今宵、真紅の口づけを

3

 どのくらいフラフラと彷徨ったのか。もう森の影すら見えない人間の町の中で、エレオノーラは疲れ切った身体を休めたくて、路地に入った。細いその道の、一軒の家の壁に凭れかかり、そのまままた地面に腰を下ろした。
 白い、室内用にと母が送ってくれた丈の長いワンピースも、土で汚れている。しかしそんな事はもう気にもならなかった。足も痛むし、泣きすぎて目も痛い。きっと髪の毛も乱れているはずだが、もうどうでもよかった。
 涙がまだ治まらない。こんなにも泣いたのに、まだ心は悲鳴を上げている。滲む視界で、屋根に遮られた夜空を見上げた。自分達の町から見るのも、ここから見るのも、夜空の美しさは同じなんだと初めて知った。綺麗な星と蜂蜜色に輝く優しい月は、人間でも吸血族でも同じように光をくれる。
 それに、また泣けてくる。
 煉瓦の壁にもたれて、膝を抱えるように泣くエレオノーラの耳に、どこかの家から鳴いている犬の声が聞こえた。離れていても、自分の気配が分かるのか、犬はけたたましく吠えていた。
 しばらくそのまま座り込んでいたが、青い瞳はふと開かれ、ゆっくりと立ち上がった。犬がうるさくしては周りの家に迷惑がかかるだろうと思ったからだ。どこまでも少女は他人のことを考える。
 身体は疲弊していた。精神的なことが大きいのは自分でもよく分かっているが、ここまで疲れているなんて、どこか自分はおかしいのかとさえ思ってしまう。とにかく、横になりたい。身の置き所のない倦怠感に軽く眩暈を起こして、エレオノーラはその場にしゃがみこんだ。
 その間にも犬の騒がしい声は治まらない。
「どうしよう…動けない」
 ポツリと呟いた声は弱々しく涙の混じる声で、誰もいない空気にいとも簡単に飲み込まれてしまう。俯いた視線には、茶色い土しか見えない。
 金色の髪の毛が地面につくくらいにへたり込んだエレオノーラの腕を、突然誰かが引っ張り上げた。力強いその手に驚いて顔を上げると、そこには栗色の瞳と髪の毛の少年。エレオノーラの中にいる大切な少年の姿があった。
「なんで…?」
 あまりにも突然すぎて言葉が出ない。見開いたその青い瞳に映るのは、確かにエルネスティだ。しかしエルネスティ自身も驚いているのか、栗色の瞳を見開いている。
 少しの間、互いが何も言わずに沈黙した。表情の読めない少年の顔に、エレオノーラは再び目に涙をためて顔を歪ませた。何を言っていいか分からない感情がそのまま涙に代わる。大粒の涙はとめどなく白い頬を伝っていった。
 それを見たエルネスティは、また力いっぱいに細いエレオノーラの腕を引っ張り立ち上がらせると、そのまま腕の中に抱き込んだ。
 背の高いエルネスティに抱き込まれたエレオノーラは、驚いて身動きすら出来なくなってしまった。ただ、背中に回る長くてしっかりとした最愛の人の腕の感触が、染み込むように感じた。
「お前、こんな所で何してんだよ」
 身体越しに聞こえる低い声。少し怒っているように聞こえるのは、驚きと、なぜここで泣いているのか分からない苛立ちと、泣いている少女をなんとかしたいという思いからだった。
「私…」
「ん?」
「ヴェルナが…ヴェルナが…変わってしまって…」
「うん」
「それで…こわ…怖くて…どうしたらいいか分からなくて…私…」
「そうか」
 混乱するばかりの少女に、エルネスティは優しく返す。艶のある髪の毛をなでながら、落ち着かせようと穏やかな声で返事をして、そして温かな大きな手で、幼子にするように何度も背中をぽんぽんと叩いた。
「それで、ここで泣いてたのか?」
「森の場所が…分からなくなって、ここがどこなのかも分からないの…」
「俺の家に来ればよかったのに」
「家…知らないよ」
 エレオノーラの言葉に、エルネスティは一瞬黙って、それからくすくすと笑った。
「それもそうか。じゃあ、ついてたなお前」
「え?」
「ここ。俺の家だ」
 そう言って視線を流した先は目の前の家だった。エレオノーラは驚いて栗色の瞳を見つめた。それにエルネスティはふんわりと微笑み、青い瞳を見下ろす。
「なんかどっかの犬が騒いでると思ったから窓から見てみたんだ。そしたらお前がいるからびっくりした」
「そうなの?」
「あぁ。まさかと思ったけどな。…とりあえず、家に入れ」
 腕をほどいてエルネスティは言った。エレオノーラはきょとんとして少年を見る。
「お前の格好、結構ひどい。それにここじゃゆっくり話も出来ないし」
 言われて見下ろした自分の姿は、汚れて確かにひどいものだった。夜中に話をするにもふさわしくない場所だったし、エレオノーラは素直にエルネスティの言葉に従う事にした。
 重い木の扉を開けると、そこはシンプルな造りの家だった。大きなソファーのある部屋に通されたエレオノーラは「すぐに戻る」と言ったエルネスティの事を待つ事になる。
 落ち着かず、立ったまま青い瞳は部屋の中をぐるりと見渡した。殺風景ともいえるのは、少年の一人暮らしのせいか。何もないような感じのする部屋は妙に寂しげだった。
 そこにふと、暖炉の傍にある絵に視線が止まった。女の人と、女の子、そして男の子の肖像画。近くに寄ったエレオノーラはそれが誰を描いたものなのか一目で理解する。
 エルネスティの家族。
 エルネスティと同じ栗色の瞳と髪の毛の、女性と女の子。母親と姉。
 どちらも、少女の種族の犠牲になった、エルネスティの大切な、二度と手に入らない幸せ。
 そう思った瞬間に、ここにはいてはいけないと、エレオノーラは感じる。
 自分はこの家に入ってはいけない。ここは、あの人の大切な場所。穢してはいけない。
 ひどく、この家の中で自分は異質に見えた。エレオノーラは慌てて出て行こうと踵を返す。その時、後ろから声がした。
「エレオノーラ?」
 エルネスティがやや驚いた様子で現れた。それにエレオノーラは怯えながら答える。
「ごめんなさい。私ここにいちゃいけない…」
「は?」
「だってここはエルネスティの大切な場所でしょ?お母さんとお姉さんの思い出のある、大切な場所だから、私なんかがいちゃいけないの」
 エレオノーラはまさしく逃げようと、また踵を返した。エルネスティはとっさに走りより、エレオノーラの腕を掴む。
「ここにいろ」
 真剣な声に、青い瞳はまた最愛の人の姿を捉える。その瞳に映るのは、先ほどの声からは想像もできない穏やかな表情のエルネスティだった。
「そんなこと言わずにここにいろ。俺は…お前なら良いって、前も言っただろ」
 恥ずかしそうな顔になったエルネスティは、俯き加減にそう言って、またエレオノーラを抱き寄せた。
 温かな言葉と腕の中に、治まっていた涙が溢れ、子供のようにすがり付いて少女は泣いた。
 

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