契約のキス 

1

「僕を呼んだのは君?」
 すべてのものが眠りについた深夜。
 とても静かな部屋の中に、漆黒のローブを纏い、薔薇の蔦の絡む大きな鎌を持った美しい死神アンリは呼び出され、その相手に問いかけた。目の前には、艶やかな長い栗色の髪の少女が立っている。年は16,7といったところか、仕立ての良い洋装姿だ。
 アンリはちらりと、自分が今いる所を眺めた。そこは大きな、屋敷と言って良いような部屋の中。いくつもの蝋燭で明かりが灯され、ぼんやりと高級な家具や調度品たちの輪郭を彩っている。上質なカーテンが、窓から入り込む風に気まぐれに踊らされていた。
 それらを観察し終わったアンリは、自分の足元に視線を落とす。どうやら召喚されてしまったらしい。
 僕を呼び出しておいて、無視するとか…どうなってんの。
 白い魔法陣のようなものの中に立っているアンリは、青紫の美しい瞳で少女を見つめて小さく溜息をついた。
「ねぇ、何とか言ったら?」
「………う」
「え?」
 少女の言ったことが聞き取れなくて、アンリは耳を向けて聞き返した。
「違うっ!!」
 いきなり大きな声で怒鳴った少女。アンリは思わず驚いて2、3歩後ろに下がってしまった。
「貴方じゃないっ」
 顔を真っ赤にして泣き出しそうなのを堪えている少女は、大きな瞳でアンリを睨んだ。それに、アンリは少しばかりむっとした顔ではあるが、穏やかに答える。
「貴方じゃないって言われても…呼び出したのは君じゃない。っていうか、そもそも何を呼び出したかったの?」
 ニコッと、あどけない笑顔を見せたアンリに、少女は上目遣いになりながら小声で返事をする。
「悪魔」
 アンリは、ほお、と小さく声を上げてそのまま魔法陣を出た。
「それはまた穏やかじゃないね。あいつらを呼び出したら、代償は命だよ?分かってる?」
 青白く整った顔に極上の笑みを浮かべ、からかうような口調で少女をたしなめる。
「分かってる!!でも仕返ししてやりたいの」
 涙が浮かんできた目を、やや乱暴にぐいっと拭き、少女は再び長身のアンリを見上げた。
 前髪から覗くその大きな瞳はなかなか綺麗だし、顔も整っている。スタイルも良さげな可愛い子なのに、その心はとても暗い。アンリはそれを見透かして、それからふわりと微笑んだ。
「仕返しねぇ…悪魔を呼んで仕返しって、それこそ穏やかじゃないよね。でも残念。僕は死神だし、僕が帰るまでは他の者は呼べないよ?」
 楽しそうなアンリに、少女は目を見張って、直後、思い切り睨みつけた。すぐ目の前にいるアンリの体を力いっぱい押して、魔法陣の中に押しやろうとする。
「じゃあ帰って!あなたに用はない」
 アンリは弱いその力にクスクス笑いながら、一気に少女の華奢な両腕を掴んだ。そのまま少女の鼻先に自分のそれが触れるくらい近づき、顔色に似合わない血色の良い唇を優雅に笑ませながら、大きな青い瞳を覗き込む。
「だーめ。呼び出された以上は僕も何かしないと帰れないもん。悪魔じゃなくて死神で悪いけど、これも世の中の決まりなんだよね」
「何が決まりよっ。っていうか、貴方に何ができるの?」
 少女はアンリの顔が近すぎるのに戸惑っているようだ。目をきょろきょろさせながらも、口調は強いままでアンリに言った。アンリは「そうだねぇ」とのんきな声を出してほんの少し考えて、
「僕は魂の回収屋だから、まず人間を直接殺せない。それから、滅多な事がない限り、寿命を操ることもできない。仕返しのために誰かをどうにかしようなんてこともできない。後は癒しも苦手。あ、火なら自由自在に操れるよ。死神だけど、火を司どる者でもあるから」
 爽やか過ぎるほどの笑顔でそう言った。
「…役立たず」
 少女はアンリの顔をまじまじと見ながら溜息混じりに言う。
「酷いなぁ。間違って召喚の呪文を読んだのは君なのに…。あ、そうだ。約束ならできるよ?」
「約束?」
 以外にも素直な反応で聞き返した少女に、アンリは少し嬉しくなってニコニコと笑った。
「君が死ぬ時、僕が迎えに来るって約束。責任持って常世に送ってあげる」
「私が死ぬとき?…それって自殺しても?」
 またしても、穏やかじゃない言葉が出てきて、アンリは苦笑する。
「自殺はだめ。ちゃんと天寿を全うしないと常世には行けない。…どう?約束。してみる?」
 少女はしばらく考えた後、両手の自由が利かないのことに苛立ちながらも、半ば折れるように同意した。
「分かった。約束する」
 落ち着いた少女の声は透き通るようで、アンリは激しそうな気性はともかく、この声は好みだと、全く違うことを考えた。
「じゃあ、名前を教えて。僕はアンリ」
「…私は、はな
 小声で言った少女は、顔をゆがめて俯いた。アンリはそれに優しい笑顔で答える。
「華、良い名前だね」
 華は驚いてアンリを見上げた。
「ん?どうしたの?」
「私の名前、変じゃない?」
「変って?」
 アンリには華の言いたいことがわからない。キョトンとしていると、華はまた俯き加減で言った。
「私、見た目がこんなだから、日本の名前が嫌いなの」
「そうなの?僕は良い名前だと思うよ。人間には変わりないんだから」
 あっけらかんとしたアンリの言葉に、華は泣きそうな顔をしている。
「華。契約を交わそう」
「契約?」
 いきなり言われて華は戸惑う。でもアンリはお構いなしに、その美しい顔に妖しい笑みを浮かべて、白い歯で自分の唇を小さく噛んだ。
 形の良い唇から、ぷくっと赤いものが生まれる。華はそれを呆然と見ていた。この死神のやりたいことが理解できないと言った様子だ。
「これで、契約完了だからね」
 青紫の瞳が華を見つめる。そのまま近づいてきたアンリが長い睫毛を伏せた時、華の唇にアンリのそれが重なった。
 ほんのりと冷たくて心地良いと思ってしまうその柔らかな唇が、深く華に触れる。その瞬間、華は痛みで顔を歪めた。口の中にじわりと広がる鉄の味。アンリが華の唇を噛んだのだと気づいたときには、その血の味が甘い物に変わった。
 それをアンリは、華の中に流し込むように深く深く口付ける。
 蕩けるような甘さと、アンリのせいなのか、恍惚に飲まれる意識に、華は立っていることすらできなくなって、つかまるところを探すように手を動かした。アンリは華の細腰を鎌を持つ方の手で手繰り寄せ、もう片方の手で、華の右手の指を絡めた。細い指が華の指をくすぐるように絡め取る。その間でも、アンリは唇を重ねたままだ。
 二人の血が混じりあい、お互いの中に浸透していくと、アンリはようやく口付けを解いた。
 ゆっくりと華の顔を眺めて、綺麗な顔に妖艶で満足そうな表情を浮かべたアンリ。華は今まで味わったことのないような陶酔感で、ぼんやりとその顔を見返した。
「はい、おしまい」
 そう言って笑ったアンリは、いつもと同じあどけない笑顔だった。
 

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