今宵、真紅の口づけを
2
痛みを感じるほどに誰も何も話さない時間が過ぎた。森の中を通り過ぎる風の音と、自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。エレオノーラの赤い瞳からいくつもの涙が零れていく、それをリクは少しだけ悲しそうに見ていた。
以前、エレオノーラから聞いたエルネスティの名前にリクは聞き覚えがあった。もうリク自身、長い間血を欲したりしないが、その最後の欲求があった時、奪った女性の最期の言葉が「エルネスティ」だった。栗色の髪の美しく若い女性。幼い子供を抱き締めて自分に抗おうとしていた女性の泣き顔と、それを奪って抱き締めた感覚を思い出す。その赤に総身が震え上がり恍惚としたのを思い出す。その子供が今、成長して目の前にいる。それがなんとも不思議な感じがした。
リクが思い出していることを、エルネスティもまた思い出していた。母の泣き顔と自分を守ってくれようとした腕の中。震える自分をきつく抱き締め、赤の瞳を見せまいとしてくれていた母の温かな腕を、簡単にそれは奪っていった。自分の名前を叫びながら連れ去られてしまった母の声は、今もしっかりと記憶の中に残っている。一生忘れる事などできないその光景を、苦しさと悲しさに彩られているそれを思い出して、目の前が真っ赤になりそうなほどに神経を逆撫でられている。
「本当なの…。先生…?」
不意にエレオノーラがリクに問いかけた。聞こえるか聞こえないかの儚い声で、涙で滲む視界にリクを入れながら少女は声をかける。しっかりとエルネスティに抱き締められて、何とか立っていることができる状態であるが、今ここで聞かなければ、きっと一生何も分からないままだろうと思ったから。
「嘘はつかない。本当だよ」
穏やかな声でリクも返事をした。黒衣に包まれたその長身の身体から少しだけ力を抜いたリクは、エレオノーラにいつものように優しく声をかけた。
「俺も、いろんな人間の命を奪ってきたからね。これだけは否定できない。それが種族だし俺達にとってはあたり前の事だから…。その子の母親を奪ったのは、俺だよ」
リクの言葉に、エルネスティは歯を食いしばって目を逸らした。エレオノーラの肩に顔を埋めるようにして、泣き出しそうな叫びだしそうな、溢れる声を我慢できないように呻いた。全身を強張らせて、必死に耐えている少年の身体を、エレオノーラは細い腕を伸ばして抱き締める。守りたくてそれしか出来ないけれど、大きな身体を抱き締めて、柔らかな栗色の髪の毛を撫でた。
力一杯抱き締めてくるエルネスティの腕の中は、正直苦しいくらいだ。でもそうする事で、今爆発しようとしている感情を抑え込んでくれているのなら、エレオノーラは耐えることができた。
「ごめ…ごめん…」
どうにもならないその力加減に、エルネスティは震える声でエレオノーラに謝った。こんな細い身体を抱き締めるにはあまりにも強い自分の腕を解くことが出来ない。今解いてしまえば何をするか分からなかった。
「良いよ。私なら、平気…」
それにエレオノーラが優しく声をかける。何も心配は要らない、私のことは大丈夫と、何度も声をかけてその髪の毛を撫でる。
そんな二人を見ているリクの瞳に翳るものがある。清らかなつながりを持つ二人をこのまま許してあげたいと思う反面、やはりどうにかしなくてはいけないと思う気持ちが、いつも冷静で聡明な青年の中でない交ぜになってくる。明るい赤の瞳に映る二人は、純粋すぎる心の持ち主だと思う。何も知らないままに互いを認め合い、好きになっていった少年と少女の間に、誰も何も入る事など本来はしてはいけない事なのだろう。今日初めて見たばかりのリクにさえ、その姿は美しく見える。でも二人の関係は二人にとっても良くない事だと、リクは思う。血をほしがる感覚を知っているリクだからこそ、それは本当に心配でならない。どうにも出来ない欲求が魂のそこから湧き上がるそのときに、エレオノーラがエルネスティを襲ってしまう事は火を見るより明らかな事だ。その後のことを考えると、少女を妹のように可愛がる青年にとっても、身を切られるように辛い事だった。
「エレオノーラ」
リクがまた優しく声をかける。その瞳に少女への愛情を持って、穏やかな笑みを湛えてエレオノーラを見つめた。
「こっちにおいで。もうこれ以上はいけないことだよ」
「な…に?何を言ってるの?」
エルネスティの腕の中で、少女は身じろぎして青年を見つめた。
