黒い石。
黒い石。
古い街並みになじむようにその店は存在する。紫の暖簾の店は「聖堂」。
骨董屋だ。
しかし普通の骨董屋とは少し違ったところがある。その店で扱われる品は、不思議なものばかりだ。
長い髪を後ろで結った、着物姿の男。優しげな眼元が印象的なここの店主が、眉を顰めて掌に乗る黒い石を眺めていた。
これはまた…やっかいなものが来てしまいましたねぇ。
店主にしては珍しく、その整った顔に嫌悪感を滲ませて掌の石を眺めている。
男の手にしては驚くほど、その綺麗な手に乗る石。
黒くて艶やかで、静かな輝きを放つ、卵よりも少しだけ大きい石。一見すると、美しい。
しかし店主の目には、おぞましくて妖艶で、底から冷たいものを感じる石だった。
この店の不思議な評判を聞いたある骨董屋から託された石には、これまで多くの血塗られたと言っても良い出来事があったという。
いつから存在するのか分からないが、この石の周りで離縁、事故、事件、奇怪な死、裏切り、嫉妬。
他にも様々な、「悪い」ことが起きる。その差はあるものの、確実に事態は悪くなり、そしてそこにはこの石があった。
長い時間の中、たくさんの人間がこの石に触れ、災いを被って来て、そして今店主の元にやってきた。
「貴方なら、この石をどうにかして下さると思い持ってきました」
恰幅の良い、人のよさそうな骨董屋が、半ば店主に押し付けるようにして石を渡し、ロクな説明もなく帰って行ったのが今から一時間ほど前。
それからずっと、いつも座っている椅子に座って、掌に乗せた石を眺めていた。
「………貴方がたも、この石が怖いのですか?」
先ほどから店主の耳に届いている囁き、体に感じる気配に対して、面白そうに小さく笑った。
店に並ぶ骨董品たちが、いつもと違ってざわついている。新参者のこの黒い石に対して、明らかな戸惑いと恐怖を抱いている様子が、手に取るように感じられた。
「大丈夫ですよ。これは貴方がたには危害は加えませんから」
それに、これをここに置いておく気はありませんからね。
店主はできる限り石に意識を注ぎ、過去を探索した。そして、この石はもう存在するべきではないと判断した。
「こんな古くて忌まわしいものがまだあったとは…なかなか興味深いですが。でももう、人間だけで十分災いはありますのでね」
いつも穏やかで優しい店主の顔。それが瞳に冷酷な輝きを放ち、綺麗な口元が残忍な弧を描く。そして、店の中の空気が瞬時に冷たくなった。
カタカタと共鳴するように、ザワザワと逃げるように、店の骨董品たちが己の本体を震えさせる。それを見た店主は、優雅で残忍な極上の笑みを見せる。
「安心してください。貴方がたが良い子にしてさえくれていれば、私は何もしませんから」
表情とはかけ離れた、とても優しく、母親が幼子に言い聞かせるような口調で言った。それから、再び石に視線を戻し、反対側の手を上から覆いかぶせるようにして包んだ。
店主の口から不思議な言葉がこぼれる。何処の国の言葉なのか、どんな意味の言葉なのか、きっと理解出来る者はこの世にはいないだろう。
その細身ながら均整の取れた着物姿の体から、淡い光が放たれ、徐々に強く激しい光が生まれる。
掌を見つめる店主の目が一層妖しさを増して、光も呼応するように一気に煌めき、そして消えた。
自らの発した光の勢いで、少し乱れてしまった髪を鬱陶しく思いながら、店主はそっと両方の掌を離して、石を確認する。
「少し力が弱まっていてくれたおかげで、私も本気を出さなくてよかったのは幸いでしたね」
小さく安堵した様子の店主の掌に乗っていた石は、音もなく、さらさらと零れ落ちて、やがて雪が融けるように消えて行った。
店主は何事もなかったかのように、テーブルに置いていた湯呑を手に取り、ムッと顔を顰めた。
「せっかく入れたお茶が冷めてしまったじゃないですか…悲しいことです」
ため息をついて、すっかり冷たくなってしまっているお茶を一口飲んだ。
長い睫毛が影を落とすその綺麗な目だけで、店の中の骨董品たちをちらりと捉える。端正で柔和な顔が、一瞬虚を突かれたものになり、それからふわりと微笑んだ。
「あの石が何か知りたいのですか?…あれは、イザナギ様がイザナミ様と離縁された時に、黄泉の国で二人を別った岩の名残ですよ」
店主は返事もしないまま、自分の話に耳を傾ける品々を見渡して言葉を続ける。
「イザナミ様ご本人が憑いた石ならば、さすがに私でもどうにもできませんでしたが、ごくわずかな思念だけだったので、清めることが出来たのです。もうあの石が最後だと思うので安心してください。貴方がたごときが太刀打ちできるお品ではないですからね」
軽やかな口調で、さらっと言ってのけた店主に、店の中は奇妙な静寂に包まれた。それに店主は喉の奥でくつくつと笑い、
「さて、お茶を入れ直しましょうかね」
