今宵、真紅の口づけを

2

 ただ一緒にいるだけで、こんなに切なくて温かくて泣きたくなることがあるんだと、エレオノーラは再確認した。風は冷たいけれど、それでもそっと触れてきてくれる少年の手の温かさが、身体ではなくて心を温めてくれる。大きな手に包み込まれている自分の手を見て、少女はホッと息を吐いた。
 今二人は森の中を歩いている。エルネスティがエレオノーラを送るためだ。エルネスティがエレオノーラの手を繋ぎ、半歩前を歩くような形で、歩いていた。
 黒の上下のエルネスティはいつもの軽やかな服装ではなくて、しっかりとした大人びた印象を見せていた。元々エレオノーラより背も高く体格の良い、無愛想なほどに表情のあまり出ない顔のせいか、少女より一つ年下には見えない。
「どうしてた?」
 ふと前を向いたまま、エルネスティはエレオノーラに問いかける。
「え?」
「この一ヶ月、どうしてた?」
「それは……」
 あまりにも大きすぎる質問にエレオノーラは言葉を上手く選べない。なんと言えば良いのか。悲しみと後悔と、そして少年に会いたいという気持ちの中で揺れ動いていたとは、簡単に表現できなかった。
「…痩せたな」
 また前を見て歩きながら少年は言う。
「……そう?」
「ん。元々細かったけど、また細くなってる」
 確認するように、少年らしい手がエレオノーラの手をぎゅっと握った。
「顔も、なんか疲れてるみたいだし、ちゃんと食ってるのか?」
「それは…エルネスティもだよ」
 久し振りに見た少年もまた、やつれた印象を持っていた。親友をなくし、家族のいないエルネスティの毎日を思うと胸が痛くなってくる。
「俺は…こんなもんだ」
 くすりと笑ったエルネスティは視線を少女に流して、少しだけ穏やかな笑みを見せる。それは今までエレオノーラに見せていた微笑にはまだ遠いが、それでもあの叫んだときとはまるで違っていて、エレオノーラは心底ホッとした。
 森の中は枯葉が風に滑り、木々は寂しく、何もないような感じがする。それでも二人の歩く音が優しく吸い込まれていく。少年と少女のささやかな時間を見守るように。
 途切れ途切れの会話をしながら、ゆっくりと歩いた。時間なんて止まってしまえば良いと思いながら、二人は歩いて、ある場所に着いた。
 それはいつも会っていたところ。二人で、時には四人であっていたところ。川のせせらぎと花の咲き乱れていた場所にも冬の風は通り抜ける。全く違った景色の中で、一人の青年のいなくなった世界もまた違って見えた。川の畔に立ち、エルネスティは黙ってしまった。その栗色の瞳の中に様々な感情の色を秘めて、黙って俯いて、何かに耐えるように立っていた。エレオノーラの手を握ったまま黙りこくる少年の顔を、真紅の瞳は見上げている。少しでも、共有したいと思って、エルネスティの辛さも悲しさも苦しさも分け与えてほしくて、その深い愛情を持った瞳で少年を見つめた。
「なんで吸血族なんだ」
 低められた声でエルネスティは呟いた。
「え?」
「……なんでお前は、赤い瞳を持つ種族に生まれたんだ」
「どういう、こと?」
 何を言われているのか分からない。虚を突かれたようになった真紅の瞳に、栗色の視線が止められる。まっすぐに見つめるその瞳に、エレオノーラはまた言葉を失う。
「お前が普通の人間なら良かった。人間同士なら…良かったと思う」
 エルネスティの心が映り込んだような綺麗な栗色の瞳は、揺れ惑っていた。どうしたら良いのか分からないと、まっすぐにエレオノーラに訴えてくる。憎しみと愛情の中に、少年の心は引き裂かれてしまいそうに揺れていた。
「こんなに憎いのに、でも嫌じゃないなんて。俺はどこかおかしいのかもしれない…憎んで……心底憎んできたお前たちなのに、アーツまで俺から奪ったのに、それでも嫌じゃないなんて。嫌いになれないなんて…正直、辛いんだ」
 そういってエルネスティは視線を落とした。その肩が僅かに震えている。心の葛藤に苛まれて、その葛藤が溢れそうになっている。無造作に結っているさらりとした髪の毛をかき上げて、少年は大きな溜息をついた。自分を押さえ込むように長い溜息をついて、それからまた視線を上げてエレオノーラを見た。その瞳に涙がうっすらと浮かんでいた。
「でも……好きなんだ、お前が」
「………」
 一瞬何を言われたか、エレオノーラは理解できなかった。まっすぐに向けてくるその瞳を見返すことも、その場に立っている事すら出来ないくらいに心をかき乱されてしまって、何も感じなくなってしまった。
 ただ、涙が溢れた。堰を切ったように、止まらなくなった。声を出す事も出来ない少女の瞳から、大粒の涙がいくつも溢れては白い頬を伝って落ちて行く。少年の忌み嫌う赤い瞳から零れるそれは、何よりも美しく、エルネスティには見えた。青かった瞳から、こんなに赤くなった少女を見ても、やはりその気持ちは消えはしない。悩んで苦しんでも、消えなかった。ただ愛しくて、自分から何もかも奪っていった種族でもなんでも、少女だけは特別だった。
 アーツの死んだあの日も、殺してやりたいと思った。エレオノーラもヴェルナも、何もかも殺してやりたいと感情が爆発した。そうしなかったのは、ひとえに愛情があったからだ。深く根付いたその清らかな部分がエルネスティを踏みとどまらせた。そしてそれに戸惑い、感謝した。人としてしてはいけない事を止めてくれてありがとうと、エレオノーラたちが立ち去った後、エルネスティはアーツの亡骸を抱き締めて泣きながら感謝していた。
「ほんとに…?」
 消え入りそうな声で聞き返してきたエレオノーラに、エルネスティは小さく頷く。もうこれ以上言葉は見付からないといった様子で。
 心は近いと思っていた。すぐ傍にあると感じていたけれど、恥ずかしがりやで口数の少ない少年から聞かされた、シンプルで、でも何よりも伝わる言葉は重たくて温かくて、夢のような言葉だった。
 エレオノーラの止まらない涙を、エルネスティは拭ってやる。きめ細かい肌をした頬にいくつも流れるその綺麗な雫を拭っていた手が、ふと自然にエレオノーラの頭を抱きこんだ。そして両手で少女の身体を抱き締めた。
 大きな腕の中に取り込まれるようになったエレオノーラは驚いてその瞳を見開く。背中に回されたエルネスティの腕は、優しくなだめるように、守るように少女を包み込んだ。
「もう、会えないかと思ってた…」
 少年の声が震えていた。大切な宝物を抱き締めるように、エルネスティは力を入れてエレオノーラの細い身体に腕を絡めて、また言葉を零す。
「会えて、良かった。もう大事なものを無くしたくないんだ。だから、お前の事もなくしたくない」
 エレオノーラの髪の毛に頬を寄せて来る少年の、呟くような囁くようなその言葉を聞いて、エレオノーラもそっと腕を持ち上げた、最愛の少年を抱き締めるために。
「私も、好き」
 やっと、言えた大切な気持ち。たった一言の短い言葉に、全身から解き放たれるような感覚を持つ。
 今だけは、何も考えたくない。
 少年も少女も、同じことを思いながら、互いの体温を共有するためにもっと身体を寄せ合った。

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