今宵、真紅の口づけを

3

 急激に体調は悪くなった。五日ほど、何も食べられなくて、眩暈と共に耳鳴りや熱が出た。人それぞれだと言う変化は、エレオノーラは重いほうだったようだ。
 家族やヴェルナも心配して、甲斐甲斐しく看病をしてくれた。リクも、薬を毎日持ってきてくれて、その度に顔を見せてくれた。それは温かくて、エレオノーラは自分の周りに優しさが満ちている事に感謝した。
 そして、熱が引いて少しだけ調子の良かった朝、鏡を見て少女は驚愕した。
 真紅だった。
 緋でも、朱でもない。本当に赤い。真紅の瞳があった。青なんて色は最初からなかったかのように、深い深い赤の瞳が、鏡に鮮やかに映し出されていた。長い睫毛の下で妖しく光る自分の瞳に、全身が震えて力が入らなくなり、エレオノーラはその場に蹲るように座り込んだ。
「こんなに…赤いの…嘘」
 ひとりでに零れた言葉の自覚さえなかった。弱々しく零れ出た声は、自分のものじゃないようにエレオノーラの鼓膜を打つ。まるで誰かが耳の傍で話しているような感覚だ。
 もう一度、鏡台に縋るように立ち上がり、自分を映し出す。そこにはやはり赤い瞳の自分の姿しかなかった。艶のある腰まで長い金色の髪の毛、見慣れた顔。そして異質なほどに輝く真紅の瞳。
「嫌ッ!」
 思わず、鏡台の上にあった手鏡を投げつける。派手な音と共に、どちらの鏡も割れて砕けた。
 こんなの私じゃない。
 分かってはいたつもりだった。エルネスティに言われた日から、赤になる自分を覚悟したつもりだった。でも青と赤のあまりにも違いに少女は混乱しきって、飛び散った鏡の破片の中で、頭を抱え込むようにして嗚咽を零す事が精一杯だった。
 エルネスティは、これを見たらどう思うのだろう。私のこの目を、許してくれるのだろうか。
 家族を奪った記憶に直結する瞳を持った自分を、吸血族の象徴を持った自分のことを、今までと変わらず見て、笑ってくれるのだろうか。
 そう思うと、怖かった。嫌われたくない、。
 ただ、自分でさえ衝撃を受けたこの赤い瞳を、他人がなんとも思わないはずはない。恐ろしいまでに赤いこれを。
 少女の涙は、美しい赤の瞳から、青のときと同じように幾筋も零れ落ちていた。
 柔らかな絨毯の上で、蹲り泣くエレオノーラの部屋のドアが、そっと開けられる。隙間から顔を覗かせたのはヴェルナだった。肩で切りそろえられた髪の毛が、首をかしげた拍子にさらりと流れる。見舞いに来た少女はドアから覗き込み、幼馴染が床に蹲っているのを見てその濃い紅の瞳を大きく見開いた。
「エレオノーラ!?」
 倒れているとでも思ったのか、ヴェルナは慌ててエレオノーラの前に走りより、その細くて震える肩を抱き起こした。そして幼馴染の顔を、瞳を見て更に目を見開く。
「その目…」
 それ以上言葉は出なかった。ヴェルナ自身の瞳も、濃くて深い紅の瞳だが、エレオノーラの瞳はそれ以上に鮮やかさを持って、ヴェルナの瞳に映りこんだ。深くて淡くて、綺麗で妖艶で、純粋な真紅の瞳は、誰よりも美しくて、禍々しさすら感じるほどに荘厳だった。
「ヴェルナ。こんなのやだよ…」
 涙をいっぱいにためた赤い瞳のエレオノーラが、ヴェルナ縋りついて泣きじゃくった。それを両腕の中に収めるように、ヴェルナは抱きしめた。
 自分にも覚えがあった。朝起きて、かつて青かった瞳から、赤になった時は嬉しさと共に戸惑いと、あまりにも違うその二つの色の違いに違和感を感じたものだった。
