今宵、真紅の口づけを

5

 太陽が高くなり始め、森の中にも明るい光が差し込む。秋の心地良さに変わりつつある風が、金色と栗色の、それぞれの髪をふわりとなでて通り過ぎた。
 エレオノーラとエルネスティは今、魔族側の森にいる。
 しっかりと手を繋ぎ互いを確かめながら、ここまで戻ってきた。もうエレオノーラの家は目と鼻の先。しかしここから、どちらも前に進もうとはしない。進めないといった様子で、特にエレオノーラは躊躇っていた。
「大丈夫か?」
 心配そうに、エルネスティは少女の顔を覗き込んだ。それにエレオノーラはぎこちなく微笑む。青い瞳に不安がありありと浮かんでいるのをエルネスティは見逃さなかった。
「ついて行ってやろうか」
「だめ。そんな事できない」
 人間の血を何よりも求める種族の前に、エルネスティを晒すなんて出来るはずもない。強く首をふってエレオノーラは拒否する。
「私は大丈夫」
 気丈に笑う少女の顔をしばらく見ていたエルネスティは、小さく溜息をついて、それから微笑んだ。ふんわりとした優しい顔で、背の低いエレオノーラを見下ろして、大きな手でその金色の髪の毛を撫でる。
「明日、待ってる」
「え?」
「いつものところで、待ってるから」
 やはり恥ずかしいのか、少しだけ顔が赤い。その様子にエレオノーラまで頬に熱が集まってしまう。手を繋ぐ事にもなかなか慣れない少女には、少年のちょっとした反応が驚くほどに心に響く。素直に嬉しさが込みあがり、泣きすぎて腫れてしまっている瞼の下の、青い瞳が愛らしい笑みの形に変わり栗色の瞳を見つめた。
「じゃあ、お昼からで良い?」
「ん」
「分かった。楽しみにしてるね」
 明るい声でそう言ったエレオノーラは繋いでいた手に少し力を入れて、エルネスティの感覚を確かめると、名残惜しそうに指をほどいた。
 途端に寂しくなる。でもこれ以上はここにいてはいけない。家に帰らなければいけないのだから、けじめはつけなければいけない。
 寂しさに弱音を零しそうになって、少女はまた明るいく微笑んだ。
「ありがとう。エルネスティ」
 にっこりと笑ったエレオノーラに、エルネスティも小さく微笑んだ。二人で手を振り合いながら、少年は人間の町に、少女は魔族の町にと別れる。早く明日になって欲しいと思いう半面、暗い気持ちがあっという間に、エレオノーラを覆い尽くした。
 森からすぐのところにある自分の家。夜中に黙って出て行ってしまったのは初めてだ。きっと自分がいないことも、家族は気付いているだろう。心配して探しているのかもしれない。そう思うと、迷惑をかけたことに対する申し訳なさに胸が痛む。
 青い薔薇の庭を通り抜け、そっと玄関の扉を開ける。エントランスホールには誰もいない。ホッと息を吐いたエレオノーラは、そのまま自分の部屋に向かおうと階段を上がりかけたところを、後ろから声をかけられた。
「エレオノーラ、おかえり」
 振り返ると、カトリネがいた。赤い瞳の妹は普通に声をかけてきた。
「あ、ただいま…」
「ヴェルナのところに行ったんだって?朝いなくてびっくりしたよ。ちゃんと行くなら行くでパパとママに言わないと」
「…え?」
 キョトンとするエレオノーラに、カトリネも同じようにきょとんとした。
「あれ。夕べ遅くにヴェルナの家に泊まりに行ったんじゃないの?朝ヴェルナがそう言ってたよ。で、朝方まで話をしてたから今寝てるって」
「…ヴェルナが…。そ、そうなの。ごめん。まだボーっとしてるかも」
 エレオノーラはごまかすように笑ってカトリネに答えて、そのまま階段を上がろうとした。その時、何気なく近づいてきたカトリネがふと首をかしげる。
「人間の匂いがする」
「え?」
「…エレオノーラの体から、人間の匂いがする」
 言われて、エレオノーラは全身を強張らせた。自分では分からないエルネスティの感覚を妹に気付かれた。何度も確かめるように鼻を近づけるカトリネの表情が、恍惚を纏い始める。以前にフェリクスが見せたのと同じ顔。
「な、何かの間違いじゃない?」
「そんな事ないよ。これは絶対に人間の匂いだもん。なんでエレオノーラから匂うの?まだ欲しくないでしょ?」
「当たり前でしょっ。欲しくなんかないよ」
 そう、欲しくなんかない。絶対に。
 無邪気な仕草で近づく妹に、一瞬強い憎悪にも似た感情を持ったエレオノーラは慌てて後ずさり、そのまま階段を駆け上がった。
「あ、エレオノーラ。夕方にはフェリクスが来るから、夕食は皆で食べるんだよー」
 のんきにも聞こえるカトリネの言葉にも返事をしないまま、エレオノーラは自分の部屋に入り、そのまま椅子に座り込んだ。
 私、さっきカトリネになんて思いを持ったんだろう…。
 一瞬でも、はっきりとした憎しみがあった。嫌悪感も持った。あの恍惚の表情が怖くて憎くて仕方なかった。
「カトリネは妹なのに…」
 もうどんなに考えても、やはり血を求める事に理解の出来ない少女には、人間の匂いなんて分からない。そんなに魅力的な匂いなのか。知りたくもない事を考えて、胸の悪さを感じる。
 ヴェルナも、そう思うの?
 ふと、自分を助けてくれた幼馴染を思い出した。きっと機転を利かせてくれたんだろう。さりげない優しさに、昨夜の事を謝りたい気持ちもあって、ぽろりと涙を零した。
「ありがとう、ヴェルナ」
 濃紅こいくれないの綺麗な瞳。その大切な幼馴染を嫌いになることなど出来ない。赤も吸血族も、自分の中では大きく変わってしまったけれど、ヴェルナと言う存在は、やはり好きだ。怖さはある。ヴェルナがヴェルナじゃないように思えたから、どうしてもそれは拭えない。
「でも。ヴェルナの事は好きだよ」
 一人の存在を思えば、どこまでもエレオノーラの大事な幼馴染はヴェルナだった。
「謝りに行こう。いっぱい嫌な事言っちゃったし」
 大きく溜息をついた少女は汚れてしまっていた服を脱ぎ、淡いオレンジ色のワンピースに着替えた。そのまま髪の毛を整え、鏡で顔を確かめる。
 うん。青い瞳だ。
 それだけで、まだ自分はあの人の傍にいることが出来る。
 それだけで、心の中にいる少年が微笑んでくれたような気がした。
 

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