今宵、真紅の口づけを

2

 エレオノーラは自分の考えている事が怖すぎて、何も言えなくなった。
 変化する事が怖くて、ヴェルナの体に起こっていることが怖くて、今目の前にいる青年にもそんな事があったのかと思うと、怖くてたまらなかった。
 そしてそれは、自分にも起こる事。
 リクは、小さく震え続けている少女に、なぜそこまで怖がるのか分からなかった。確かに、昔自分にもあった成長という変化。怖かったのも本当だ。自分の意思とは関係なく、赤い血を求めいていく本能に戸惑い、それに抗えないまま、対象となる者の命を奪った。
 何人も。変化の完成まで。飽く事のない衝動が、人間の命を奪っては、恍惚に飲まれていく自分が怖くて悩んだ。しかし、成人してしまえば、それは夢だったのかと言うほどの儚さで思い出されるだけだ。罪悪感も、正直ないに等しい。
 それが、変わり続けた吸血族の在り方なのかもしれない。残忍さと非道さが薄れても、確かに残る本能に対して持ち主の心が病んでしまわないように、記憶が薄れるのか、麻痺するのか。リクには分からない。ただ、変化の時期を過ぎた自分は、情け程度に残った本能などなくなってしまえばいいと思うけれど、でもそれほど悪い事のようにも思えなかったりもする。きっと、それを感じ続けるには、自分はあまりにも年を重ねてきているせいだと思う。
 しかし目の前にいる少女は、未だ水のような透き通る青の瞳で、何かを考えて異常に怯えている。憧れの裏を知ったことで、その清らかな心の中に、葛藤を持ち合わせて泣いている。それが何か、リクは明るい赤の瞳で泣く青い瞳を見て、疑問をぶつけてみた。
 細いエレオノーラの手を、大きな手で包み込んで、出来るだけ優しい眼差しで見つめて、一呼吸置いてから言葉を唇に乗せた。頭を掠めた僅かすぎるほどの考えを。
「エレオノーラ…最近何かあった?」
「………え?」
 突然の、ぼんやりとした問いかけに、涙に濡れた瞳はキョトンとした。リクはその大きな瞳に小さく笑って返す。
「ごめん、これじゃあ何言ってる分からないよな」
 エレオノーラの指を、滑らかにくすぐりながら、リクは目を細めて単刀直入に問いかけた。
「好きな人、出来た?」
「……………」
 返事は顔に現れた。揺らぐ青い瞳と、相手を想って赤くなった頬に。
「……それは魔族?…それとも人間の男の子?」
 リクは『魔族』と答えて欲しかった。人間を軽視するつもりもないが、やはり種族が違う相手だと思いなくなかった。しかしエレオノーラの顔が曇り、苦しそうなものになって、リクは重苦しい気持ちに満たされる。
 エレオノーラは、小さな小さな声で、一言言うのがやっとだった。
「人間…」
 言ってしまうのはなんて事のない短い単語なのに、それでもエレオノーラは大きく息を吐き出だしてから言うのがやっとだった。
「そう…それで変化したくないって言った?」
「ん…だって私が変化したら、きっともう会えなくなるんでしょう?」
「そりゃ…欲しくなるからね」
「そんなのやだよ…エルネスティの事そんな風に見るなんて」
「エルネスティ?」
 リクはその名前を繰り返して、一瞬何かを考えるように瞳を伏せた。それは何か思い出して、真っ黒な影を含んだように見えた。
「リク先生?」
 エレオノーラはまたキョトンとしてリクの赤い瞳を見た。訳が分からないが、でもリクのこんな顔を見るの初めてだ。
「え?あ、なんでもない。エルネスティって言うの?その子」
「…うん。栗色の髪の毛と瞳の子。ぶっきらぼうで、あんまり笑わないけど、でも森で迷った私を助けてくれたし、笑ってくれた。私が魔族で、本当は嫌いなはずなんだけど、それでも私なら嫌じゃないって…」
 考えながら言うエレオノーラの顔は無意識に綻んだ。花のような可憐で愛らしい微笑みに、リクまで笑みを浮かべるほどの愛情を見せて。
「そっかぁ。エレオノーラに好きな人がねぇ…」
 しみじみといわれて、エレオノーラの頬が更に赤くなる。しかし、今話していた事を考えると、笑ってもいられないし、自分がどうしたいのかも分からない。ただエルネスティが好きだという以外には、答えは出ないし出したくないようにも思う。
「どうしたら良いんだろう」
 不安を滲ませた声を、リクは拾い上げられなかった。どうにも出来ない問題なのだ。
「俺にも、さすがに答えられない質問だな、それは…」
「…変なこと言ってごめんなさい。先生はいつも私を助けてくれるよ。今日も朝早くからこんな話を聞いてくれて、ありがとう」
 ニコッと笑ったエレオノーラに、リクは申し訳なさそうに微笑んで、気分を入れ替えるようにその金色の髪を撫でた。
「少し、食べようか。まだまだ話なら出来るし。とりあえずおなか減った。エレオノーラも何か食べないと体もたないぞ。俺の家においで、朝ごはん作ってあげるから」
「良いの?」
「勿論。でもあんまり美味しくないかもしれないけど」
 肩をすくめて笑うリクに、エレオノーラは小さく笑った。
 話しても、考えてもどうにもならない事だけど、聞いてもらえて、少し気持ちは落ち着きを取り戻し始めている。涙はふとしたことで零れそうだが、今はもうリクの前では泣きたくなかった。優しい青年をこれ以上困らせたくないし、泣いてばかりじゃ何も見えなくなる。自分の中で燻る暗闇のおかげで、エルネスティの事を好きな自分さえ汚されてしまいそうで、エレオノーラは無理にでも何か食べて、体を動かそうと思った。
「先生?」
 立ち上がって伸びをしているリクに向かって、座ったままのエレオノーラは問いかける。
「先生も、辛かった?大人になるとき」
「…少しね」
 あいまいな表情で言ったリクに、エレオノーラは黙ったまま、ふわりと笑んだだけだった。
 リクは自分のしてきた事を聞かせる気にはなれなかった。
 血の芳醇な香りに眩暈がしそうなほどに高揚したこと。甘いそれに夢中になった事。死に絶えていく人間の体の重みを抱きしめて震えるほどに喜んだ事を。悩みと葛藤の狭間で、確実にそう感じた自分の話など出来ない。
 この純粋な少女には。
 まして…。
 リクの小さな溜息は、エレオノーラには聞こえなかった。

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