今宵、真紅の口づけを

2


 昼前に、エレオノーラは家に戻った。エルネスティと一緒にいた時間を惜しむように別れを告げた少女は、家の門をくぐった所で、母親に呼び止められた。娘がいつからいなかったのか心配していた母に当然怒られ、父親にも呼び出された。しかしエレオノーラが覚悟していたほどは、怒られずに済んだ。この時期の子供達は、数日家を空けることもあるようだと、少女は後からヴェルナから聞くことになる。血を求める過程の中で、満たされるまで帰って来ないこともあるのだという。ただ親として心配している両親は、それでも娘を怒らずにはいられなかった、といった様子だ。
 一通り小言を受けたエレオノーラが自分の部屋に入り、そしてベッドに身を投げ込んだ。たまらなく倦怠感を感じて、少女は長い睫毛を伏せる。うつ伏せのまま金色の髪をベッドに広げ、足の痛みに耐えながら目を閉じている。
 そこに幼馴染がやって来た。静かに開けられたドアから、覗き込んできた濃紅こいくれないの瞳に真紅の瞳が交わる。ヴェルナは黒髪を揺らして首をかしげた後、部屋に入ってきた。
「エレオノーラ……大丈夫?」
 傷だらけのエレオノーラの足を見て、ヴェルナは言葉をなくした。エルネスティがある程度手当てしてくれたとはいえ、それでも痛みを伴い、滑らかな肌には無数の傷がついている。エレオノーラは起き上がってベッドの上に座るとにっこりと微笑んだ。
「私は大丈夫だよ。ヴェルナ来てくれてありがとう」
「ううん。心配だったから……」
 それ以上は、ヴェルナは何も言わなかった、渇いた血の後をエレオノーラの胸元に見つけて全てを察した幼馴染が、視線を逸らしてその瞳を苦しげに歪ませた。それにエレオノーラが自虐的に笑みを見せる。
「やっちゃった……」
「……うん」
 誰を、とはヴェルナには聞けなかった。自分がしてしまったことを、エレオノーラもしてしまったのだろうか。あんなおぞましい経験を、この純粋な幼馴染にはして欲しくない。でも確認することも出来ないヴェルナが、息をつめるように身動きしないまま、エレオノーラの言葉を待った。
「エルネスティじゃないよ」
「え?」
「エルネスティは、生きてる。大丈夫」
 真紅の瞳をまっすぐにヴェルナに向けて、エレオノーラは言う。
「私なんとか我慢できたと思ったの。この人だけは殺しちゃいけないんだって。でもね、他の人の命奪っちゃった……結局、私は負けたの、自分に」
 疲れ切った体を抱き締めるように、エレオノーラは身を屈めた。上体を折り曲げるようにして屈んだ細い身体を、駆け寄ったヴェルナが抱き締めた。
「あんたは、よく我慢したんだよ?」
 震える声でそう言った少女は、最愛の幼馴染を抱き締めて何度も涙を飲み込んだ。自分が泣いても仕方がない。エレオノーラが一番辛いのだから。そう思って、泣くのを我慢した。エレオノーラが我慢していた感覚は自分にもよく分かることだ。気がふれそうなくらいに湧き上がってくる欲求を、一月も耐えていた少女の気持ちはいかほどだっただろう。ただ一人の、人間の少年のために耐えてきた少女がその欲に負けたとしても、誰も非難など出来ないと思う。それほど、自分たちの中に根付く本能は抑えが利かない。
「ヴェルナ……ありがとう。でも私は大丈夫だから」
 抱き締められながら、エレオノーラはヴェルナの頬に自分の頬を摺り寄せて言葉を返した。
「私なら、大丈夫。ヴェルナと、エルネスティがいるもの」
 子供のようにあどけない微笑を見せるエレオノーラが、大切な幼馴染を抱き締めて、その背中を優しく叩いた。生まれたときから常に一緒にいるヴェルナの存在と、今大切な少年がいる。
 それがエレオノーラには、救い。