「もうこれ以上、その子に関わってはいけない。自分が辛くなるだけだから」
いつも以上に優しい口調のリクに、本気なんだとエレオノーラは感じる。リクが自分を心配してくれている事も理解できる。でも、だからといって素直に従うなんてことは、少女の選択肢の中にはなかった。いや、元々選択肢など一つしかないのだが。
「やだよ。一緒にいたいの」
「エレオノーラのことを思って言ってるんだけど、分からない?」
「それは、分かる。でも…一緒にいたいの。まだもう少しだけ、一緒にいたいの」
子供のように同じ事を繰り返す少女の瞳がリクとエルネスティを交互に見ながら、先ほどよりも大粒の涙を零す。そんなエレオノーラを見て、エルネスティも同意するようにじっとリクに視線を注いだ。
「じゃあ、その子を殺すの?」
ふと、リクが声を抑えて言う。穏やかなのは変わらないが、その奥に冷たいものを含んだ声に、エレオノーラの真紅の瞳が大きく見開かれる。まっすぐに見つめてくるリクと視線を交わらせているのが辛くなり、逸らそうとした少女に、青年は明らかに冷たい声で告げる。
「逸らすな」
「え…?」
「本当にその覚悟があるのなら、目を逸らすな」
静かな重みのある言葉にエレオノーラもエルネスティも、言葉を失う。何を考えてリクがそんなことを言ったのか理解できない。いつも優しい青年の厳しい言葉に、エレオノーラの心の中に何かふつふつと湧き上がるものがある。温かな、でも激しいものが湧き上がってくる。それがなんなのか分からないけれど、今ここで、リクの視線から逃れるなんてことは、もう既に諦めているような気がしてならなかった。自分の体に逆らってやると思ったことも、エルネスティとのことも、諦めてしまっているような気がした。
だから、揺らぎ始めていた眼差しに光を持つ。まっすぐに一瞬でも離さないように、リクの明るい赤の瞳を真紅の瞳で見据える。身体が震えてしまうけれど、それをなんとか支えてもらいながら、じっと大好きな青年を見て、言葉を唇に乗せようとしたとき、リクの後ろから誰かが姿を現した。
リクの立つ場所からすぐ後ろに見える自分の家の裏門から、何人かの姿が見える。
双子の妹たちとフェリクスだった。それぞれに色合いの微妙に違う赤い瞳が、向かい合うリクとエレオノーラ、そして見知らぬ人間、エルネスティを見て、何も言わないまま立っていた。
以前、エレオノーラから聞いたエルネスティの名前にリクは聞き覚えがあった。もうリク自身、長い間血を欲したりしないが、その最後の欲求があった時、奪った女性の最期の言葉が「エルネスティ」だった。栗色の髪の美しく若い女性。幼い子供を抱き締めて自分に抗おうとしていた女性の泣き顔と、それを奪って抱き締めた感覚を思い出す。その赤に総身が震え上がり恍惚としたのを思い出す。その子供が今、成長して目の前にいる。それがなんとも不思議な感じがした。
リクが思い出していることを、エルネスティもまた思い出していた。母の泣き顔と自分を守ってくれようとした腕の中。震える自分をきつく抱き締め、赤の瞳を見せまいとしてくれていた母の温かな腕を、簡単にそれは奪っていった。自分の名前を叫びながら連れ去られてしまった母の声は、今もしっかりと記憶の中に残っている。一生忘れる事などできないその光景を、苦しさと悲しさに彩られているそれを思い出して、目の前が真っ赤になりそうなほどに神経を逆撫でられている。
「本当なの…。先生…?」
不意にエレオノーラがリクに問いかけた。聞こえるか聞こえないかの儚い声で、涙で滲む視界にリクを入れながら少女は声をかける。しっかりとエルネスティに抱き締められて、何とか立っていることができる状態であるが、今ここで聞かなければ、きっと一生何も分からないままだろうと思ったから。
「嘘はつかない。本当だよ」
穏やかな声でリクも返事をした。黒衣に包まれたその長身の身体から少しだけ力を抜いたリクは、エレオノーラにいつものように優しく声をかけた。
「俺も、いろんな人間の命を奪ってきたからね。これだけは否定できない。それが種族だし俺達にとってはあたり前の事だから…。その子の母親を奪ったのは、俺だよ」
リクの言葉に、エルネスティは歯を食いしばって目を逸らした。エレオノーラの肩に顔を埋めるようにして、泣き出しそうな叫びだしそうな、溢れる声を我慢できないように呻いた。全身を強張らせて、必死に耐えている少年の身体を、エレオノーラは細い腕を伸ばして抱き締める。守りたくてそれしか出来ないけれど、大きな身体を抱き締めて、柔らかな栗色の髪の毛を撫でた。
