今宵、真紅の口づけを

3

「エレオノーラ!見て見てっ!」
 ある日の朝、起きてダイニングに下りたエレオノーラはいきなり元気な声に耳を塞いだ。
 振り返ると、妹のエーヴァがテーブルから立ち上がり駆け寄ってきた。その顔を見て、エレオノーラは目を見開いた。
 一つ年下の、妹の緑の瞳が赤く変化していた。まだはっきりとした赤ではないが、それでも緑とはいえない色で、今までの印象を大きく変えるには十分な変化だった。
「それ…」
「朝起きたら変わってたの。でも、カトリネはまだだよ」
 エーヴァがテーブルを振り返る。そこにはエーヴァの双子の妹カトリネが座ってこっちを見ていた。茶色の髪の毛に緑の瞳の全く同じ容姿の双子は、右目の下に小さな黒子があるのがエーヴァ、ない方がカトリネという、他人ができる唯一の見分け方をしなくてもよさそうになった。しばらくの間のことだが。
 カトリネもエレオノーラに近づいてきて、エーヴァと同じ顔に愛らしい笑顔を見せた。
「もう朝からうるさいんだよ、エーヴァってば。でも少し羨ましいかも」
 肩をすくめて笑う妹に、エレオノーラも笑ったが、内心少し複雑だった。たった一つとはいえ、自分の方が姉なのに、先に変化の現れた妹に小さな嫉妬心のようなものが心の中に芽生える。
「ホント、良いな…エーヴァ」
 思いのほか小さくて頼りない声になってしまって、エレオノーラは慌てて笑顔を作りテーブルに向かった。
 大丈夫、私だって、そのうち大人になれるから。
 とてつもない不安が押し寄せてきそうで、エレオノーラは何度かそう心の中で呟いた。表面上は妹の変化に喜ぶ姉のふりをして。

