煌く夢に神の抱擁

3.

「あなたは……馬鹿なのですか?」
 夜。いきなり現れた白い神に、開口一番アンリはそんなことを言われてキョトンとした。
「いきなりなんなの?」
 ぷうっと頬を膨らませてアンリが白い神、ユリを睨みつけるが、その顔つきののんきさから怖さはまったくない。むしろ腑抜けた感じすらすると、ユリはひそかに考えてしまっていた。
「人間に姿をさらすだなんて、気でもふれましたか」
「そんな言い方しなくても良いじゃないさ。それに、別に悪いことじゃないでしょ?」
 確かに人間に姿を見られても罰則なんかはないし、それによって何かが変わってしまうこともない。どうにも厄介になれば、関わったことに対する記憶をその人間から消してしまえば良いことだった。そもそもどれくらいの人間が死神を見たということを信じるだろうか。と、アンリはそれくらい軽く考えていた。
 そしてアディーに姿を見せたのは、本当に何も考えていなかっただけなのだということは、この目の前で端整な顔に青筋を浮かべてるユリには、とてもじゃないが言う気にならなかった。これ以上何か言われてしまうことはアンリにとって面倒だし、いくらのんきでも罵られるのは趣味ではない。
「確かにそうかもしれませんが、我々は本来、現世うつしよと関わりを深くとるべき存在ではありません。あなたが何を思ってあの人間に姿を見せたのかは諮りかねますが、我々に示しがつかなくなるようなことは控えてください。あ、それと、私がここの担当であったことを感謝してくださいね」
 相変わらず、にこりともしないユリが呆れたようにため息をつきながらそんなことを言って、空を仰いだ。
「もー分かったってばっ。ほんっとにユリって無愛想だよねぇ」
 アンリも怒られてしまって少しは反省したのか、いやしていないのか良く分からない顔つきで言い返してユリの視線をなぞって空を仰ぐ。今日も星も月も輝いているが、その自然の煌きはこの街までは届かない。街自体の輝きのほうが圧倒的に強いせいだ。
 二人は昨日と同じで劇場の屋根の上にいる。周囲には高い建物があまりなく、少しだけ坂道の上にあるここからはきらびやかな様子が良く見えた。どこかの劇場から、公演が終わったのかたくさんの人々が出てくるのも見える。人間よりも遥かに見える眼を持つ二人の視線がそこに縫い付けられる。
 誰もかれも満足そうな笑顔と高揚した気持ちを持っているようで、楽しげな足取りで出てくるのを見ていたアンリが、ふと言葉を零した。
「あの子なら。もっと良い顔をさせられるはずなんだけどなぁ……」
「あの子?」
 アンリの独り言を拾い上げたユリが怪訝な顔をする。しかしすぐに察しがついたのかやや呆れたように小さくため息をついた。
「なぜそこまで気になるんですか?」
「なにが?」
「あなたが姿を晒した人間のことですよ」
 ふわりと、黒と白のローブが風に踊る。ユリは赤い死神の鎌を腕に抱きこむようにして持ち、長い腕を軽く組んだ。そのまま深い藍色の瞳でアンリを見つめて答えを待つ。
 しかしアンリはなぜと言われても、理由なんてものないんだけど。と首を傾げた。本当になんとなく気になってしまって、そしてあの歌声になんとなく心惹かれるものがあっただけだった。なんにしてもいつもたいして深く考えていない自身の思考を他人に説明するなんてことは、なかなかに難しい。それを求められてアンリの顔が困ったものになってしまった。うんうん悩みながら何度も首をかしげているそんな黒衣の死神を、しばらく黙ってみていたユリが、そのうちに脱力するように何度目かのため息をついた。
「もう良いです」
「へ?」
「だから、もう良いですよ。あなたに聞いたことが間違いでした……」
「ちょっと……何その言い方」
 切り捨てるように言ったユリに、アンリも思わずきつい眼差しを向けた。しかしユリはほんの少しだけ柔らかな笑みを見せて、自分より少しだけ背の高いアンリを見た。
「あなたは特に何かの目的であの人間に近づいたわけではないのでしょう?」
「んー。そりゃ、まぁ……」
「あなたらしいですね。何も考えていなくてそのまま行動に出てしまえるのは、ある意味うらやましいです。私はそこまで自由にはなれませんから」
「そう? ユリも結構自由だと思うんだけど」
 にこっとあどけなく笑って言ったアンリに、ユリがあからさまに嫌な顔をした。
「あなたにそんなことを言われるだなんて、末代までの恥です」
「ちょ、どういう意味なのそれっ」
「私はこれでも色々考えてるんです。あなたと一緒にしないでください。でも……本当にあなたが羨ましい時があります。私にはそんな風に人間に入れ込むことなんてできないですから」
 ユリが少しだけ影を落とした顔をアンリから背ける。しかしその影はすぐに消えてしまって、それがなんなのかアンリには理解することができなかった。ただあまりにも深い闇を湛えたそれに、普段からのんきな顔つきのアンリでさえ真剣味を帯びるほどだった。