と、大きな独り言を言って、にっこりと笑って立ち上がった。
骨董屋だ。
しかし普通の骨董屋とは少し違ったところがある。その店で扱われる品は、不思議なものばかりだ。
長い髪を後ろで結った、着物姿の男。優しげな眼元が印象的なここの店主が、眉を顰めて掌に乗る黒い石を眺めていた。
これはまた…やっかいなものが来てしまいましたねぇ。
店主にしては珍しく、その整った顔に嫌悪感を滲ませて掌の石を眺めている。
男の手にしては驚くほど、その綺麗な手に乗る石。
黒くて艶やかで、静かな輝きを放つ、卵よりも少しだけ大きい石。一見すると、美しい。
しかし店主の目には、おぞましくて妖艶で、底から冷たいものを感じる石だった。
この店の不思議な評判を聞いたある骨董屋から託された石には、これまで多くの血塗られたと言っても良い出来事があったという。
いつから存在するのか分からないが、この石の周りで離縁、事故、事件、奇怪な死、裏切り、嫉妬。
他にも様々な、「悪い」ことが起きる。その差はあるものの、確実に事態は悪くなり、そしてそこにはこの石があった。
長い時間の中、たくさんの人間がこの石に触れ、災いを被って来て、そして今店主の元にやってきた。
「貴方なら、この石をどうにかして下さると思い持ってきました」
恰幅の良い、人のよさそうな骨董屋が、半ば店主に押し付けるようにして石を渡し、ロクな説明もなく帰って行ったのが今から一時間ほど前。
それからずっと、いつも座っている椅子に座って、掌に乗せた石を眺めていた。
「………貴方がたも、この石が怖いのですか?」
先ほどから店主の耳に届いている囁き、体に感じる気配に対して、面白そうに小さく笑った。
店に並ぶ骨董品たちが、いつもと違ってざわついている。新参者のこの黒い石に対して、明らかな戸惑いと恐怖を抱いている様子が、手に取るように感じられた。
「大丈夫ですよ。これは貴方がたには危害は加えませんから」
それに、これをここに置いておく気はありませんからね。
店主はできる限り石に意識を注ぎ、過去を探索した。そして、この石はもう存在するべきではないと判断した。
「こんな古くて忌まわしいものがまだあったとは…なかなか興味深いですが。でももう、人間だけで十分災いはありますのでね」
いつも穏やかで優しい店主の顔。それが瞳に冷酷な輝きを放ち、綺麗な口元が残忍な弧を描く。そして、店の中の空気が瞬時に冷たくなった。
カタカタと共鳴するように、ザワザワと逃げるように、店の骨董品たちが己の本体を震えさせる。それを見た店主は、優雅で残忍な極上の笑みを見せる。
「安心してください。貴方がたが良い子にしてさえくれていれば、私は何もしませんから」
表情とはかけ離れた、とても優しく、母親が幼子に言い聞かせるような口調で言った。それから、再び石に視線を戻し、反対側の手を上から覆いかぶせるようにして包んだ。
店主の口から不思議な言葉がこぼれる。何処の国の言葉なのか、どんな意味の言葉なのか、きっと理解出来る者はこの世にはいないだろう。
その細身ながら均整の取れた着物姿の体から、淡い光が放たれ、徐々に強く激しい光が生まれる。
掌を見つめる店主の目が一層妖しさを増して、光も呼応するように一気に煌めき、そして消えた。
自らの発した光の勢いで、少し乱れてしまった髪を鬱陶しく思いながら、店主はそっと両方の掌を離して、石を確認する。
「少し力が弱まっていてくれたおかげで、私も本気を出さなくてよかったのは幸いでしたね」
小さく安堵した様子の店主の掌に乗っていた石は、音もなく、さらさらと零れ落ちて、やがて雪が融けるように消えて行った。
店主は何事もなかったかのように、テーブルに置いていた湯呑を手に取り、ムッと顔を顰めた。
「せっかく入れたお茶が冷めてしまったじゃないですか…悲しいことです」
ため息をついて、すっかり冷たくなってしまっているお茶を一口飲んだ。
長い睫毛が影を落とすその綺麗な目だけで、店の中の骨董品たちをちらりと捉える。端正で柔和な顔が、一瞬虚を突かれたものになり、それからふわりと微笑んだ。
「あの石が何か知りたいのですか?…あれは、イザナギ様がイザナミ様と離縁された時に、黄泉の国で二人を別った岩の名残ですよ」
店主は返事もしないまま、自分の話に耳を傾ける品々を見渡して言葉を続ける。
「イザナミ様ご本人が憑いた石ならば、さすがに私でもどうにもできませんでしたが、ごくわずかな思念だけだったので、清めることが出来たのです。もうあの石が最後だと思うので安心してください。貴方がたごときが太刀打ちできるお品ではないですからね」
軽やかな口調で、さらっと言ってのけた店主に、店の中は奇妙な静寂に包まれた。それに店主は喉の奥でくつくつと笑い、
「さて、お茶を入れ直しましょうかね」
と、大きな独り言を言って、にっこりと笑って立ち上がった。
コメント