今宵、真紅の口づけを

4

 うす曇の天気のもと、エレオノーラは少し早く来てしまった川の傍にいた。ドキドキして眠れなかったために、頭がボーっとしている。でもそんな事はあまり気にならなかった。
 今日は約束をした日。
 こんなときは時間の経つのが遅く感じる。持て余すように、空を見たり川を見たり、キョロキョロとその綺麗な青い瞳は動く。その様子はまるで好きな人の姿を探すかのように。
 やがて、気配を感じる。一歩一歩近づいてくるその気配に一層胸は高鳴り、苦しささえ感じるほどに甘い感覚がエレオノーラの中で広がっていく。
「お…」
 不意に姿を現したエルネスティは、エレオノーラがいるとは思わなかったのか、少し驚いた顔で青い瞳を見つめた。
「あ、こんにちは」
 ぎこちなく頭を下げると、エルネスティもこくりと、恥ずかしそうに頷いた。無造作に結われた髪の毛がさらりと輪郭をなぞる。白いシャツと黒いズボン姿の少年は黙ってエレオノーラの前に立ち、すいと手を出して明るい金色の髪に触れた。掠めるようにその長い指がエレオノーラの額に触れて、またドキドキと心臓が忙しく鼓動を打った。
「な、何?」
 顔が赤くなるままにエレオノーラは問う。
「葉っぱ」
「は?」
「これ、ついてた」
 エルネスティがこれ、といったのは濃い緑色の葉。ここに来る途中についてしまったようだ。
「あ、ありがとう…」
「ん」
 短いやり取りしか出来ない少女と少年は、そのまま黙りこくってしまった。でも瞳だけはお互い彷徨いながら時々、その姿を確認する。決して交わらないように。
「今日、ヴェルナは?」
 地面に腰を下ろしながらエルネスティはエレオノーラに尋ねた。大きな手で隣に座るように促しながら。
「後から来るって言ってたよ。なんか忙しいって。アーツは?」
「あいつももうすぐ来るはず」
「そっか。あ、最近クリフは一緒じゃないの?」
 以前、一緒に連れてきていた犬の事を尋ねると、エルネスティは少しだけ顔を赤らめて小声で答えた。
「お前が嫌がるかと思って、あれからつれてきてない」
 あれから。
 クリフを見たのは、もうかなり前なのに。それから一度も?
 いつ会うかも分からないエレオノーラの為に、エルネスティはずっと犬を連れて来ずにいた。クリフが本能的にエレオノーラを拒絶して威嚇してしまうからだ。魔族という気配は動物の方がよく分かる。一回だけではあったがそれを目の当たりにして、エレオノーラはショックを受けた。それにエルネスティは気を遣って森に犬を連れてこなくなった。
「私のため?」
 嬉しくて、顔が綻んでしまうのを止められない。
「そうなる、のか…?」
 エルネスティの顔がどんどん赤くなる。
「だって、それしか………どうしよう…」
「…何が?」
 エルネスティがキョトンとすると、エレオノーラは幸せそうに微笑んだ。透き通る青い瞳が栗色の瞳を見て笑みの形に変わる。
「クリフには悪いけど、でも嬉しい」
 あまりにもストレートな感情と言葉にエルネスティは言葉を失ってその目を見開いた。花が咲くと言う表現がぴったりなエレオノーラの笑顔に目を奪われてしまって、何も言えなくなる。
「ありがとう、エルネスティ」
「……うん」
 目を逸らして、ただ頷く事しかできない少年を、エレオノーラはたまらなく愛しくなって、そっとその手に触れてみた。エルネスティの大きな手が、不意に触れてきた少女の感覚に小さく跳ねた。
「なに…?」
 横顔だけではあるが、真っ赤になった少年にエレオノーラもつられて赤くなってしまう。
「触りたかったの…だめ?」
「そんな事ない…けど」
「けど?」
 何か言われるのかと思って、エレオノーラはその先を促した。だがエルネスティは何も言わない。赤い顔のまま、視線をちらりと流して、おもむろに自分に触れてくる細い手をきゅっと握り締めた。
「ちゃんと、繋げよ」
 恥ずかしそうな低い声と、それに反するような力の強いしっかりとした手。少年らしさと大人が交じり合うような骨ばった指が、エレオノーラの白くて華奢な指に絡められた。
「…うん」
 肌という、自分とエルネスティを隔てるものがなくなりそうな、溶け合ってしまいそうな穏やかで愛しい熱に、幸せと言う花が咲く。
 こんな事だけでも、たまらなく涙が出そうになる。青い瞳が彷徨いながら、視界の端にエルネスティを治めると、そこには穏やかな笑みを見せる少年がいた。
 どうしてこの人はこんなに優しく微笑むんだろう。
 いつもは無愛想な様子しかないエルネスティの笑顔は、ふんわりとしていて、それでいて僅かに寂しそうにも見える。でもどこまでも優しい。栗色の綺麗な瞳は深くて、でも淡くて、温かい。きっと悲しい経験をしてきて沢山泣いただろうその瞳の中に見える温かさに、エレオノーラは心惹かれてしまったのだと改めて感じた。
 やはり、それから先はあまり話せない。話すことで、手に向かっている意識を逸らしたくないとも思うし、でもエルネスティのことを知りたいという気持ちもあって、エレオノーラは若干混乱する。純粋な思いが育まれれば育まれるほど、その奥底に澱のように重なる現実と言う、目を逸らせない事も深く感じてしまう。
 でも、今だけは、考えたくない。
 青い瞳に宿るその暗闇を押し殺すように、エレオノーラは目を閉じた。触れるものだけを感じようと。エルネスティの感覚と、二人の間に流れる初めてといっていいこの小さな幸せに、身を委ねていたかった。
 いつか会えなくなるまで、私の中にエルネスティを沢山刻みたい。明日かもしれないその別れを考えてはいけない。このまま、穏やかな時間を思い出に出来るように。エルネスティが魔族を嫌うのは止められない。でも少しでも印象を変えたい。私がそれを出来るのかは分からないけど。
 そう思って、エレオノーラは微笑んだ。透き通る青い瞳でエルネスティを見て、ふんわりと愛らしい笑顔を見せた。
「エルネスティ」
 呼びかけられて、栗色の瞳が青い瞳を捉える。そのまままた穏やかに微笑んだエルネスティに、エレオノーラは心臓の高鳴りに任せるままに、そっと近づいて顔を覗き込んだ。
「ありがとう」
「……」
 長い睫毛に囲まれた大きな青い瞳は、エルネスティの心を鷲摑みにした。こんなに綺麗な瞳は見たことがない。やはり尋常でないような美しさに、少年もまた、少女に対して感情を根こそぎ持っていかれるようなうねる波を心に持った。
 どちらもお互いを特別に感じている。種族だとか憎む相手だとか、憎まれているだとか、取り巻く環境を加味しても、やはりそれでもその激しさを秘めた心を捨てる事などできない。
 これから先のことを考えたくないのは、エルネスティも同じだった。
 もし、この青い瞳が赤く変わったとき、自分がどんな行動に出るのか、もう分からない。憎い赤になった少女を想像もしたくない。
 エルネスティはそっと目を閉じて、近くにあるエレオノーラの頬に自分の唇を寄せた。
 あまりにも素直な感情の表れに、エレオノーラも、そして自分自身も驚いてしまって、その後はヴェルナとアーツが現れるまで、目を合わせることすら出来なかった。
 一瞬しか触れなかった互いの心の奥底に、それはそれは満たされた気持ちになったことは、しっかりと繋いだ手が互いに教えあっていた。

 

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