今宵、真紅の口づけを

5

 エルネスティより後に死にたくない。
 それは、少女の切なる願いだった。心の底から願うまっすぐに穢れないそれを、この間の夜、少年は聞かされた。どうにもならないこの欲を、愛する少年にぶつけてしまうしかないのなら、せめて少年と一緒に生涯を閉じたい。そして願わくば、少年より先に死にたい。一分でも、一秒でも、瞬きの間ですらも、死んだ少年を見て悲しみたくない。亡骸を抱き締めるなんてそんなことは出来ない。
 だから、あなたが私を殺して欲しい。
 そう、少女は願った。真紅の美しい瞳で、少年に話した少女は最初で最後のお願いをした。少年にとってはこの世のどんなことよりも残酷な願いだと分かっていても、少女はそれを願うしか出来なかった。
 栗色の瞳で真紅のその願いを受け入れた少年は、今それを実行しようとした。誰よりも何よりも大切なエレオノーラ、いつまでも抱き締めていたいその身体に、深々と刃を突き立てた。深く刺さったその感触。握り締めたそれから感じるエレオノーラの身体は、叫び出したいくらいに恐怖を持っていた。
 誰が愛する存在を手にかけたいのか。愛して、愛してやりたいのに、それに斬り込むナイフを持っているのが自分だなんて、少年の心が今までにないくらい混乱していた。血を奪われ視界のかすむ中で、エルネスティはだたひたすらナイフを握って背中に突き刺している。
 背中を刺されたエレオノーラが身を仰け反らせて小さく悲鳴を上げた。エルネスティに刻み込んでいた白い牙から滴る血が、綺麗な形をした少女の唇を伝った顎に流れる。大きく目を見開いたその顔を少年は見つめて、そしてかき抱いた。震える腕を少女の細い身体に絡めて、その最愛の身体を抱きこんで、自分も倒れそうになりながらなんとか踏みとどまった。
 まだだ。
 少年は声は出ないが、小さくそう唇を動かす。
 まだ、約束を果たしていない。
 自分の腕の中で乱れた呼吸を繰り返している少女から、突き刺していたナイフを抜く。エレオノーラの体が大きく跳ね、抜かれた傷から少女の赤が流れ落ちる音を、僅かに鼓膜に受け取った。
「あ……ぁ……」
 エルネスティの血で彩られた少女の唇が震え、何かを言おうと小さな音を零す。エレオノーラをなんとか腕の中に収めている少年の足ががっくりと折れ、その場に蹲るように倒れこんだ。エレオノーラの上半身を抱き締めながら、少女に衝撃を与えないように、少年は守ってくず折れる。
「エレオノーラ……」
 少年も震えてしまう喉と唇から搾り出す、自分の中で、今まで生きてきた中で、もう何よりも大切な宝物になってしまっている名前を。その魔法のように煌く聖なる名前を何度も、時には声にならない状態で呼びながら、少女を抱き締めて青ざめた頬に自分の頬を摺り寄せた。
 涙でエレオノーラが見えない。失いそうな意識をなんとか留めさせているのに、最期の少女の顔が見えない。涙で歪んでしまった視界をなんとか凝らしてエレオノーラを見ると、少女はまっすぐに少年を見ていた。
 輝きを失わないその真紅の瞳を笑みの形にして、少年を見上げるようにしている。少女もまた涙で視界が歪んでいるのか、長い睫毛を震わせて何度か懸命に瞬きすると、白い手を持ち上げて、そっとエルネスティの首にかける。力が入らないのだろう、するりと首から手が落ちてしまう。それをもう一度持ち上げたエレオノーラが、エルネスティを引き寄せるように力を入れた。屈みこむようにして顔を近づけた少年の唇が舞い降りるように、少女の唇に重なった。
 真紅の瞳と栗色の瞳が瞼に遮られて、触れ合う感触にだけ意識を集中する。初めて触れ合ったその柔らかな、でも冷え切った唇に、触れた瞬間に弾かれたようにどちらも身を震わせた。
 自分の血の味がした。しかしそれも甘く感じてしまう。ふっくらとしたエレオノーラの唇に触れた喜びがエルネスティを包み込み、少年は目を閉じたまま微笑んでいた。初めて触れた深い口付けに、何もかも忘れてしまったかのように少年も少女も長い間それを解かなかった。
「すき……」
 吐息の触れ合う距離で、少女は少年に想いを告げる。何度言っても足りないといったように、真紅の中に真っ白で清らかな感情を滲ませる少女は、エルネスティの手を取った。ナイフを握って震えるその手を取り、自分の胸の上に導く。その仕種を見て、少年が大粒の涙を零した。眉間に皺を寄せて、苦しげに呼吸を繰り返す少年を見上げたエレオノーラが、その涙を拭おうと反対側の手を持ち上げる。いつも温かかった少女の指先が氷のように冷え切っている。エルネスティと同じように落ち着かない呼吸をする胸が不規則に上下するのを視界に入れたエルネスティが、いつまでも抱き締めていたい少女の身体を床に横たえた。長い金髪をふわりと広げて横たえたエレオノーラに、少年がまたくず折れるように覆いかぶさるように身体を重ねた。暗んでしまいそうな中、エルネスティが両手でエレオノーラを閉じ込める格好になって覗き込んだ。
「すぐ…………逝くから」
 涙を零して少年は優しく少女に言う。それを聞いた少女が、幸せそうに微笑んだ。エルネスティの心の中に入り込んできたあの笑顔で。青い水の瞳だった頃と何も変わらない無垢な笑顔で微笑んだ少女の胸に、少年は身を撓らせて勢いよく、月明かりを纏った刃を突き立てた。
 何度も何度も、その白く細い最愛の胸にナイフを埋めて、少年は涙を流す。声を出さずに、黙々と、何かに操られているかのように肉を切る感触を全身に受け止めて、返り血を浴びて、真っ赤になりながら。
 エレオノーラの白い服が真紅に染まる。その瞳と同じ真紅に染まっていく様子を、栗色の瞳が呆然と眺め下ろした頃には、少女は息をしていなかった。
 血を失っている少年の身体は、支えていることも出来ないほどに力を失っている。がくりと蹲ったエルネスティが、その声も出なくなってしまった喉から搾り出す最愛の名前に、答えてくれる声はない。
 静まりかえった部屋の中に血の匂いが溢れ、そして少年の呼吸だけが響き渡る。もう泣き叫ぶことも出来ないエルネスティが、本当に最期の力を振り絞って体を起こす。ふわりと倒れこみそうになって、歯を食いしばって上体を保つと、両手でしっかりと、エレオノーラの命を奪ったナイフを握り締めた。爪が食い込むくらいに握ったそのナイフを、自身の首にあてがい、少年が微笑む。
 もう今は笑ってくれなくなった少女を見下ろして、穏やかな笑みを見せた少年の唇がそっと動く。
 愛してる。
 そして、その首にあてがったナイフを深く刻み込んだ。首をもぎ取ろうかという勢いで、それを叩き込むようにした少年のそこから、飛沫となって赤が飛び散る。亡骸となったエレオノーラが染まりあがるくらいに、あたり一面を赤に彩らせて、少年は絶命した。
 少女と寄り添うようにうつ伏せに倒れこんだ少年の手が、少女の手に重なるようにぱたりと落ちる。
 月明かりが優しく窓から注ぎ込む部屋の中で、魔族の少女と人間の少年が想いを分かち合い、共にありたいと願った最上の最期を迎えた。


 了
 

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