今宵、真紅の口づけを

4


 抗っても、抗っても、それは消えてくれない。笑いが出てくるほど、それはなくならない。
 どこからともなく、音もなく気配もなく、忍び寄るように心の中に入り込んできて巣食う悪魔のように、エレオノーラを食い尽くす欲。
 総毛立つほどの気持ちの悪さを持って、根こそぎ少女を壊してやろうかと言う欲のおかげで、元々細身の体はまた細くなる。
 数日間、それをなんとかしたくて泣き叫んだ少女が、今夜は人間の町の中にいた。
 深く濃い真紅の瞳で見上げた空は、いつかの日のように優しい月明かりをまとって綺麗だった。
「綺麗……」
 呟いた言葉は誰にも拾われずに空へと放たれる。静まりかえった町にはなんとなく優しさを感じた。瞬く星の明かりも可愛らしく、月は厳かにエレオノーラを見つめている。整った顔に穏やかな陰影をつけた少女が、空を見上げたままにこりと微笑んだ。その人形のように、しかし以前より感情を持ったその顔のふっくらとした唇から見える白く穢れのなさそうな牙。誰かの命を奪うために存在するその白きものを隠すことなく、少女は一層穏やかに微笑み、そして歩き出した。
 真っ白な服を着たエレオノーラの体が、淡い光と闇を持って歩みを進める。ただ求めるもののために、そして約束を果たすために、守るために。
 鼻歌でも歌っているのかと思うくらいに軽やかに進む足取り。ふわりふわりと滑らかな金色の髪の毛をなびかせながら歩く姿は、魔族などではなくて妖精のようにも見える。
 だが、その頬に流れるのは、涙。笑みの形をしている長い睫毛に囲まれた瞳から、とめどなく溢れてしまう雫を拭うことなく歩いてたどり着いた一軒の家。
「エルネスティ…………」
 そっと言葉にしてみるその名前。何度も声にして、心で紡いできた名前。初めて家族より、幼馴染より重みを持ってしまった少年の名前を呼べる声があることを、神に感謝したいくらいに、エレオノーラは喜びを感じる。少女は胸の前で手を合わせて祈りを捧げた。魔族といわれる自分とは正反対の清らかな存在に祈る。この出会いに感謝しますと。
 家のドアは、当然のように鍵がかかっていなかった。そのまま階段を上がってひとつの部屋の中に入る。窓から入り込む月明かりが、薄く人影を作っている。ベッドに座っているその人に向かって、その人間から香る極上に甘い香りを吸い込んで、エレオノーラは微笑んだ。
「こんばんわ」
 涙の滲む声を受けた影もまた、返事をする。
「こんばんわ」
 見た目に似合わない低い声。大好きな声。その声の持ち主が、ベッドを僅かに軋ませて立ち上がった。エレオノーラよりずっと背の高い少年が、ドアのそばに立っていた少女を手招きする。
「こっち」
 相変わらず愛想のない言い方に、少女は小さく笑って近づいた。近づくと見えるのは、栗色の瞳と髪の毛。無造作に括られているその髪の毛を、エルネスティは軽くかきあげて視線を下ろした。
 しばらく何も言わないままにその眼差しを受けていたエレオノーラが、震えそうになる声を零した。
「約束…………守りに来たの」
「ん……」
 そばに立っているだけでも目の眩む程に妖しく少女を魅了する香りが鼻をくすぐる。もう体が渇ききってしまって、どうにもならない。やはり負けてしまうしかないんだと、真紅の瞳が俯いた途端に涙を落とした。ぱたりぱたりと落ちて行く涙を、エレオノーラはただ見ていた。
「エレオノーラ」
 そんな少女に頭上から優しく甘い声が聞こえてくる。低められて、少し掠れた、でも初めて聞く甘さを感じる声。エルネスティの声とは思えないくらいのそれに、少女は驚きつつ顔を上げた。手を伸ばせば届く距離の少年が、その栗色の瞳を優しく細めて真紅の瞳と交わらせた。
「愛してる」
「え……」
「エレオノーラを、愛してる」
 ただひとつの、とてもシンプルな言葉を口にして、少年は笑った。いつもの優しく染み入るような微笑ではなく、天真爛漫な子供のような笑顔で。魂につけられた傷を、激しさを見せていたあの瞳と同じとは思えないような無垢であどけない笑顔で、少年は少女を見つめて、笑った。
 エレオノーラは信じられないものを見たような顔でエルネスティを見つめた。どこまでも深い愛情を見せてくれているその少年の笑顔は、何よりも眩しかった。少女が今まで見てきたすべてのものと比べても、美しく儚く、綺麗だった。
「私も、愛してる……あなただけを」
 自然と、言葉が零れた。エレオノーラも伝えられる言葉は一つしかなかった。震える声で、涙を流して紡ぐ短くても深い言葉に、最愛を込めて少年へと贈る。それしかできないことが悲しいけれど、でもたまらなく幸せにも感じる。甘い香りの中で伝え合った言葉の意味。月明かりが優しく淡く二人を包み込み、そして溶かすように輪郭を滲ませている。
 笑っているエルネスティにつられるように、エレオノーラも笑う。にっこりと真紅の瞳を笑みの形にした少女が、誘われるように少年に近づいた。鼻先をくすぐる、甘く魂を揺り起こす香りが濃くなる。その夏には日焼けをして健康的だった首元を見て、そして妖艶に微笑んだ。長い腕を伸ばした少女を、少年は黙って見つめている。穏やかな顔で、何もかもを受け入れたように。
 ひやりとしたエレオノーラの指が首に触れ、そのまま背伸びをして腕を絡める。優雅にも見えるその仕種に、少年は目を閉じる。艶かしいほどに自分の肌を伝う少女の感触は、初めての少女からの抱擁だった。
「エルネスティ……愛してる」
 もう一度、エレオノーラは気持ちを言葉にして、うっとりと唇を押し当てた。白い牙を突き立てるために。
 自分の意思で、少年にそれを刻み込んだ瞬間の快楽は凄まじかった。自分自身が根底から覆るほどに圧倒的なうねりが少女を襲う。抹消からはじけてしまうほどに感じる興奮と恍惚。意識を保っているだけで精一杯だが、止まらない欲求は少女を覚醒させて奪い取る、この世でもっとも大切な人から命そのものを。しかしそれすらも少女には媚薬となる。体の隅々までそれに犯され、エレオノーラはもう何も考えられなくなってしまった。
 エルネスティはそれを黙って受け入れた。少女から与えられる、奪われる者しか感じることの出来ない、これも快楽なのだろう。恍惚とした中に僅かな痛みを感じて、自分を奪われているのだと思い知る。流れている赤い血を急速に失っていく感覚に、視界がふわりと揺れた気がした。恐怖などはまるでない。あるのは少女への愛だけ。
 そして、約束を果たすという思いだけ。
 血を失い、指先から冷え切っていく身体をなんとか奮い立たせ、少年は腕を上げる。そして、少女を抱き締めるように、包むように、渾身の力を込めて、その細いエレオノーラの背中にナイフを突き立てた。
 

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