ままな死神はやる気はあまり感じられないにしても、その中にやはり人間と言う存在に対する底知れない親しみの感情と愛情を持っている。ふとしたことでそれを感じることができるユリは、気まぐれなこのアンリという自分よりも位の高い神を信用し、そして認めていた。
 一向に衰えることを知らない炎を青紫の瞳に映し出しながら、アンリはふと不安に駆られる。
「アディーは……無事なのかな」
 死亡リストに名前のなかったことは確認していたが、怪我をしないとは言い切れないことに、今更ながら気付いた死神がユリに視線を流した。それに、ユリは白く整った顔に殆ど表情を浮かべることなく口を開いた。
「怪我などの被害については、私の方では確認できません。しかし、死亡者の中にアディーの名前はありませんでした。……ですが」
 そこで言葉を切ったユリに、アンリの眼差しがやや不安を持って注がれる。
「何?」
「アディーと言う名前は、本名なのですか?」
「……え?」
「ニックネーム、と言うこともあるでしょう?あなたも、本来はアンリ・オーレリアンという名前ではありませんか」
 言われたことに、アンリの元々青白い顔色から一層色が失われた。
 確かにそうだ。何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
 心の中に真っ黒な不安が一気に広がり、鎌を握る手がふるふると震え始めるのを、アンリはこらえることができなかった。
「知らない……」
「はい?」
 消え入りそうな声で呟いたアンリの言葉を聞き取ることができなかったユリが、その白い顔を怪訝な表情に変えた。しかしそれにアンリは答えず、気付くと闇夜のローブを翻していた。
「どこに行くのですか」
「アディーのとこに決まってるでしょ!?」
 ユリが珍しく声を大きくアンリを止めるが、アンリはそれにかまわず燃え盛る地上に降りようとした。しかしユリがアンリの漆黒のローブの袖を掴み止めた。
「アディーの本当の名前知らないんだもんッ。もしかしたらアディーも巻き添えになってるかも知れないじゃないさッ」
 振り返りざまにアンリがユリを睨みつけた。いつものほほんとしたその宝石の瞳がユリの中にまで切り刻もうとするかのように鋭い光を持っていた。
「だからといって私がそうですかとあなたをそのまま行かせるとでもお思いですか。こんなこと許されるはずがありません」
「僕が独断でするんだからユリにはなんにも関係ないじゃない。フロルに怒られるのは僕だけだってばッ」
 死神が人間の死に介入することはいかなる理由があっても許されることではない。それはアンリも良く分かっているし、そんなことをしてはアンリの上にいる神、すなわち最高神フロルからどんな処罰を受けるかも分からなかった。 
 しかし、今のアンリはそこまで考えが及ばないほどに心をかき乱されていた。あの愛らしい人間の女の子に何かあれば、それはアンリにとっても悲しいことであるし、夢を持って頑張っていたアディーの涙も希望も歌声も、失うにはあまりにも惜しかった。どうしてここまでその人間が気になるのかなんてアンリ自身も良く分かっていないが、とにかく何もできないままなのが嫌だった。
 しばらくユリと出口のない言い争いを続けたアンリだが、もっともなことを言っているユリに次第に苛立ちを隠せなくなってしまい、持っていた鎌をぐっと握り締め、そのままユリに向かって薙ぎ払った。
 薔薇の蔦の絡みつくアンリの鎌が空気を裂き、銀色の鈍い光を纏いながらユリに向けられる。一瞬大きく目を見張った白いローブの死神がそれを翻して後ろへと後退した。刃から逃れる際にローブの裾のあたりにアンリの鎌が触れ、音もなく白い生地を切り裂いた。
「僕の邪魔をするな!!」
 短く言い放ったアンリの瞳が、闇夜の中に輝きを持ち浮かび上がった。長い睫毛に囲まれたアンリのそれがまっすぐにユリを見据え、陰惨な光と闇を持って厳しい色を滲ませた。
 いつもより低められたその声と、初めて見るその眼差しにユリの瞳が信じられないものを見たようにアンリに縫いとめられる。
「この責任は僕が取る」
 またアンリが短く言葉を継ぎ、そのままユリに背を向けた。言い争っている間に肩に落ちたフードをほっそりとした手で頭を隠すようにかぶり直して、少しだけユリを振り返り、いつものあどけない笑顔を浮かべた。
「ごめんね。ローブ切っちゃって」
 それだけ言うと、アンリが自身の姿を瞬きの間に掠めさせて、やがて輪郭もなくなりユリの前から姿を消した。
 一人残されたユリが、全身強張っていた身体から力を抜くように、大きく深く息を吐き出した。消えたアンリの眼差しを思い出して、藍色の瞳を揺らめかせながらこめかみに長い指を添えて軽く頭を振った。
「あなたと言う人は……何でもかんでも思うままに動けば良いというものではありませんよ」
 そう呟いた瞳には、どこか楽しそうな、そしてうらやましいといった感情も滲ませていた。
 足元に広がる炎は依然として勢いを保ち、多くの人間の命を危険に晒していた。

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