契約のキス 

4

 アンリは、一つの店の前に立っていた。夜の帳がおり始めた頃、町屋の中にそれはある。格子から、ほんのりと灯りは滲み、紫の暖簾が、戸の後ろから薄く写し出されている。
「あの人、元気かなぁ」
 ふわりと微笑んで、その目の前の戸を開けると、中には一人の男が店の品物を丁寧に並び替えているところだった。
 長い髪を後ろでゆるく結った、30歳ほどの男。目元が優しげで、なんとも柔和な雰囲気の整った顔をしてる。アンリの姿をみて、小さく驚いたように目を開くと、こちらもふわりと微笑んだ。
「お久しぶりですね」
 柔らかい話し方が見た目と合い、更に雰囲気が和らぐ。アンリはその笑顔につられるように花が咲いたような笑顔で頷いた。
「元気ですよ。ご主人もお元気そうで何よりです」
「おかげさまで。お茶でも入れましょうか?」
 店の奥にある小さな部屋に通されて、アンリは畳に胡坐をかくように座る。それを見た店主はクスクス笑いながら呆れて言った。
「お前は見た目は綺麗なのに、所作がいけませんね」
「えー。だって正座って足が痛くなるじゃないですか。僕はこの国にはまだ慣れてないんですよ」
「そうですか?慣れればそれほど辛いものではありませんよ。まぁ、別にかしこまらなくてもいいので多めに見て差し上げます」
 言いながら、店主はアンリに自分のお気に入りのお茶を点てる。滑らかな手つきにアンリはうっとりと釘付けになった。
「貴方の手は本当に綺麗です」
「それはありがとうございます。ですが、あまり見られるのは好きではありません」
「見られるのは我慢してください。僕は久しぶりに貴方と会えて嬉しくて仕方がないのですから」
「その気持ちだけで十分ですよ。ですから、どこか違うところを見ていてくださいませんか?」
 店主がお茶を、すいっとアンリに出しながら少し眉間に皺を寄せて言い、アンリはそれが更に嬉しくて笑った。
 ここは、『聖堂ひじりどう』という骨董品を扱う店だ。いつからあるのかは、アンリには良くわからない。しかも、店主もアンリ同様人外の存在であり、アンリでさえも恐れる男だ。一見は普通の人間と変わらないが、その纏う空気はとても柔らかで温かくて、そして冷たくて荘厳で、美しい。浮世離れしたそれらが、殊更店主の美しい外見を引き立たせている。
 アンリの前で、スッと背筋を伸ばして正座をしている姿は、長い髪の毛と睫毛が顔に妖艶な影を作り、男のアンリでさえ惑わされるほどのものだった。
「それで、どうしてここに来たのですか?」
 店主の問いかけに、アンリはお茶を飲みながら目だけでちらりとその綺麗な顔をみて、それから溜息をついた。
「召喚されたんです」
「召喚?お前を?」
 店主は珍しいほど驚いた顔をしてアンリを見た。そもそもアンリはとても位の高い『神』であり、召喚されるなどない存在だ。
「僕もびっくりしました。しかも悪魔を呼び出したかったとか言われて怒られるし…」
 ぼやくアンリに店主はたまらず拭き出した。口元を手で覆いながら、肩を震わせて笑っている。
「そんなに笑わなくても良いじゃないですか」
「…これは失礼しました。ですが、お前が召喚されるなんてことがおかしくて…」
「こんなことは初めてですよ。仕返しに僕を呼び出すなんてどうかしてます」
 アンリの言葉に、店主はふと笑うのを止めて、その綺麗な目元にからかうような色を見せてアンリに向けた。
「仕返しですか?それはまた面白いですね。お前は手伝ってやるのですか?」
「………まだ。決めてません」
 歯切れの悪いアンリの返事に、店主はまたクスクス笑う。
「いつもはっきりとしているお前がそんなこと言うなんておかしいですね。何事もあまり肩入れしないのに、その呼び出した相手のことが気になるのですか?」
 気になる?僕が?華を?
 店主の言葉で、アンリは自分に問いかける。
 華の実情を知ったあの日は、驚いたのは確かだった。まさかあんな目に合っている子だとは思いもしなかった。あれから数日、アンリは華の下を、華に気づかれないように訪れていた。
 一日おきに、華は母親を殺し、自分を連れ去った男に、弄ばれている。時には、男の知り合いだかなんだか分からない者達も屋敷を訪れては、華を虐げる。
 あの屋敷の異常な数の寝室は、全て花が陵辱されるために用意されたものだった。
 あそこを訪れる人間の、特殊な性癖のはけ口にされている華のその白く美しい体が、一日も無傷でいた日はない。涙が出なくなっても泣き叫び、声が嗄れてもまだ泣かせようとする大人たちの顔は、アンリでさえ嫌悪感を感じずにはいられないほどだった。
 その中心となっている男は、細身で見た目はとても誠実そうに見える人物。アンリはつくづく人間の醜さを垣間見ることになったのだった。
「何を悩むのですか?」
 店主の声に我に返ったアンリは、にこやかに見つめてくる男の顔を見返した。
「お前が感じるままに行動を起こしてもいいのですよ」
「ですが、僕は直接命を奪うことはしてはなりません」
「してはだめ、であって、出来ない訳ではないのでしょう?」
「それはそうですが、約束を違える訳にはいきませんよ」
 溜息をついて、髪の毛をかきむしるようにして俯いたアンリの視界に、大きな鎌の刃が見えた。
 本来、アンリは命を自らの手で奪うことが出来る。
 しかし遠い昔、約束をした。
 元々の残忍な自分を体の奥底に眠らせ、二度とそれを表に出さないと。その約束を忘れさせないために、薔薇の蔦が絡められているのだ。濃い緑の怪しげに絡み付くそれは、アンリを戒めるためにそこにある。
「お前が悩む姿も、なかなか可愛らしいでねぇ」
 のんきな口調でそう言って、お茶を飲む店主を軽く睨んだアンリは、小さく笑った。
「確かに、結構悩んでると思います。…結局僕って人が良いんですよ」
「今のお前は。ですけどね」
 そう言われて、アンリは肩をすくめた。
 その通りだ。
 昔の自分なら、簡単に華の言うことを聞いて、快楽のままに人を殺して楽しんだだろう。そして、華の命も虫けらのように奪ったかもしれない。それを考えると、思わずぞっとするのと同時に、不思議な高揚感も味わってしまっている。そんな自分を振り切るように、アンリはふるふると首を横に振った。
「やっぱりだめです。僕には出来ません」
 自分に言い聞かせるように言ったアンリに、店主は優しく微笑んだ。
「お前はいい子ですね。では、私の助けが欲しくなったら言いなさい。私はお前と違って約束事などありませんからね」
「え?」
 アンリは店主の言った意味が分からずぽかんとしていると、店主が意地悪な顔で、瞳に闇のそこから湧き上がるような光を見せて笑みを浮かべた。
「その代わり、浅ましく泣きついて、ちゃんと可愛くおねだりするのですよ?」
「……ご主人…」 
 あまりにも美しくて残忍なその笑顔に、アンリは背筋の凍るような思いをした。

 

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