 今ではヴェルナはもうすっかり慣れている。赤い瞳も、嫌いじゃない。でもエレオノーラは違う。根本的に、ヴェルナとは違う感情を持ってしまっている。人間を好きなって、赤い瞳にも自分の種族にも、嫌悪感と罪悪感と戸惑いを持った少女には、この真紅の瞳は脅威以外にはないだろう。
 エレオノーラの小さな体から迸るような泣き声を、ヴェルナもまた必死になって受け止めた。自然と、濃い紅の瞳から涙が零れた。ぽろぽろと零れるそれは、抱きしめたエレオノーラの肩に落ちて行く。
「大丈夫。あんたは変わらない。なんにも変わらないよ…」
 金色の髪の毛を何度も撫でて、ヴェルナは呟く。
「どうしよう…」
「どうもしなくて良いよ。エレオノーラはそのままで良い。自分に正直にいれば良い」
 言って、ヴェルナはエレオノーラの顔を覗き込んだ。真紅の瞳に、いつもどおりに笑いかける。黒い前髪の間から見えるその濃い紅の瞳には優しくて温かい感情が滲み出ていた。
「あのね、昨日エルネスティに会ったよ」
「え…?」
 突然告げられた愛しい名前に、エレオノーラは言葉を失った。それにヴェルナは穏やかに微笑んで言葉を続けた。
「薬草を取りに行った時にね、あの川の傍にいたの。あんたの事心配してた。でね、伝言」
「伝言…?」
「そうよ。『待ってる。どんなエレオノーラでも待ってるから』だって」
 エレオノーラの中に鮮明に浮かぶエルネスティの姿。栗色の髪の毛と瞳と、優しい笑顔が一気に浮かび上がり、愛しさが湧き上がる。体の底から温かくさせてくれるその少年の言葉に、エレオノーラの瞳が笑みの形に変わった。愛情を存分に湛えたその瞳に、ヴェルナは心底二人の結びつきを感じずにはいられなかった。
 エルネスティに会った時、ヴェルナは相当にきつい事を少年に言った。生半可な気持ちでエレオノーラを惑わすなと。家族を奪った事と、エレオノーラのこれからの変化に対して区別が出来るかと。自分のことを嫌おうが種族を憎もうがそんな事はどうでもよかった。でも大切な幼馴染を悲しませる事だけは許せなかったヴェルナは、栗色の少年の真意を聞きたかった。それに、エルネスティは微笑んだ。ヴェルナに向けては、初めて、あの穏やかで優しい笑みで返事をした。
「大丈夫」 
 たった一言だけではあるが、重みがあったのをヴェルナは感じた。きっと悩んだだろう、ここまで来るには、悩んで自分の心の矛盾に苦しんだはずだ。そしてこれからも悩んだりするかもしれない。もしかしたら苦しむだろうけれど、それでも少年は微笑んだ。どこまでも深く優しく。
「だから、エレオノーラはそのままで良いんだよ」
 そんなエルネスティの笑みを思い出して、ヴェルナはもう一度エレオノーラを抱きしめて優しく囁いた。
「もし、あんたがエルネスティを襲いそうになったら、私が止めてあげる」
 いつか、エレオノーラが言った言葉をヴェルナは返す。自分だっていつまた血を欲するかは分からない。でもとにかく今は落ち着けてあげたかった。欲しくなかった変化を与えられた幼馴染をなんとかしてあげたくて、ヴェルナも必死だった。
「私は、エルネスティを守れる?」
 不意にエレオノーラはヴェルナに尋ねた。この間、自分に誓った事を肯定して欲しくて、よりどころを探すように、ヴェルナのクリーム色の服をキュッと掴んで問いかける。
「…うん」
 その自信はヴェルナにはなかった。でもここでエレオノーラの希望を潰してしまえるくらい非情にもなれないヴェルナは、ただ頷いた。
 それに、エレオノーラは蕾が綻ぶかのごとく、儚くて愛らしい笑みを見せた。

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