 朝食を食べ終えたエレオノーラは、庭に出て薔薇の剪定をしていた。青い薔薇が誇らしげに咲き乱れる庭はエレオノーラと母親の手入れの賜物だった。誰もが必ず足を止めて見入るほどの見事な景色のなかで、エレオノーラは鼻歌を歌いながら、今日飾る分の薔薇を丁寧に切り取っていった。
「エレオノーラ」
 母親の呼ぶ声に、ふと顔を上げて声のしたほうを見ると、手招きをされた。
「何?ママ」
 小走りで母親の元に近づいたエレオノーラの視界に、背の高い男が入った。それに思わずエレオノーラは形の良い眉を寄せた。
「人の顔見ていきなりそれはないだろう」
 くつくつと喉の奥で笑うのは、従兄弟のフェリクスだった。二つ年上の従兄弟は、一応エレオノーラの婚約者となっている。吸血族では身内での婚姻は当たり前になっている。特に数が少なくなってきてからは、むしろ何でも良いから数を増やせと言われるほどに、近親婚は盛んになっていた。エレオノーラの家は男子がおらず従兄弟のフェリクスに白羽の矢が立ち、いずれエレオノーラと結婚し家を継ぐ予定になっている。
 黒髪で、赤い瞳のやや冷たそうな顔にからかうような笑みを浮かべたこの従兄弟を、エレオノーラはあまり好きではない。何を考えているか分からないからだ。優しいのに、どこか突き放したように感じるのはエレオノーラの気のせいではないだろうと常々思っている。
「フェリクス。何の用事?」
「愛しい婚約者の顔を見に来るのがいけないことか?」
 エレオノーラに近づいて、手にしていた籠から青い薔薇を一本抜き取ると、それを眺めてフェリクスは言った。薔薇の青さと赤い瞳が対照的に太陽に輝いた。
「だからってこんな昼間から出て大丈夫なの?」
 まだ成人に達していないエレオノーラはそれほど太陽に影響を受けないが、フェリクスは体力を消耗するはずだ。しかしフェリクスがそれに鼻でフンと笑う。
「最近は良い薬が出てるから昼間でも平気だ。まだお前には必要ないものだけどな」
「な……」
 その言葉にいつもは穏やかなエレオノーラも顔が険しくなった。小馬鹿にしたようなフェリクスの言い方に思わず声を荒げそうになって、一度深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「まだ子供ですみませんね」
「本当だな。早く成人してもらわないと結婚がいくらでも遅れてしまう」
「フェリクスは本当に私と結婚したいの?」
 今まで疑問に思っても、相手の心情を悪くさせてしまうかもしれない言葉は言えなかった。もし本当に自分のことを好きでいてくれているならば、これほど失礼な言葉はないからだ。
 しかし先ほどのフェリクスの言い方に、エレオノーラは遠慮もなく聞いてしまった。
「お前と結婚?」
 フェリクスは小さく笑って、エレオノーラを覗き込むように体を折り曲げて笑う。
「俺は別にお前でなくてもいいぞ?…そうだな、エーヴァが変化し始めたそうじゃないか。そっちの方が早く結婚して子供を作れるだろうし、婚約破棄してもいいんだぞ。エレオノーラ」
 エレオノーラは頭を何かで殴られたようなショックを受けた。まるで自分が役に立たない存在だと言われた気がしたからだ。確かに、この従兄弟のことはあまり好きではない。でも心底嫌いなわけでもなく、いずれ結婚しなければいけないならば、好きになろうと思ってきた。それがあまりにもそっけなく言葉を放たれてしまって何も考えられなくなってしまう。
 ヴェルナやエーヴァや他の同年代にある体の変化がない。それだけのことがエレオノーラに小さく傷をつけていく。
「そんなに大切なこと?」
「え?」
「大人になるのが早いって、そんなに大切なことなの!?」
 青い瞳がキッとフェリクスの赤い瞳を睨みつけた。うっすらと涙の浮かぶ瞳がまっすぐにフェリクスを捉える。
「私だって焦ってる。本当は凄く焦ってるんだよっ。でもどうしようもないじゃない!」
 最期は泣き叫ぶように言ったエレオノーラは、籠を放り出して庭から外に出る小さな裏口に向かって走った。
 本当は凄く羨ましい。ヴェルナもエーヴァも。他の友人達も。
 子供が成人するのを何よりも待っているのは大人たちだ。瞳が赤くなると、皆誰もが喜んでくれて、大切にしてくれる。それをここしばらくずっと見てきた。今日だってエーヴァの変化を見た、母親と父親のあの幸せそうな顔がずっと頭から離れない。
 自分も変化していたら。あんなふうに笑ってくれているだろうか。
 日ごろから両親には大切にしてもらっている。それは分かっている。でも最近は自分の焦りばかりでそのことを忘れてしまいそうになる。
 エレオノーラは闇雲に森の中に入っていった。明るい場所を通り抜けて、いつの間にか薄暗い場所に来てしまったのに気付いて脚を止めた。
 どうやら森の中央付近にまで来てしまったようだ。そこは一番木が生い茂り、あまり光が入ってこない。濃い緑が気持ち良い場所ではあるが、夜になると下等な魔族がたむろする、あまり好ましい場所ではない所だった。
「こんな所まで来ちゃった…」
 息が切れてしまって、何度か深呼吸をして落ち着ける。周りには誰の気配もなく、エレオノーラはゆっくりとした歩調で歩き始めた。
 しかし、どれだけ歩いても、来た道には戻らない。
「何で?」
 普段来ない場所だとしても、それなりに土地勘があるつもりだ。なのに全く分からなくなってしまった。鬱蒼と生い茂る木のおかげで、太陽が直接体には当たらない。しかし徐々に体力は奪われているようにエレオノーラは感じた。
「どうしよう…迷ったのかな」
 不安げに揺れる青い瞳が付近をきょろきょろと見渡す。少し周りの木が軽い雰囲気になったが、明らかに自分の知っている所ではなかった。
 大きな木の根が地面から盛り上がっている。エレオノーラはそれに腰をかけて、疲れた体を休めるように膝を抱えて額を細い膝頭につけた。視界が一気にほぼなくなり、何でこんなことになったのかと、フェリクスに対して恨めしい気持ちになる。また、ふつふつと嫌な感情がわき上がって来そうで、俯いたまま長い睫毛を伏せて大きな溜息をついた。その時、
「お前…エレオノーラ?」
 こんな場所で名前を呼ばれるなどとは思いもしなかった。慌てて顔を上げると、そこにはいつかの栗色の髪の毛と瞳を持つ少年がいた。
「エルネスティ…」

 

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