今宵、真紅の口づけを

1

 エーヴァとカトリネの二人が揃って、人間を襲ったと、聞かされた。
 夜中に誰かが家から出て行ったのは知っていたのだが、それがまさか人間の住むところに行っていたとは、エレオノーラは思ってもいなかった。
 ……いや。
 本当は、気付いていた。
 でも怖くて何も言えなかった。確認する事すら出来なかった。ただ震えてベッドの中で夜を明かしていた。
 誰を、襲ったのか。考えるだけで泣きそうになる。どんな顔であの双子達に会えばいいんだろう。
 話を聞いた日の夜に、エレオノーラは涙を堪えながら窓から見える蜂蜜色の月を見ていた。
「エルネスティ。会いたいなぁ…」
 窓辺で小さな溜息をついて、心に住む愛しい少年のことを想う。少しづつ、確実に、距離が縮まって来ているのを感じる日々を過ごしているエレオノーラとエルネスティは、森で穏やかに時間を共有し、大切な気持ちを育んでいた。
 あの日の頬への軽いキス以降は、手を繋ぐだけの関係ではあるが、それでも以前より頻繁に会い、楽しくて温かい感情を際限なく持てる相手との時間は幸せでしかなかった。
 想えば、それだで幸せで、自然と青い瞳が笑みの形に変わる。窓から柔らかい月明かりに照らされる青い薔薇の咲く庭を眺めていると、門の前を誰かが通った。
「………」
 時間は深夜に挿しかかろうとしている。エレオノーラは自分の瞳に映ったその姿に、思わず息を飲んだ。
 ヴェルナだ。
 遠目でもはっきりと分かる、黒髪に濃紅こいくれないの瞳がはっきりと見えた。真っ黒な、漆黒とも言えるようなロングドレスを着たヴェルナが闇に紛れるように、音もなくエレオノーラの視界を横切った。
「ヴェルナ…?どこに、行くの?」
 声が震える。身体までガタガタと震えだす。しかしエレオノーラは弾かれたように自分の部屋から飛び出した。あわただしく階段を駆け下りて、エントランスホールを走り庭に出る。
 だいぶ秋めいた風の通り抜ける庭を一目散に走って、通りに飛び出すが既にヴェルナの姿はない。
「まさか。…ヴェルナもなの?」
 小さな独り言は誰にも拾われずに月夜に吸い込まれていく。その静かな空間で、白の室内用のワンピースを着た金色の髪の毛の少女の姿が月明かりに浮かび上がり、幻想的な空気を纏っていた。
「…森を抜けるの?」
 家の後方にある木々を見つめて少し考える。でもこのまま家の中に入る気にはなれない。エレオノーラは大きく一つ呼吸をして、そのまま走り出した。森に向かって。
 森の中は暗くて昼間とはまるで違う雰囲気になっていた。初めて感じたその空気に悪寒がする。そこかしこで低俗な魔族の気配がして、軽い吐き気すら伴う。陰湿な気配は、エレオノーラが吸血族だからなのか、この地域に住む魔族の中で一番強い一族のせいなのかは分からないが、舐めるような視線と気配を感じさせるものの、その姿は見せない。
 怖さに足がすくむ。深い迷路のようにさえ感じる森の中を、エレオノーラはただまっすぐに進んだ。突き抜ければ、そこには自分達と違う種族の住む町がある。行ったことのないそこを目指して、少女はただ走った。
 ヴェルナの姿は確認することは出来ない。赤い瞳になると体力まで変わってくるのかと感じながら、息が切れて苦しくても足を止めずに前を目指した。
 どれくらい時間が経ったのかは分からないが、月の位置が少しずれている。そのやけに優しいと感じる明かりが木々の間から差し込み始めて、森の深さが変わったことに気付く。もう少しなのか。そう思っていると、エレオノーラの視界が一気に開けた。
 自分達の暮らす町並みと良く似た家の並ぶ一角に出たのだ。魔族よりも人間の方が人口は多いため、数も格段に違う。大きな町なのかはエレオノーラには分からない。この国から、と言うよりも、この森を抜けたことすら初めてなのだから。
 すっかり早くなってしまった鼓動と呼吸を整えるようにゆっくりと歩きながら、青い瞳は初めての場所にキョロキョロと視線を巡らせた。静まりかえった細い通りを歩いているが、ヴェルナの気配はない。
 どこまで行ったんだろう…。絶対にここには来てるはずなのに。
 長く走ったせいで足が痛む。でもそんな事は言ってられなかった。ヴェルナの事が心配で、それと、確かめたかったのもある。
 本当に血を、命を奪うのか。
 悪あがきのように、エレオノーラは彷徨った。もしかしてもう手遅れなのかもしれないと思いながらも。
 その時、ふと気配を感じた。いつも一緒にいる大切な幼馴染の気配。それに心臓が嫌な鼓動を刻む。
 一軒の家の中に強くそれを感じて、エレオノーラはそこを見上げた。大きなレンガ造りの家。庭があって、そこにはエレオノーラの家と同じ、美しく花が咲いていて、子供がいるのか遊び道具がいくつかあった。
 一度感じてしまえば、その気配は確信させるようにはっきりとしたものになった。
 ここにいる。
 そう言っている。金色の髪の毛を風に躍らせながら、少女はただ黙って立っていることしかできない自分がたまらなく嫌だった。
 このまま乗り込んでしまいたいけれど、そこまでの勇気がない。見て確認したかったのに、やはり怖い。赤い瞳が、吸血族が、自分の本来持っている性質が。本能が。
 そして、ヴェルナが。
「う、そ…ヴェルナの事…私、今なんて思ったの…」
 自分の考えに、エレオノーラは愕然とした。闇夜でも綺麗に輝く水のような青い瞳が見開かれ、恐ろしさに立っていられなくなる。その場にしゃがみこんで、先ほどよりももっと嫌な鼓動を刻む胸元を押さえて俯いた。
 目頭が熱くなる。こんな事を考えてはいけない。そう思えば余計に怖さは増幅する。息苦しくて眩暈を起こしそうになってそのまま、ペタンと地面に腰を下ろしてしまった。元々白い顔が色をなくして、青みを帯びてしまうほどに血の気が引いた。
 今この家の中では何が起こっているのだろう。なんとかしなければいけないのだろうけど、動く事もできない少女は、呆然として夜の深い闇に飲まれそうな自分を、その場に留めるだけで精一杯だった。
 青い瞳から、涙が溢れている。それを止めることもできないまま、しばらくしたとき、ヴェルナの気配のする家の二階の窓がかすかな音を立てて開いた。
 エレオノーラの鼓膜を震わせるその音に導かれるように視線を上げると、黒い影がふわりと地面に降り立った。
 肩で切り揃えられた艶やかな黒髪に濃紅の美しい瞳の、エレオノーラの見慣れた少女。大好きな誰よりも自分の味方をしてくれる、ヴェルナ。
 青い瞳に映った幼馴染の顔に、思わずエレオノーラは小さな悲鳴を上げた。
 ヴェルナはいつもとは全く違って、妖艶で残酷なほどに煌びやかに輝く赤の瞳、そして白い顔には恍惚とした微笑みを浮かべている。その形の良い笑んだ唇からは、闇夜にはっきりと分かる純白の牙をのぞかせていた。

 
 

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