今宵、真紅の口づけを

3

 欲しい。
 欲しい。
 欲しい。
 思うともう止まらなかった。
 真っ暗な森の中に、妖しく光る真紅の瞳を持った少女はひたすら走った。疲れ切った身体なのに求める心はおかしな作用をもたらすのか、身体の中から湧き上がってくるように体力が回復する。
 抹消まで奮い立つ感覚を持って、エレオノーラは走っていた。低俗な魔物たちはそんな少女を見て、また気配を感じて姿を隠す。腰まである長い金色の髪を躍らせて、ただ走っているだけの少女に気圧される黒き魔物たちが道を明けていく。どこかで咆哮のようなものが聞こえエレオノーラの鼓膜を刺激したが、そんなものは気にもならなかった。普段の少女なら絶対に怖くて歩けないその森の中も、今は通過点でしかない。怖さもおぞましさも、何もなかった。
 ただ、欲しい。
 それだけがエレオノーラを支配していた。心の奥底に追いやられた、穢れない少女の本当の姿はいばらに囚われて、叫んでいる。
 これ以上はやめて。私を返してと。
 涙を流して喉が裂けそうなほどに叫んでも、目覚めた感情は止まる事などないのに。どこまでも最愛の少年を想って、今の自分を認めたくない少女は叫ぶしか出来なかった。
 このおぞましい衝動に突き動かされているときは身体能力も上昇するのか、エレオノーラは普段からは考えられないくらいに早く森を抜けた。靴をはいていない足は傷だらけで血が滲み、薄いピンクの寝衣もすっかり汚れてしまった。ところどころ草木に引っ掛けたのか、上質のそれが綻んでいた。
 息のまったく乱れていない少女は、その鮮やかな真紅の瞳で空を見上げる。澄み切った冬の空は、自分の部屋の中に溶け込むような優しい光を注いでくれていたものと同じ。愛らしい星達と、柔らかい月。先ほどと違うのは、妙な浮遊感がエレオノーラを包んでいたことだった。ふわりふわりとなにやら楽しくも感じるそれに、身体は熱に浮かされたようになる。火照るような、しかしまた逆に神経だけは冷水を浴びたように冷え切るような、なんともいえない、でも心地良くもあるその感覚を味わうように、少女はうっとりと溜息を漏らした。
 今いる場所は人間の町の片隅。それほど人口は多くないが、それでもエレオノーラたち魔族に比べれば数は断然多い。綺麗な月の下の町はどの家も殆ど灯りはなく、もう既に眠りの中に誘われているだろう。
 ただ普通に生活を営んでいるその町の中に少女は感じる。たまらなく自分を誘惑する香りを。肺の中、肺胞を満たすように溢れたその香りは媚薬。
 欲しい。
 エレオノーラは無意識に唇を開けた。綺麗な形の唇が開かれると、そこには普段は見えない白い、眩いほどに輝く牙。赤い唇を柔らな瑞々しい舌で嘗めて、一瞬無邪気にも見える笑顔を零した少女は一歩踏み出した。
 どこに行けば良いのかとか、誰を襲うのかとか、そんなことを考えてはいない。ただ求めるままに歩いた。




 僅かな月明かりがカーテンの隙間から差し込むその部屋に、エレオノーラはいた。
 広くもなく狭くもない部屋。シンプルな、でも細工の細やかな家具とベッド。柔らかなシーツにもぐりこむようにして眠っている人間。長い手足を持つ身体を丸くして、子供のように眠る人間を、ただじっとエレオノーラは見下ろす。精巧な人形のように整った顔に、暗闇の中でますます妖艶に陰惨に輝く瞳は目の前の、自分を魅了する香りを放つ人間を見て、僅かに笑みの形に変わる。
 近づくと、さらりとした栗色の髪の毛が見える。そして綺麗に弧を描く眉、まだ日焼けの覚めやらぬきめ細かい肌。穏やかな寝顔。いつも無愛想なのに、それを忘れさせるくらいの無邪気な子供のような寝顔。
 初めて見た、エルネスティの寝顔。
 だめ。だめ。だめ。お願い。私にこの人を殺させないで。
 荊のなかで叫ぶ本当の少女が、自分を押し殺す本能に逆らう。懸命にそれに抗い叫んでいる。しかし表に出ている少女は少年を見てもなんの表情も見せない。
 ただの人間。
 あれほど純粋に綺麗な感情で少年を好きなのも、今荒れ狂う欲求の前では何の役にも立たないのか。ただ白い綺麗な顔でじっと見下ろす。
 私は傍にいたいの。この人と一緒にいたいの。お願いだから、私からこの人を取らないで。
 欲しくて欲しくてたまらないと訴える思いを捻じ込むようにエレオノーラは抗う。立ちすくんだまま、少女はかなり長い間動かなかった。
 手を出してしまえばもう最後。どんなに泣いても叫んでもエレオノーラはエルネスティを殺してしまうだろう。その身体の中に廻る赤い血を残らず奪ってしまうだろう。だから必死に抑え込む。少年の安らかな寝顔を見て、少し、ほんの少しだけ、理性とまではいかないが何かが作用する。
「…………あ…………あ……」
 聞こえるか聞こえないかのか細い声が、喉を介して零れた。表情はあまりないが、その真紅の瞳が潤み始める。次第に身体が震え始めて、立っていられないくらいに少女は呼吸を乱れさせていた。苦しくなった胸元を掻き毟るように押さえ、身体を折り曲げる。艶やかな金髪が顔を覆い隠すようにさらりと流れた。
「……い、や……。だめ…………だめ……」
 嗚咽と共にこみ上げる声を、エレオノーラは零す。涙と一緒に何度も何度も苦しげな呼吸の合間に零した。
 感情がおかしくなって心が壊れそうだった。求める事と守りたい事があまりにも違いすぎて、どうにかなってしまいそうだ。自分を抱き締めるようにしてエレオノーラは泣きじゃくりながら、それでもなんとか数歩後ろに下がる。少しでもエルネスティから自分を遠ざけるために、震える足で。
 静まりかえった部屋の中で、少女の心の叫びは泣き声になって溢れる。それに、ベッドの中の少年は夢の中から現実へと引き戻された。睫毛を震わせてぼやける視界を凝らすように視線を定め、身を起こす。暗い部屋の中を照らそうと、ベッドサイドの小さな明かりを灯して、気配に気づいた少年が視線を流す。そして息を飲んだ。
 信じられないものを見た少年の栗色の瞳が、ゆっくりと大きく見開かれていくのを、真紅の瞳は涙の中で見つめ返すしか出来なかった。
 目の前にいるはずのない最愛の少女を見て、揺らぐ栗色の瞳。
 目の前にいる最愛の少年に、自分のこの姿を見られてしまって揺らぐ真紅の瞳。
 身を斬られそうな痛いくらいの沈黙の中、ただ視線を繋ぎとめているだけで、二人は精一杯だった。

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