 こんな自分ですら嫌になってしまう自分を、愛してくれている。もちろん家族もリクも大切ではあるが、ヴェルナとエルネスティだけは次元が違うほどに大切だった。
「私ね、約束したの」
 楽しいことでも報告するように、エレオノーラは真紅の瞳を笑みの形に変えた。
「約束?」
「うん。一緒にいるって」
 誰と、とは言わない。エレオノーラの心が語っている。それにヴェルナは濃紅の瞳を注ぎ込み、無邪気に笑うエレオノーラを見つめた。どこまでも無邪気で、純粋で眩しいほどに笑っている少女の溢れる想いを目の当たりにして、ヴェルナは何も言えない。ただ真紅の瞳を受け止めているだけで必死だった。
「私はエルネスティとは離れない。約束したから。ずっと一緒だって」
「決めたの……?」
「うん。もう決めた。離れることのほうが辛いから」
「エルネスティも?」
「うん。だから、私は大丈夫。ヴェルナにも感謝してる。こんな私をいつも守ってくれて。いっぱい好きでいてくれて、ありがとう」
「そんなこと言わないで……」
「え?」
 ヴェルナの瞳から我慢していた涙が、ついに溢れた。ポロポロと、輝く宝石のように光を纏った涙を零して、エレオノーラを見つめているヴェルナが、子供のように顔を歪ませて泣き出した。
「そんなこと言わないで……私あんたと離れたくないよ。ずっと一緒って言ってたじゃない……生まれたときから今までも、これからも、一緒にいるって言ったじゃない……エレオノーラ……私から、離れるの?」
「ごめんね」
 泣きじゃくるヴェルナの手を、エレオノーラは包み込むようにして握り締めた。細い手で同じように細いヴェルナの手を。もう何度も繋いだ手。エルネスティよりも多く手を繋ぎ、そして共にたくさん思い出を作った手。その愛しい手をくすぐるように撫でて、エレオノーラは微笑む。床にヴェルナと向かい合うようにして座り込んだ少女は、幼馴染の黒髪を撫でる、あやすように何度も。
「ヴェルナのことは大事。大好き。でも……エルネスティも大事なの。私の中で同じように二人は宝物なんだ。あの人がいない世界なら生きてても仕方がないって思うくらい、大事なの。だから、一緒にいたい。エルネスティを好きだから、離れたくないの……お願い……分かってほしい。ヴェルナにだけは分かってほしいの」
 大好きな幼馴染には理解して欲しい。わがままなことだと分かっていても、それでも、この少女にだけは嘘をつきたくないし、笑って頷いてほしかった。エレオノーラは飾り気のない言葉で自分の気持ちを告げる。泣いている幼馴染を見るのは辛いけど、でも隠し事をしたくはない。
「エレオノーラは……それで幸せなの?」
 ヴェルナのシンプルな問いかけに、エレオノーラは最愛の少年を思い出して微笑んだ。
「私にはこれが一番幸せなことだよ。ヴェルナがいて、エルネスティがいてくれたら、それだけで幸せ」
 疲れているはずのエレオノーラの顔が一層愛らしく微笑む。満開の花のように溢れる愛情を湛えたその笑顔に、ヴェルナは大粒の涙を零して、再びエレオノーラを抱き締めた。抑え切れないヴェルナの嗚咽が部屋の中に響き、エレオノーラも涙を零す。こんなにヴェルナを泣かせることになってしまっても、やはりこの気持ちを捨てることなんか出来ない。申し訳ない気持ちと、ヴェルナの自分への愛情を感じて幸せに思ってしまう少女は、温かな涙を流した。
「分かった……エレオノーラ」
「なぁに?」
「私はあんたの味方だし、ずっと幼馴染だからね」
 濃紅の瞳が鮮やかな色を見せてエレオノーラに微笑む。それに少女も真紅の瞳を輝かせて微笑んだ。

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