「ユリ、何かあったの?」
 言われたことはさておき、ユリのことが気になったアンリが夜風にローブを遊ばせながら問うた。
「別に。……昔のことですから」
 ユリのいつも以上に抑揚のない声が、夜風にふわりと流されていく。アンリはそれ以上何も聞けなくなってしまって、でもあどけなく微笑んだ後、ユリの見た目の割りにしっかりとした肩をぽんぽんと叩いた。
「ユリが本当は優しいことは、僕が知ってるから大丈夫だよ」
 のほほんとした笑顔でそんなことを言ったアンリに、ユリが小さく肩を震わせてその後くすくすと笑った。
「あなたに慰めてもらうだなんて、本当に恥ずかしいですね」
 目許を細めたユリの言葉に、アンリがまた少々むっとした様子を見せたが、憎まれ口を叩くのはいつものことだと諦めて小さくため息をついた。
「まぁ、何でも良いけどね。ユリにしろあの子にしろ、笑ってる方がいいなって、ただそれだけ」 
 長い睫毛に囲まれた極上に輝く青紫の瞳を穏やかに笑ませて、アンリはまた街並みに視線を流す。先ほど見た人間たちの満足げな表情を、アディーの歌声でもっとたくさん増やしてほしいと、純粋にアンリは願う。少し聴いただけだが本当に声を取り戻したならば、あの子のそれは無限に可能性を秘めているはずだ。どこまでも伸びる声を、大きな劇場で歌う姿を、たくさんの人に聴いて、見てもらって、そしてたくさんの拍手を受けて笑うアディーはきっと今まで以上に愛らしくなるはずだと、あどけない笑顔で想像するだけでワクワクした気持ちになる。自然と顔の綻ぶままに街並みを見ているアンリを、じっと見ていたユリがその口元を僅かに笑ませてクスリと笑った。そして。
「あなたに見つけてもらって、その人間は幸せかもしれませんね」
 ふと、ユリが呟いた。
「なぁに?」
 よく聞こえなかったアンリが聞き返すと、ユリの仮面のように表情のない容貌が更にふわっと綻んだ。めったに見ないそれがアンリでさえ驚くくらいに穏やかに微笑を見せる。
「あなたは死神じゃなくて、他の神にでもなればいかがですか?」
 ある意味とても失礼に取れる言い方に、アンリがあっけに取られて言葉を失う。ぽかんとした顔が本来の整った容姿を無限の彼方に吹き飛ばしたかのように間抜けすぎて、ユリが思わずと言ったように吹き出した。これもめったに声を出して笑わないユリにしては珍しく、ますますアンリがぽかんとしてしまって、言われたことに何も言い返せないままユリが腹を抱えて笑うのを見るばかりだった。
 いくらか笑った後に、涙まで浮かべていたユリが長い指でそれを拭ってやっと笑いを収めると、また表情の殆どない顔つきに戻る。
「あなたのすることに文句は言いませんが、くれぐれも深入りはしないでくださいね。ここは私の担当なので厄介ごとを起こされると私が注意されますので」
 神経質そうな藍色の瞳で一瞥したユリに、アンリがハッと我の返り、また子供のようにぷうっと頬を膨らませた。やはりどこまでもこの死神は子供っぽくて威厳のかけらもないなと、白い死神は思う。
「怒るも何も、ユリの上にいるのは僕じゃないさ。覚えててよね、それくらい」
「……そうでしたね。危うく忘れてしまうところでした。しかしあなたの上にはまだ最高神がいらっしゃるので、怒られてしまうようなことは慎んで下さい」
「分かったってばっ。おとなしくしてれば良いんでしょ」
 何度も窘められて、アンリがぷいっと顔を背けて拗ねてしまった。それにおかしそうに小さく笑う、もう一人の神の控えめな笑い声が夜の街に静かに流れていった。
 自分より下の位の神に笑われながら、アンリは頭の中でアディーのことを考えていた。小柄な身体が震え、子供のように泣いていた様子は、見ていて心が締め付けられるほどに痛かった。何よりも大切な夢を抱えてこの街にやって来て下積みをして頑張った結果を、薄汚い金とコネで奪われてしまえば、落ち込んで当たり前じゃないかと、アンリが小さく腹を立ててしまうのも無理はなかった。この先もそんなことが起こるかもしれないと言って、アディーはまた泣いていた。それならば頑張る意味が分からない、歌う意味がわらかない。歌手になりたくてここまで来た意味が分からなくなってしまったと、何度も繰り返していた金色の髪をアンリはなでてやるしか出来なかった。
「見てる分には、こんなに綺麗な街なのにねぇ……」
 真っ赤になった眼で最後は、「話を聞いてくれてありがとう。死神って悪いものじゃないのね」と言ったアディーの泣きはらした笑顔が、アンリの中に何度も過ぎった。それはこの街の煌きと真逆でそんな涙をたくさん流してきた人間がいるんだと思うと、黒衣の死神は口から珍しいくらいに大きな溜息が零れるのを抑えることが出来なかった。

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