契約のキス
5
目の前の光景が、アンリには信じられなかった。
屋敷の前、つまり外で、華が倒れている。長い髪の毛を地面に散らして、うつ伏せに横たわるそれは、アンリが初めて見た日と同じ、緑色の洋装姿だった。
「は、華?」
アンリはその動かない体に向かって、そっと声をかけた。しかし動く様子はない。
まだ魂は入っているから、死んでいるわけではない。それに華の寿命はまだ残っていることもアンリは知っている。
アンリは地面に方膝をつくようにしゃがみこみ、細い華を抱き上げた。ぐったりとしているその体を仰向けにして、顔を見た瞬間に息を飲んだ。
見るも無残なほどに腫れ上がり、血と涙に汚れたその顔は、とてもあの可愛い華ではない。顔だけではなくて、いつもなら見えないように傷をつけているのが、今日は白い肌を捜すのが困難なほどの暴力の後が、目に付いて仕方がない。
「なんで?」
アンリは自分の中でふつふつと何かが湧き上がってくるのを抑えられず、声が震えてしまった。瞳に怒りを滲ませて、目の前にある屋敷を睨みつけたが、当然深夜である今の時間は人の気配ない。
美しい顔をわずかに歪ませて、小さく舌打ちをしたアンリは、大きくて長いローブに、華を包み込むようにして抱き上げると、そのまま月夜に溶けるがごとく姿を消した。
「こんな時間にどうしたのですか?」
もうすっかり寝る準備を整えていた聖堂の店主が、不意に姿を現したアンリに驚きつつも優しく店の中に入れてくれた。そして、アンリの腕に抱かれている存在に、あぁ、納得したように頷き、その痛々しい姿に眉根を寄せた。
「これは酷いですね」
「僕は癒しは使えません。ご主人なら何とかなるでしょうか?」
アンリの言葉に店主はにっこりと笑って頷いた。
「大丈夫ですよ。今布団を準備しますから待っていてください」
店主はそう言い残して、二階へと上がっていった。アンリは華を抱いたまま近くにあった椅子に腰を下ろす。華の体は驚くほど軽く、アンリはその体に受けていた仕打ちを考えると居た堪れなくなった。
どうして僕はこんなにこの子の事が気になるんだろう?
アンリは自分でも、分からない感情に動かされているのが気に入らなくて、整った眉を寄せた。そして、顔色の悪い華を覗きんでいると、微かに瞼が震え、うっすらと目を開けた華と目が合った。
「華?」
「……リ」
「何?」
「アン…」
そのまま、華はまた深い意識の底に落ちていく。アンリは無理には起こそうとせず、そのまま腫れ上がった華の頬をそっと撫でた。その顔は、いつもらしからぬ優しくて穏やかな表情だった。
「今、僕の名前呼ぼうとしてくれた?」
そのことが、アンリには不思議と嬉しく感じた。あんなに強気で人を叩いたくせに。そう思うとおかしくて、でも嬉しい。
「何をニヤニヤしているんですか?」
そこに背後から、からかい半分の声が届いて、アンリは思い切り眉間の皺を深くした。
「いつから見てたんですか?」
「さあ、いつからでしょう?お前も優しい顔が出来るのですね」
店主は笑うのを堪えながらアンリに言う。それにアンリはほんのりと顔を赤らめて睨んだ。
「どういう意味ですか?」
「いいえ。では、その娘さんを二階に運んでくれますか」
アンリはむすっとしながらも、華の負担にならないように静かに立ち上がり、二階へと上がっていった。
ゆっくりと柔らかな布団に華を横たえ、小さく溜息をついたアンリは、店主に向き直り、真剣な顔で問いかけた。
「華の記憶を消すことは出来ますか?」
「記憶?」
「はい。今までの記憶を全部」
店主は少し考えて、アンリを見つめ返して頷いた。
「出来ますが、お前の記憶もなくしますよ。一部だけ消すことは出来ません。残すか消すか、そのどちらかになりますが、それでもいいのですか?」
その言葉に、アンリはしっかりと頷いて返した。
「僕は元々華と出会うはずのない存在です。だから僕のことが消えてしまってもそれはかまいません」
「そうですか。では、この娘さんは私が責任を持ってお世話しましょう。この時代に混血で生きていくのはとても辛いでしょう。それはさすがに私でもどうすることも出来ませんが、ここで働いてもらうことくらいは出来ます。だから、何も心配は要りません」
穏やかな店主の微笑みに、アンリの口からわずかに安堵の息が零れた。それを店主に見られて慌てて咳払いをするが、後の祭りのようだった。
「お前がこの娘さんを気にするのは、罪滅ぼしのつもりですか?」
意地悪な声音で尋ねてくる店主を、アンリは軽く睨んだ。
「そういうわけではありません。…だから言ったじゃないですか。僕は人が好いんですって」
少々むきになって答えてしまって、それが答えになってしまったと、アンリは気まずそうな顔で店主の顔を見た。店主はその整った顔に優しい笑みを浮かべてただ笑っていた。
「……じゃあ、僕は行きますね」
すいっと立ち上がったアンリは、店主に向かって深く頭を下げて踵を返した。その耳に、
「またいつでもいらっしゃい」
と、店主の穏やかな声が聞こえた。
