今宵、真紅の口づけを

2

 その「渇望」は常にエレオノーラの中に存在するようになった。
 以前ヴェルナが言っていた「喉が」ではなくて、「身体が」渇くような苛立ちにも似たその「欲求」。
 数日おきに静かに最愛の少年との時間を分かち合う事が、何よりも幸せに感じていた少女に湧き上がったその魂からの純粋に求める衝動は、その時々で深さが違う。コントロールできるときと困難なときの差が激しい。個人差のある症状とでも言うべきそれに、エレオノーラはたまらなく振り回されている。
 幸い、エルネスティと一緒にいるときは軽いのか我慢できているが、突如猛烈に襲い来る血を求める感情がいつ自分を食い破ろうとするのかと思うと、不安なんて言葉では言い表せないくらいに心が揺さぶられる。
 しかしそれは、夜に大きくなる事がしばらくすると分かってきた。
 それをヴェルナに相談したら、ヴェルナもそうだと言う。目覚めてしまった幼馴染を、濃紅こいくれないの瞳はただ黙って受け入れてくれた。私は味方だよと、口にはしないがそう伝えてくれた。それがエレオノーラには心の底から嬉しかった。
 そして今、また自分の意思に反して、少女は求めている。人間の中に流れる最高の美酒を。
 澄んだ冬の夜。夜空には愛らしい星達が瞬き、綺麗な柔らかい光を持った月が顔を覗かせている。
 そんな空の下。灯りもつけずに、一人部屋の中でエレオノーラは蹲るようにしてベッドの中にいた。不安定な呼吸を繰り返し、頭を抱えるようにして必死に目を閉じて考えないようにしている。
 目覚めてから常に、エルネスティと会えば必ず香るあの香り、何もかもを持っていかれそうなほどに魅力的なその香りが、まるですぐそこにエルネスティがいるかのように思い出される。
「いや……」
 その幻覚を振り払うかのように首をふって、エレオノーラは思わず声を出した。どこまでも消えてくれない汚らわしい欲は体を蝕む病魔だと思った。
 私が私でいられなくなる。あの人に好きでいてもらえなくなる。
 今のエレオノーラにとって、世界で一番大切でなくしたいものを奪うように嘲笑うように、赤い血を求めるもう一人の自分がいる。急速で確実に根を張るその存在は、白く滑らかな皮膚の下を這いずり回るような不快感と共に増殖していく。頭の芯までそれに犯されそうになって、エレオノーラは自分で自分の長く輝く金色の髪を引っ張るようにして小さくうめいた。
 いつもなら、泣きながら気を失うように真っ暗な夢の中に堕ちていくのだが、今夜は何をどうしても眠れない。ざわざわと蠢くそれが眠らせまいと言うようにエレオノーラの神経を刺激して、身体は連日の睡眠不足で疲れているのに頭だけがやたらと冴えている。
 ぎゅっと目を閉じて考える。ほかの事を。エルネスティの事を。
 あの栗色の髪の毛と瞳。冬になっても夏の日焼けの名残の残る肌。背が高く何でもすんなりこなしてしまう身軽さと運動能力の高さ。無愛想なのに笑うととても優しい笑顔。見た目にあわない妙に低めの声。その声で呼んでくれる自分の名前。
 そしてエレオノーラを好きでいてくれること。
 そして。
 滑らかな首筋……。
 無意識に思ってしまったことに、エレオノーラは愕然としてしまった。今何を思ったのかすら反芻したくない少女は、真紅の瞳から大粒の涙を流した。声にならない声を迸らせるように、枕を抱き締め泣き声だけは我慢した。こんな姿や声を家族に知られたくない、心配をかけたくない。血を拒む自分を見せたくない、情けないと思われたくない。
 自分のおぞましさから来る吐き気と戦慄、頭痛、そして嗚咽をなんとか堪えていたエレオノーラだが、あの最初の目覚めから既に一月。
 もう限界だった。
 理性なんてものは、少女が思っていたよりもずっとあっさりと負けてしまっていた。ただ自分の中にいる少年を想う気持ちだけで我慢していた。出来るとも思っていた。
 しかし、もう限界だと、身体は訴えている。本能から求めるものを拒否していれば必ずひずみは出来てくるものだ。どこかが軋み始める。気づいたときにはもう手遅れなほどに歪な形になってしまうことだってあるだろう。
 エレオノーラの心はその寸前まで追いやられていたようだ。
 最愛の少年を想ってももう止まらない感情が、一気に堰を切った。エレオノーラの中に紅蓮の炎のごとく燃え上がった、血を求める欲求を止められることなどできなかった。
 僅かなシーツの音をさせて、蹲っていた少女は起き上がる。長い金色の髪がさらりと肩を滑り背中を流れた。
 月明かりしかないほのかな部屋の中で、ベッドの上にいる少女の顔をぼんやりとした陰影がかたどった。
 長い睫毛の下で妖艶で陰惨な輝きを湛えた真紅の瞳。普段は愛らしい表情を見せる整った顔は精巧な人形のようになっていた。
 求めるものがあまりにも大きすぎて、感情が抜け落ちてしまっている。普段は子供っぽい雰囲気のエレオノーラだが、その何もない仮面のような顔は、きっとヴェルナや家族が見たら驚くくらいに際立った美貌を持っていた。
 その少女はベッドを軋ませて立ち上がる。淡いピンク色の足先まで隠れる寝衣がふわりと床に広がった。靴をはくこともなく、そのままふらふらと歩き出していた。無表情のまま、足音もしないまま部屋のドアを開けて階段を下り、外に行く。その格好ではとても真冬の夜を歩けるはずもないのに、エレオノーラは躊躇うことない。
 ただ、求めるものを目指している、ある意味純粋な心の導きのままに。一歩一歩確実に森に向かっていた。
 その森を抜け、先にある場所を目指して。
 欲しい。
 それだけを、思っていた。

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