今宵、真紅の口づけを

1

 魔族側の森のすぐ傍に、エレオノーラの家はある。そのギリギリまで、エルネスティは送ってくれた。エレオノーラの家が見える距離まで、見付かれば何があるか分からないその距離までを送ってくれた少年に対して、エレオノーラは深く感謝して、愛しさを募らせる。
「ありがとう」
 嬉しさと、離れなければいけない寂しさとで複雑な表情を見せながら、少女は背の高い少年を見上げた。
「うん。また…」
 エルネスティも離れたくない気持ちは同じだが、いつまでもここにいることもできない事は理解している。繋いでいる手を、ゆっくりと解き、静かに数歩離れた。優しい光の燈る栗色の瞳が、赤い瞳を見つめてくる。それに泣きそうなくらいにエレオノーラは心を揺さぶられた。
「離れたくない…」
 こんなに距離を感じてしまうことを初めて知った。たった数歩なのに、たまらなく遠く感じてしまう。手の届かない距離が苦しくて、切なくて、涙が込みあがってくる。少女は自分の意思とは関係なく、言葉を零して涙を真紅の瞳に湛えた。
「泣くなよ…」
 困ったように、でもエレオノーラが泣いてくれた事が嬉しくて仕方がないといった様子で、エルネスティは小さく笑って、また少女に近づいて、その震えながら泣いている身体を抱き締めた。
「また、明日。会いに来るから」
「…ん……うん」
 穏やかな少年の声と腕に、エレオノーラは何度も頷きながら涙を拭う。世界がここだけになれば良いと、子供じみた事を考えてしまう自分に呆れてしまって、思わず笑いが込みあがってきた。
 自分の腕の中でクスクスと笑い出したエレオノーラに、エルネスティはキョトンとして見下ろす。
「何笑ってんだよ」
「なんでもないよ」
 エレオノーラはまだ笑いながら少年を見上げて言った。緑の少なくなった森の中に、栗色の髪の毛がやけに綺麗に見えた。日差しを反射するその温かみのある長めの髪の毛を、エレオノーラは細い指でさらりと掬う。
「エルネスティの髪の毛、好きだなぁ」
「髪…?」
「うん。温かくて綺麗な色」
 にっこりと笑った少女の顔を見て、エルネスティは虚を突かれた顔になってまじまじと少女を見た。
「お前の髪の方が何倍も綺麗だと思うけど」
「…そう?」
 言われた事が分からないように少女も虚を突かれた様な顔になる。それがおかしくて、二人で笑い合った。 こんな、きっと他人が見れば何がおかしいのかも分からない会話でも、二人なら笑う事ができる。これも心を通い合わせてから初めて知ることが出来た。小さすぎる、でもとんでもなく幸せなことだということを、エレオノーラもエルネスティも実感した。
 二人が別れを惜しんでいるその時、誰かの気配をエレオノーラは感じた。弾かれたように振り返った赤い瞳に映ったのはリクだった。焦香色こがれこういろの髪の毛と明るい赤の瞳の青年がじっと、無表情で少女と少年を見ていた。 
 いつも穏やかな青年の綺麗な顔に表情がないというだけで、エレオノーラは背中の寒くなる思いがした。思わずエルネスティの腕にしがみつくようにして寄り添った。
 そして気づく、少年の身体が震えていることに。
「エルネスティ?」
 自分の頭上にある少年の顔を見上げたエレオノーラは大きく息を飲んだ。強張る少年の顔がきつく、鋭い目でリクを見つめていたからだ。
 憎悪としかいえないその眼差しが、叩きつけるように、突き刺すようにリクに向けられている。激しい焔をちらつかせて一瞬でも離さないというように瞬きすらしないエルネスティを見て、エレオノーラはどうして良いか分からなくなった。ただ少年の腕を掴んで、リクとエルネスティを交互に見た。
 そんな二人の前で、黒衣に身を包んでいるリクが、僅かに微笑んでエレオノーラの名前を呼んだ。
「エレオノーラ、おかえり」
 あまりにも穏やかなその声に、エレオノーラはビクッと体を跳ねさせた。怒られているわけでもないのに、なぜかリクを怖く感じてしまう。
 リクは特に笑うでもなく怒るでもなく、微笑を顔に張り付かせたまま、少女をもう一度呼んだ。
「エレオノーラ。こっちにおいで」
 そう言って、綺麗な手を差し出してくる。その手に反応したのはエルネスティだった。エレオノーラを抱き込むようにして、視線だけはリクに縫いとめて睨みつける。瞳の中に激しい焔を持ったまま、少女をギュッと抱き締めた。
「エルネスティ?…どうしたの?」
 驚く少女はあまりにも強い腕の中に顔を顰めて少年を見つめる。
「……こいつだ」
「え?」
 低められた少年の声は若干震えている。怖いのか怒っているのか分からない抑揚のない口調で言う。
「こいつが、一人目の吸血族だ」
 一人目。
 それにエレオノーラの真紅の瞳が限界まで見開かれる。エルネスティは二度、家族を赤い瞳に奪われている。一度目は母親、二度目は姉。そして最近幼馴染までも。その一度目ならば幼い頃に失った、大切な存在。きっとまだまだ甘えたい頃だっただろうエルネスティの母を奪った。それが。
「リク先生…なの?」
 混乱してしまった少女は、揺らぐ視線をリクに向ける。感情が一気に昂ぶってきて、心臓が早鐘のように鼓動を刻み、ざわりとした戦慄が駆け抜けた。
 少女が信用している大好きな青年と、最愛の少年とがこんな関わりを持っているなんて思いもしなかった。信じられなくて、揺らめく赤い瞳が否定してほしくてリクを見つめる。 
 しかしリクは二人の前で身動き一つしないまま、小さく息を吐いた。緩やかな風に、黒衣の裾がふわりと舞う。
 長いような短いような沈黙の後、青年は重い口を開いた。
「やっぱり、あのときの子供だったのか……」
「うそ…」
 リクの言葉は否定ではなかった。形の良いリクの唇から零れた言葉が、エレオノーラの鼓膜を震わせて身体に染み込んで行く。そして大粒の涙を零れさせる。
 自分の腕の中で身体の震えを止めることができない少女を、少年は一層力を入れて抱き締めた。大切な宝物を抱き締めながら、自分の中で暴れ狂う感情を抑えようと必死だった。
 目の前の赤い瞳の青年は、何を考えているのか分からない表情でそんな二人を見ていた。
 

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