今宵、真紅の口づけを

2

「ヴェルナッ」
 どれくらい時間が経ったのか。
 震える足でなんとか立ち上がり、エレオノーラはアーツにしがみつくようにしていたヴェルナの身体を引き離す。エルネスティはぐったりとしたアーツの身体をその腕に抱き止め、意識のない青年の顔を見て絶句した。
 その顔があまりにも幸せそうで、エルネスティは呆然としてアーツを見つめるしか出来なかった。
「ヴェルナ…ヴェルナ…」
 エレオノーラの声はヴェルナには殆ど届いていない。自分を抱きしめる腕があるのは何となく理解はしているが、あまりにも深い恍惚とした感覚に自我を包みこまれているせいだ。一緒に地面に座り込んで、泣きじゃくる幼馴染を、そのぼんやりとした濃い紅の瞳が、かすめるように捉えたが、反応はない。
 エルネスティの腕の中で、アーツはもう息がなかった。長い睫毛を持ち上げて、その美しい翡翠色の瞳を見せることのない青年の顔を、エルネスティは震える手でそっと撫でた。自分よりも年が上なのに、無邪気で明るい性格のこの青年を、エルネスティは家族以外で一番信用していた。優しくて誰とでも仲良くなれる人間性も、頑固なほどに相手を信じ、そして一途なところも。何もかも、エルネスティには眩しく見えていた。
 それがなぜこんな事にならなければいけないのか。
 自分から家族だけではなく、大切な幼馴染まで奪ってしまった赤い種族に、エルネスティは真っ黒い闇と共に言葉には尽くせない負の感情を募らせる。全身が震える、心まで震えてしまって、涙も出ない。昔、限界まで引き裂かれた心が、まだ裂かれていく。これでもかと抉り取られる自分の大切な核となるそこを、少年は黙って受け止めた。受け止めるしか出来なかった。抗う力すら、今はない。
 ただその栗色の髪の毛の間から覗く同じ栗色の、透き通った瞳をエレオノーラの抱きしめる少女に向けた。
「エルネスティ……」
 その視線を受けたエレオノーラは最愛の少年の名前を呼んだ。どうして良いか分からない少女は、真紅の瞳から涙を零すしかできない。
 目の前で命がなくなった、
 その衝撃はあまりにも大きかった。しかも奪ったのは自分の大好きな幼馴染で、奪われたのもまた大好きな友人だ。
 こんな事があって良いの…。
 エレオノーラもまた、心の引き裂かれる思いだった。震えの止まらない身体で、細いヴェルナの身体を抱きしめているしか出来ないエレオノーラに、栗色の瞳は無情にも冷たくて憎しみの篭った視線を投げかける。
「行ってくれ」
 低められた声が、エレオノーラの鼓膜を打った。
「………え?」
「行け」
 もう一度、そして冷たさを増した声が聞こえる。しかし動揺の激しいエレオノーラは満足に自分の体を動かすことすらできない。赤い瞳が揺らめき、座っているだけでもやっとの状態だ。
「頼むから行けよッ!!」
 森の中に、エルネスティの絶叫に近い声が響いた。まだ温かなアーツの身体を抱きしめ、その胸元に顔を埋めて、エルネスティは叫んだ。泣き声は聞こえないが、その長身の身体がひどく小さく、そして震えている。
「アーツ…アーツ…なんで、こんな…。目、開けてくれよ。頼むから…な?」
 シャンパン色の柔らかな髪の毛を、何度もその少年らしい長い指で梳きながら、エルネスティはアーツに呼びかける。二度と笑う事も、その瞳をエルネスティに向ける事もない青年の身体をとても愛しそうに、宝物のように抱きしめて、少年は話しかけた。アーツの首筋にはっきりと残る二つの赤い痕。そこに指を這わせて、弾かれたように手を離し握り締めた。
 エルネスティの顔に一瞬走った、どうにもならない怒りと悲しみと憎しみの色が、瞬く間に増幅して全身を駆け抜ける。総毛立つほどに自身の身体も脳も神経も興奮しているのが分かった。感覚全てが刺激されて覚醒していくような、爽快感にも似た暗黒の闇が少年を容赦なく襲い、アーツの身体を折れるのではないかと思う力で抱きしめた。
 壊れる。
 壊れたい。
 壊してしまいたい。
 壊れれば良い。
 何もかも、壊れてなくなれば良い!
 何をといわれたら分からないが、とにかく何かを壊したくて仕方ない衝動に駆られる。気のふれそうな感情の波が、少年の口から出口を求めて零れ始めた。
「う…あ、は、はは…」
 狂気じみた、背筋の寒くなる、小さな、しかしはっきりと聞こえる声に、エレオノーラは目を見張った。無造作に結われている栗色の髪の毛が顔を隠しているために、エルネスティの顔を見る事は叶わないが、その地の底から上がってくるような声は、普段の少年からは想像もつかないものだった。
「エル………」
「あ、あ……う、ああああああああああぁぁッ!!」
 全身を撓らせて、エルネスティは叫んだ。人間の喉からこれだけの声が出るのかと驚くくらいに、周りの木々を揺らすのではないかと思うくらいに、エルネスティはその魂からの感情を解き放った。
「俺の前から消えてくれッ!!」
 大きく息を吐きながら、少年は少女にそう怒鳴った。感情をむき出しにした眼差しと声に、エレオノーラは震えあがって返事も出来ない。それに、エルネスティがまた言った。
「頼む、消えてくれないか…今は、今だけは…その赤を見たくないんだッ!!俺にその汚れた赤を見せるなッッ!!」
 怖かった。
 ただひたすらエレオノーラは怖かった。普段、口数のあまり多くない無愛想な、しかし根底はとても優しい少年が、こんなに苦しんでいる事が。エレオノーラにはたまらなく怖かった。
 この人がなくなってしまう。崩れてしまう。
 そう感じたが、エルネスティの向けてくる感情に、エレオノーラはなすすべもなかった。受け止めることもできないあまりにも深くて激しい負の感情に、ただ黙ってその場から、まだ自我の戻らないヴェルナの腕を引っ張って、無理矢理立たせて、逃げるように離れるしか出来なかった。
 少女達が、金色と黒の髪を揺らしながら離れていく様子を、栗色の瞳は一瞬も逃さないように見つめる。
 そうだ。俺から離れろ。今の俺は、お前を殺してしまう。だから離れろ。お前だけは。
 守りたいんだ。
 どうしようもなく荒れ狂う自らの中の、僅かにそれに抗うように見せるエレオノーラへの愛情の部分が、そう言っているのを感じながら、涙も出ない瞳で見ていた。
 

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