今宵、真紅の口づけを

5

 上質の生地であつらわれた黒のロングワンピース、黒い艶やかなくつを履き、黒いコート、そしていつも太陽を受けて輝く金色の髪の毛と、赤い瞳を隠すかのような繊細な模様の黒いレースのあしらわれた帽子をかぶったエレオノーラは、家族の誰にも見つからないように庭を抜けて外へと続く門を開けた。
 朝日が透き通る光を少女に注ぐ。空は綺麗に晴れ渡っていた。あの日のように。
 視線を伏せて、一つ大きく息を吐いて、すぐ近くにある森に向かうために一歩踏み出したとき、後ろから声をかけられた。
「なんでそんな格好をしてるの?」
 いきなりの問いかけに、エレオノーラは思わず身体をビクッとさせて振り返る。そこにいたのはリクだった。焦香色こがれこう色の緩やかなウェーブのかかった髪を綺麗にまとめ、フィンチタイプの眼鏡をかけている穏やかな青年は、エレオノーラをじっと見つめている。
「あ、あの…これは…」
 リクのやや怪訝にも見える視線に、エレオノーラは言葉をつまらせる。今自分の着ている服は、喪服だからだ。そして、それはリクもよく分かっているだろうことは理解している。
「様子を見に来たんだけど、その服を着てるってことは…」
 エレオノーラとヴェルナに何があったのかを聞いていたリクは、黒い洋装の少女を見て何かを察した。いつも穏やかな青年の顔に、困ったような色が浮かぶ。少し離れていたエレオノーラとの距離を縮めながら、眼鏡の奥の明るめの赤の瞳を細めた。
「どこに行くつもり?」
 やや硬い声で問いかけてきたリクに、エレオノーラは無言で見返す。ヴェルナがアーツの命を奪った日。エレオノーラの家に駆けつけてくれたリクには理由を伝えた。そしてそのときに言われた事がある。
『もう人間と関わってはいけない』
 それはリクなりの優しさであり、正論。人間を食としてしか見れない吸血族が、関わるなど本来あってはならないこと。どれだけ親密になろうとも、一旦本能を目覚めさせれば、それは友人から「食べ物」に変わるのだから。
「俺が言ったこと、分からないエレオノーラじゃないよね?」
 声音は優しいが、いつもより硬い雰囲気を持つその問いかけに、少女はやはり何も答えない。ただ黙って真紅の瞳で青年を見て、小刻みに身体を震わせている。
「エレオノーラ?」
 青年は心底心配していた。人間を好きなったことを知っていたリクの、何よりも恐れていた事がおきてしまったからだ。まだ、今回はヴェルナだった。しかしそれだけでもヴェルナも勿論、エレオノーラの受けた衝撃もかなりのものだ。それならば、この少女が、好きな少年を襲ったらどうなるのだろう。それを考えただけで、妹のように少女を可愛がるリクにはたまらなくなることだった。
「俺のお願いだと思って、家の中に入ってくれないかな」 
 優しく、なだめるリクの声に、エレオノーラは小さく首を横に振った。震える喉からなんとか声を絞り出す。
「謝りたいの…」
「…誰に?」
「アーツに」
「エレオノーラが?何のために?何もしてないのに?」
 リクの声がますます硬くなる。怒っているのかとも取れる声音に、それでも少女は気持ちを吐露する。
「私じゃなくても、私の生まれた種族がした事だもの。アーツの命を奪ったのは、吸血族だもの。だから謝りたいの。もう会えないし、そんなことをしたくらいじゃ許してもらえないのも分かってる。でもせめてお墓の前で謝りたい」
 苦しさで涙が滲む。やはりアーツを失ってからの毎日の中で苦しみも悲しみも増している。真紅の瞳に滲んでくる熱いものに、エレオノーラは何度か唇を噛み締めながらリクを見る。
 そんな少女の前まで歩いてきたリクは、そっと零れた涙を長い指で拭ってやりながら、諭すようにエレオノーラに言う。
「エレオノーラ。これは悪いことじゃないんだ」
「え…?」
「俺達はそういう種族なんだから、人間を死なせてしまうことは悪い事じゃない」
 そう思いこんでいないと、やってられない。それがリクの本音だが、そこまで言わない青年の言葉を少女は理解できないし、出来るほど思考は冷静ではなかった。
「なんで…そんなことを言うの?」
 幼子のように赤い瞳が揺れる。何も縋るところのない気持ちが、カタカタと震えてくる。足元が一気になくなったように、ふらりと体が傾きそうになって、エレオノーラは思わずリクの黒衣に掴まった。
 今にも泣きじゃくりそうになっているエレオノーラの肩をやさしく抱き締めるようにしてリクは言葉を零す。
「今も昔も、俺達の種族が人間を殺してしまったことには変わりがない。でもこれは俺達が生きるためなんだから、仕方のないことなんだよ。それに、今、その人間のお墓に謝っても、エレオノーラだって、同じことをするんだよ?」
 同じ事。
 その言葉に、少女は身体を強張らせる。息をするのさえ忘れてしまうかと思うくらいに、心臓がいやな鼓動を刻み、痛くなる。
 夢の中で感じるあの恍惚が、現実になる。
 いや。
 そんなのいや。私は何も奪わない。
 誰も殺さない。
 そんなことしたくない。
 でも…私の中の何かはそれを許してくれない。
 どこかから、聞こえるようにそんなことを考えていた真紅の瞳が、背の高いリクの視線と交わった。
「私は、そんなことしない」
「エレオノーラ?」
「私は血なんかほしがらない!誰も、何も奪わない。絶対に!」
 いつの間にかエレオノーラは叫ぶように声を出していた。自分に言い聞かせるように言った言葉に、リクは明らかに驚いていた。何を言い出したのか分からないように、聡明な青年は少女を見下ろしている。その明るいリクの赤い瞳を、真紅の瞳がしっかりと見つめたあと、エレオノーラは目深に帽子をかぶりなおして、大好きな青年に背を向ける。
 森に向かうために。

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