屋敷の前、つまり外で、華が倒れている。長い髪の毛を地面に散らして、うつ伏せに横たわるそれは、アンリが初めて見た日と同じ、緑色の洋装姿だった。
「は、華?」
アンリはその動かない体に向かって、そっと声をかけた。しかし動く様子はない。
まだ魂は入っているから、死んでいるわけではない。それに華の寿命はまだ残っていることもアンリは知っている。
アンリは地面に方膝をつくようにしゃがみこみ、細い華を抱き上げた。ぐったりとしているその体を仰向けにして、顔を見た瞬間に息を飲んだ。
見るも無残なほどに腫れ上がり、血と涙に汚れたその顔は、とてもあの可愛い華ではない。顔だけではなくて、いつもなら見えないように傷をつけているのが、今日は白い肌を捜すのが困難なほどの暴力の後が、目に付いて仕方がない。
「なんで?」
アンリは自分の中でふつふつと何かが湧き上がってくるのを抑えられず、声が震えてしまった。瞳に怒りを滲ませて、目の前にある屋敷を睨みつけたが、当然深夜である今の時間は人の気配ない。
美しい顔をわずかに歪ませて、小さく舌打ちをしたアンリは、大きくて長いローブに、華を包み込むようにして抱き上げると、そのまま月夜に溶けるがごとく姿を消した。
「こんな時間にどうしたのですか?」
もうすっかり寝る準備を整えていた聖堂の店主が、不意に姿を現したアンリに驚きつつも優しく店の中に入れてくれた。そして、アンリの腕に抱かれている存在に、あぁ、納得したように頷き、その痛々しい姿に眉根を寄せた。
「これは酷いですね」
「僕は癒しは使えません。ご主人なら何とかなるでしょうか?」
アンリの言葉に店主はにっこりと笑って頷いた。
「大丈夫ですよ。今布団を準備しますから待っていてください」
店主はそう言い残して、二階へと上がっていった。アンリは華を抱いたまま近くにあった椅子に腰を下ろす。華の体は驚くほど軽く、アンリはその体に受けていた仕打ちを考えると居た堪れなくなった。
どうして僕はこんなにこの子の事が気になるんだろう?
アンリは自分でも、分からない感情に動かされているのが気に入らなくて、整った眉を寄せた。そして、顔色の悪い華を覗きんでいると、微かに瞼が震え、うっすらと目を開けた華と目が合った。
「華?」
「……リ」
「何?」
「アン…」
そのまま、華はまた深い意識の底に落ちていく。アンリは無理には起こそうとせず、そのまま腫れ上がった華の頬をそっと撫でた。その顔は、いつもらしからぬ優しくて穏やかな表情だった。
「今、僕の名前呼ぼうとしてくれた?」
そのことが、アンリには不思議と嬉しく感じた。あんなに強気で人を叩いたくせに。そう思うとおかしくて、でも嬉しい。
「何をニヤニヤしているんですか?」
そこに背後から、からかい半分の声が届いて、アンリは思い切り眉間の皺を深くした。
「いつから見てたんですか?」
「さあ、いつからでしょう?お前も優しい顔が出来るのですね」
店主は笑うのを堪えながらアンリに言う。それにアンリはほんのりと顔を赤らめて睨んだ。
「どういう意味ですか?」
「いいえ。では、その娘さんを二階に運んでくれますか」
アンリはむすっとしながらも、華の負担にならないように静かに立ち上がり、二階へと上がっていった。
ゆっくりと柔らかな布団に華を横たえ、小さく溜息をついたアンリは、店主に向き直り、真剣な顔で問いかけた。
「華の記憶を消すことは出来ますか?」
「記憶?」
「はい。今までの記憶を全部」
店主は少し考えて、アンリを見つめ返して頷いた。
「出来ますが、お前の記憶もなくしますよ。一部だけ消すことは出来ません。残すか消すか、そのどちらかになりますが、それでもいいのですか?」
その言葉に、アンリはしっかりと頷いて返した。
「僕は元々華と出会うはずのない存在です。だから僕のことが消えてしまってもそれはかまいません」
「そうですか。では、この娘さんは私が責任を持ってお世話しましょう。この時代に混血で生きていくのはとても辛いでしょう。それはさすがに私でもどうすることも出来ませんが、ここで働いてもらうことくらいは出来ます。だから、何も心配は要りません」
穏やかな店主の微笑みに、アンリの口からわずかに安堵の息が零れた。それを店主に見られて慌てて咳払いをするが、後の祭りのようだった。
「お前がこの娘さんを気にするのは、罪滅ぼしのつもりですか?」
意地悪な声音で尋ねてくる店主を、アンリは軽く睨んだ。
「そういうわけではありません。…だから言ったじゃないですか。僕は人が好いんですって」
少々むきになって答えてしまって、それが答えになってしまったと、アンリは気まずそうな顔で店主の顔を見た。店主はその整った顔に優しい笑みを浮かべてただ笑っていた。
「……じゃあ、僕は行きますね」
すいっと立ち上がったアンリは、店主に向かって深く頭を下げて踵を返した。その耳に、
「またいつでもいらっしゃい」
と、店主の穏やかな声が聞こえた。
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