契約のキス 

7

 麗かな春の陽射しが気持ちの良い昼下がり。アンリは聖堂を訪れていた。
 紫の暖簾が緩やかに風に遊ばれるのを眺めながら、店内で椅子に座っている。
「今日は良いお茶が入ったんですよ。どうぞ」
 店主はニコニコしながらアンリにお茶を勧めて、自分もその前に座った。アンリは小さく頭を下げて、一口お茶を口にした。甘味とまろやかさが口当たりの良いお茶に、少し強張っていた顔が綻んだ。
「あっという間ですね、時間は」
 店主の独り言のような言葉に、アンリはこくりと頷いて、その青紫の瞳で目の前の穏やかな男の顔を見た。
「どんな人生でしたか?」
 アンリが尋ねると、店主は少し考えてから、ゆっくりと話し出した。
「そうですね…最初は戸惑っておられました。私のこともなかなか信用しなくて…猫みたいに警戒してましたね」
 その様子が、見たかのように想像できてアンリは静かに笑った。
「一年はかかりましたかねぇ、完全に気を許してもらえるまで。その後は、元々良く働く子だったのでしょう。とても役立ってもらいましたよ。何しろ美人ですからね。このあたりで混血の娘は珍しいですが、それでもあの子の人柄のおかげか、周りに打ち解けて…うちの看板娘になってくれました」
「人柄?あの激しい気性なのに?」
 アンリが驚くと、店主に小さく笑われた。
「お前にどんなことをしたのかは知りませんが、気を許した相手にはとても優しい子です。だから、良い縁にも廻り合えたんですよ」
「良い縁…」
「はい。少し遠くに住まわれている、裕福なお方の下へ嫁ぎました。聖堂に来て四年目の秋に。私のお客様だった方ですが、見目麗しい素敵な殿方です。お前のように」
 最後は明らかなからかいの色を含んだ店主の言葉に、アンリはむっとした顔をした。
「見目はそこそこ麗しいのは認めますが、素敵じゃないです、僕」
「そこそこ…ねぇ。お前もなかなか言いますね」
 アンリは自分で言っておきながら恥ずかしくなって、手にしていたお茶をぐいっと飲んだ。
「貴方には見た目は負けますよ。本当に、いつまでたっても若くて素敵でいらっしゃる」
「私など…たいしたことはありません。人並みです」
 どこをどう見たら、この整った容姿が人並みだと言うのか。心の中で毒づくアンリの前で、店主はしれっと言ってのけて静かに立ち上がった。アンリの前から離れて、暖簾を綺麗な手でふわっと持ち上げる。
「そろそろ、じゃないですか?お前の役目ですよ」
 店主に言われて、アンリの顔に緊張のようなものが浮かぶ。
「そうですね。じゃあ、僕はこれで」
「アンリ」
 店を出ようとしたアンリは店主に呼び止められてその顔を見た。店主は意味ありげな視線でアンリに問うた。
「お前はなぜ、あの子を助けたのですか?」
 それに、アンリはすぐには答えられない。
 どうして?
 それはこの数十年、思い出すたびに問いかけてきたことだ。でも、分からない。はっきりとした答えのないまま、今日まで来た。
「それは、召喚された。それだけです」
 小さな声で答えたアンリ。それに店主は穏やかな笑顔で『そうですか』とだけ答えた。
 店主に向かって頭を下げたアンリは陽射しの温かい春の道に出た。その時、
「また、いつでもおいでなさい」
 店主の声が聞こえたが、そのままアンリは聖堂から離れた。




 高価な調度品に飾られた部屋の中に、アンリはいる。
 そこには家族に囲まれて、一人の女性が布団の中で横たわっていた。懐かしい栗色の髪と白い肌。年を重ねて皺が刻まれた顔ではあるが、その美しい容姿は変わっていない。
 華。久しぶり。
 アンリは他の人間には見えないように、自分の周りに結界を張りそっと枕元に立った。もう意識は深く落ち込み、目を開けることもない華は、少しずつ呼吸することすら終わろうとしている。
 周りには、人のよさそうな端整な顔の男性と、その男性に良く似た青年、そして華に似た少女が二人。華の伴侶と子供達だろう。人生を終わろうとしている妻であり母である華を見送ろうとしている。
「華、約束。忘れただろうけど…僕は覚えてるから果たしに来たよ」
 華の体が、最期の反応を見せるまで、アンリは身動き一つせずその場に立っていた。
 ひくり、と、華の顎が僅かに動いたのを確認したアンリはにっこりと笑って、風を纏って形の良い唇から言葉を零れさせた。それに華の体から赤い液体状のものが溢れ出す。アンリが手にしていた鎌を大きく薙ぐとそれは煌びやかに光を放って空で一つの塊に変化した。赤から、虹色に変わったそれは華の魂。
 アンリの紡ぐ言葉に吸い寄せられるように白い掌に乗ったそれを、鎌に絡まる蔦が歓迎するかのごとく、真紅の薔薇をいくつも咲かせた。
「貴方がたの大切な奥方であり母上である華を、責任を持って常世に案内しますね」
 抜け殻となった体に泣き濡れる華の家族に、深々と頭を下げて、アンリは静かにそこから姿を消した。


「華。行こうか…。次は最初から良い人生の元に生まれてくるといいね」 
 アンリは虹色に輝く華の魂に唇を寄せ、それからそっと抱きしめて、あどけない微笑を見せた。
 こうして契約のキスどおり、アンリは約束を守った。


 

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