契約のキス 

2

「あれ?どうしたの?」
 呆ける華の顔をアンリは覗き込んで、たった今まで華に触れていた、形のいい唇を赤い舌でぺろりと舐めた。それに華の意識は一瞬にして戻り、怒りで顔を真っ赤にさせて、アンリの横っ面を叩いた。
 パンッ!
 と、小気味良い音が高価な品物の溢れる部屋に響き、今度はアンリが目を見開いて呆ける。
「何するのっ!!」
 また、甲高い華の声が鼓膜を刺激する。アンリはそれに眉を顰めて華を見下ろした。
「何って、契約だけど。死神との契約はこうやってするものだし」
「ふざけないでっ。こんなことするなんて知ってたら契約なんてしなかった!!」
 大きな瞳に再び涙が浮かぶ。アンリはそれを眺めて、小さく溜息をついた。
「華もいい年頃なんだから、こんなことでそこまで怒らなくても良いんじゃない?」
 『こんなこと』が、よほど頭にきたのだろう。華は再度、細い腕を振り上げた。しかしアンリも二度もぶたれるほど馬鹿ではない。余裕の笑みを浮かべて華の振り上げられた腕を掴んだ。
「いたっ…離して!」
 少々強く掴んでいるので、華がその可愛らしい顔を痛みに歪めた。それでも、アンリのことを睨むのは止めない。アンリはその強気な顔をニヤニヤ笑いながら見ている。
「強気な女の子も嫌いじゃないけど、どうせなら僕に甘えてきてくれる子の方が好みだなぁ」
 つくづく馬鹿にされているのが華には我慢できないようだ。ありったけの嫌悪感を瞳に滲ませてアンリを見上げて、震える声で悪態をつく。
「貴方なんか嫌い!」
「へぇ?そう。別にいいけど。でも、そんなこと言ったら、もっと意地悪したくなるんだよねぇ。僕」
 アンリは目を細めながら華に顔を近づけて笑った。青白いその顔を間近に見た華の顔が引きつっている。また唇が触れそうな距離に、大きな瞳が瞼に閉ざされギュッと顰められた。
 アンリがその顔に自分の頬をくっつけて、華の耳元で、艶のある声で話した。
「僕は君の事、そんなに嫌いじゃないよ?だから、仲良くできると嬉しいな。ね?」
 吐息を耳の中に流し込むように言ったアンリは、体を強張らせて身動きできない華に、小さく笑うと、その滑らかな白い首筋に血色のいい唇を触れさせた。
「なっ…!」
 華の制止もかまわず、アンリは薄く口を開き、きめ細かい肌の感触を楽しむように舌を這わせた後、その肌にちくっとした痛みを与えた。それから腰を引き寄せていた腕を解き、華から離れた。
「僕のこと嫌いって言ったから、お仕置き。これくらいで許してあげるなんて、優しいと思わない?」
 あどけない笑顔で華に笑いかけているが、華は触れられた首を押さえてアンリを睨む。それでも、何のことだか分かっていない。それにアンリは自分の首元を細い指で示し、顎で、壁にかかっている鏡を見ろと促した。
 上質な絨毯の上を、華が怪訝な顔をしながらも、音もなく歩いて鏡に向かう。それから、アンリの示す箇所をそこに映して絶句した。
 アンリは可笑しくてたまらないと言うように、口元を押さえて笑いをかみ殺している。華は自分の肌に浮かぶ、赤く扇情的にも見える、花びらのような跡にただ言葉をなくしていた。
「じゃあ、僕は一旦消えるね。また明日か明後日来るから。…そうだね、時間は今くらいでいい?」 
 のんきな声に、華はアンリを見向きもしないまま突っ立ったままだ。
「それ、しばらく消えないから。首を隠す服を着ててね」
 クスクス笑い、アンリは小さく言葉を紡いで闇に飲まれるように、華の部屋を後にした。


「あーぁ、なんか面倒なことになったなぁ」
 山の中の、一際高い木の上で、アンリは長い足をぶらりとさせながら枝に座っている。漆黒のローブの裾がふわりと靡くのを風任せにして、長めの前髪をかき上げた。ここはどうやら山の中の小さな集落のようだと、アンリは初めて知った。それほど離れていないところに、華が自分を呼び出した屋敷が見えた。洋風のそれは、集落からいくらかはなれて、更に森の中に隠れるように建っており、そこだけ世界が違って見える。そのまま視線を流して、遠くに見える、月の明かりを水面に映す湖を見て、不意にその整った顔を曇らせた。
「あの子。夏なのになんで暑苦しい格好なんてしてたんだろう?それに僕ほどじゃないけど真っ白な肌だったし。外に出てないのかな?」
 華の白い肌と、それを覆い隠すような深い緑色の洋装。夏の陽射しが一番強いこの国の季節には似合わない格好だった。そもそも、鎖国をしているこの国での洋装自体が不思議な格好でもあるのだが。
 この国の、外国との接点は長崎くらいしか知らないアンリには、この辺鄙な場所でそんな姿の娘に、しかも死神の自分が悪魔と間違って呼び出されるなんて思いもしなかった。
「混血の子か…まぁ、悪くはないね」
 青い目が自分を睨むのが楽しくて、気分が高揚する。間違いだろうと、今ここにいるのは自分なんだから、楽しまなくちゃもったいないと思うことにした。
「誰に何を仕返ししたいのか、今度から探ってみよう。それからどうするか考えても遅くないか」
 高い木の上でこぼす独り言は、瞬く星と優しい光の月しか聞いていない。夏の風がアンリの柔らかな髪の毛をさらりと撫でて通り過ぎていった。
 アンリは、片手に持っている薔薇の蔦が絡まる鎌の刃を眺めて、そこに自分の顔を映し出すと、妖艶な笑みを浮かべる。青白い顔に似合わない血色の良い唇は、先ほど自らが噛んだ小さな傷が出来ていた。それを見つけると、途端にその顔をムッとさせ、
「この契約の仕方、どうにかならないのかな…痛いし、今日はおまけに叩かれるしさ」
 と、ふてくされた子供のような言い方をして溜息をついた。

 

 

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