力一杯抱き締めてくるエルネスティの腕の中は、正直苦しいくらいだ。でもそうする事で、今爆発しようとしている感情を抑え込んでくれているのなら、エレオノーラは耐えることができた。
「ごめ…ごめん…」
どうにもならないその力加減に、エルネスティは震える声でエレオノーラに謝った。こんな細い身体を抱き締めるにはあまりにも強い自分の腕を解くことが出来ない。今解いてしまえば何をするか分からなかった。
「良いよ。私なら、平気…」
それにエレオノーラが優しく声をかける。何も心配は要らない、私のことは大丈夫と、何度も声をかけてその髪の毛を撫でる。
そんな二人を見ているリクの瞳に翳るものがある。清らかなつながりを持つ二人をこのまま許してあげたいと思う反面、やはりどうにかしなくてはいけないと思う気持ちが、いつも冷静で聡明な青年の中でない交ぜになってくる。明るい赤の瞳に映る二人は、純粋すぎる心の持ち主だと思う。何も知らないままに互いを認め合い、好きになっていった少年と少女の間に、誰も何も入る事など本来はしてはいけない事なのだろう。今日初めて見たばかりのリクにさえ、その姿は美しく見える。でも二人の関係は二人にとっても良くない事だと、リクは思う。血をほしがる感覚を知っているリクだからこそ、それは本当に心配でならない。どうにも出来ない欲求が魂のそこから湧き上がるそのときに、エレオノーラがエルネスティを襲ってしまう事は火を見るより明らかな事だ。その後のことを考えると、少女を妹のように可愛がる青年にとっても、身を切られるように辛い事だった。
「エレオノーラ」
リクがまた優しく声をかける。その瞳に少女への愛情を持って、穏やかな笑みを湛えてエレオノーラを見つめた。
「こっちにおいで。もうこれ以上はいけないことだよ」
「な…に?何を言ってるの?」
エルネスティの腕の中で、少女は身じろぎして青年を見つめた。
「もうこれ以上、その子に関わってはいけない。自分が辛くなるだけだから」
いつも以上に優しい口調のリクに、本気なんだとエレオノーラは感じる。リクが自分を心配してくれている事も理解できる。でも、だからといって素直に従うなんてことは、少女の選択肢の中にはなかった。いや、元々選択肢など一つしかないのだが。
「やだよ。一緒にいたいの」
「エレオノーラのことを思って言ってるんだけど、分からない?」
「それは、分かる。でも…一緒にいたいの。まだもう少しだけ、一緒にいたいの」
子供のように同じ事を繰り返す少女の瞳がリクとエルネスティを交互に見ながら、先ほどよりも大粒の涙を零す。そんなエレオノーラを見て、エルネスティも同意するようにじっとリクに視線を注いだ。
「じゃあ、その子を殺すの?」
ふと、リクが声を抑えて言う。穏やかなのは変わらないが、その奥に冷たいものを含んだ声に、エレオノーラの真紅の瞳が大きく見開かれる。まっすぐに見つめてくるリクと視線を交わらせているのが辛くなり、逸らそうとした少女に、青年は明らかに冷たい声で告げる。
「逸らすな」
「え…?」
「本当にその覚悟があるのなら、目を逸らすな」
静かな重みのある言葉にエレオノーラもエルネスティも、言葉を失う。何を考えてリクがそんなことを言ったのか理解できない。いつも優しい青年の厳しい言葉に、エレオノーラの心の中に何かふつふつと湧き上がるものがある。温かな、でも激しいものが湧き上がってくる。それがなんなのか分からないけれど、今ここで、リクの視線から逃れるなんてことは、もう既に諦めているような気がしてならなかった。自分の体に逆らってやると思ったことも、エルネスティとのことも、諦めてしまっているような気がした。
だから、揺らぎ始めていた眼差しに光を持つ。まっすぐに一瞬でも離さないように、リクの明るい赤の瞳を真紅の瞳で見据える。身体が震えてしまうけれど、それをなんとか支えてもらいながら、じっと大好きな青年を見て、言葉を唇に乗せようとしたとき、リクの後ろから誰かが姿を現した。
リクの立つ場所からすぐ後ろに見える自分の家の裏門から、何人かの姿が見える。
双子の妹たちとフェリクスだった。それぞれに色合いの微妙に違う赤い瞳が、向かい合うリクとエレオノーラ、そして見知らぬ人間、エルネスティを見て、何も言わないまま立っていた。
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